第6話 重愛の心境

「し、幸せすぎて死んじゃいそう……」


 重愛は幸せのキャパオーバーで気を失いそうだった。


 今日は朝から驚きの連続であった。

 早朝、愛は潔啓太の家の前で、彼が出てくるのを待っていた。朝の1度だけ許された啓太の近くにいてもいいその瞬間、愛は毎朝この時間が楽しみで仕方がなかった。


 まともに挨拶を返してもらったことは無いし、まともに目を合わせてくれもしない。それでも愛は毎日めげずに啓太に朝の挨拶をしていた。


 愛は啓太にまともに相手をしてもらわなくても構わなかった。なぜならこれは自分がやりたくてやっている事だから。


 啓太は自分以外の女の子が好きで、その女の子に一途だから自分に構う時間などないのだ。啓太は誠実だ。その人が好きだと思えば、その人にしか愛情を注げない。その事を愛は理解して納得していた。

 だから返事が返ってこなくても構わなかった。

 愛はそんな啓太も愛していた。


 今日も返事は返ってこない。わかっていた。少し寂しかったけれど、それでも良かった。だから今日は本当に驚いた。


 愛の挨拶を啓太は何でもないような感じで、普通に返したのだから。


 自分の心臓が高なったのを愛は確かに感じた。胸の内が幸せで瞬く間に満ちていくのを感じた。


 声を聞いただけで鼓動が高鳴る、目が合うだけで体が火照るのがわかる、幸福感で満たされる。しかもそれが全て自分に対してのものだとすれば尚更だっだ。


 挨拶を返してくれただけでも幸せだと言うのに、仕舞いには啓太から一緒に学校に行こうと誘われてしまった。


 これは夢だろうか?


 一瞬、愛は状況の整理が追いつかずに現実逃避する。だがその全てが現実で、愛は夢現で啓太と登校をすることになった。


 何を話したのか、そもそも上手く喋ることができたのか、愛は緊張しすぎて啓太との登校の内容を全く覚えていなかった。

 気づいたら教室についていて、啓太を見送っていた。


 後になって愛はそれはもう後悔した。なぜ彼との楽しい記憶を覚えていないのかと、自身を叱責した。


 とにかく今日はおかしかった。

 頭がふわふわと覚束ず、体も異様に軽く感じる。いつもなら啓太に話しかける事などなんて事ないのに、いざ彼を目の前にすると動悸が激しくなって、言葉が上手く出てこない。とにかく恥ずかしくて仕方がなかった。


 愛にとってこの感覚は久しぶりだった。エスカレートしていた感覚が麻痺して、元に戻ったような感覚だ。

 啓太のことを好きに変わりなかった。だが、愛はいつものような大胆な行動を取れなくなっていた。


 だから昼の啓太観察もバレてしまったし、放課後のストーキングも今日はせずに真っ直ぐ帰宅していた。


「本当にどうしちゃったんだろ……」


 どうして急に自分に振り向いてくれたのか? どうして構ってくれるようになったのか? どうして昔のように接してくれるのか?


 分からないことばかりだった。


 嬉しい半面、愛は素直に今日起きた出来事を喜べていなかった。

 何か、啓太の身にあったのではないかと心配になる。


 もしかしたら、ずっと警戒していたあの女に酷い目にあわされたのではないかと、勘ぐってしまう。


「それなら、あの女を潰さなきゃ……」


 黒い感情が湧き上がる。

 愛は啓太があの女を好きになってからずっと女を警戒していた。

 本当にあの女が啓太に相応しいか、過去のありとあらゆることを調べあげて、様々な女の情報をかき集めた。


 これで女が清廉潔白で啓太に相応しい女性であれば潔く身を引き、啓太の恋を応援した。

 しかし、結果は黒だった。

 女は表上は優等生であったが、裏では様々な悪事を働いていたのだ。それは虐めなどとい生易しいものでは無い。それはただの拷問であった。


 その女を好きになった男は尽く悲劇を迎える。

 そんな事を知ってしまった愛は彼に嫌われてでも啓太を助けようと決めた。

 好きな人には幸せになって欲しい。例えそれで自分が彼に嫌悪されたとしても───愛は一人茨の道を歩き進んだ。


 なんとか一年間、騙し騙しで啓太を女から遠ざける事はできていたがジリ貧だった。

 このままでは啓太は女に告白をして破滅を迎える。そう思っていた矢先に起きた今日の出来事。

 全く訳が分からなかった。


 神様のイタズラとしか思えない急展開だった。


 この状況を手放しで素直に喜んでいいものか、愛は判断に迷っていた。


「まだ様子見をする必要があるかな……?」


 かれこれ20分。愛はブツブツと独り言を言いながら同じような事を考えては堂々巡りしていた。


 日課であるストーキングをサボってのこの思案。

 答えがまとまらないのであれば、啓太をストーキングしておけば良かったと愛は後悔する。


「……ううん。今の私なら直ぐに啓太くんにバレちゃうな……」


 以前までは啓太に振り向いて欲しくて、気づいて欲しくてやっていたストーキング行為。しかし、今の愛はその真逆で啓太にこの行為がバレたくなかった。


 理由は単純明快。

 愛は自分からアプローチすることは大得意であったが、逆に相手側からアプローチされる事にとにかく耐性がなかった。

 初めは構って欲しくて続けていた数々の行動も、いざ本当に啓太に構って貰えるようになれば嬉しさと恥ずかしさがキャパオーバーして愛はまともに行動できなかった。


 今の愛は少し考える時間が欲しかった。

 しかし、当の啓太はそんなこと知ったことかと何故か愛に普通に話しかけてくる。


 これでは平静を持てる時間が全く無かった。


 だから今日はストーキングをサボってしまった。


「はあ……啓太くんをガン見したい……」


 それでも、急に日課を止めてしまえば体は異変を感じてしまう。

 キャパオーバーしていたはずの啓太への耐性が薄れて、体が啓太を求め始める。


 でも我慢しなければいけない。

 今はとにかく状況の収集と整理、精査が急務であった。


 そうはわかっていても体は反応してしまう。


「…………っ!! この感覚は───近くに啓太くんがいるっ!?」


 愛のなせる技か、愛は啓太が半径50メートル内にいればその気配を感じ取ることができた。

 そして愛は啓太の気配を察知すると、ほぼ無意識で啓太をストーキングする。


 気がつけば愛は、あれほどダメだと思っていたのに啓太の後を付けていた。


「……私って、こんなにヤバかったっけ?」


 流石に執念とも言えるこの行動に、愛は素で呆れていた。


 だが、ストーキングを始めたならば仕方がない。半ば無理やりに愛は納得して啓太の下校を見届けることにした。


 そして直ぐに気づく、啓太の隣にあの女がいることを。しかも何やら啓太は女に絡まれて困っている様子だった。


「っ!!」


 無意識に体が動く。

 気配を隠すことなく、愛はヅカヅカと啓太に接近して行った。


 大好きな啓太くんを困らせるなんて…………あの女、コロス。


 ついさっきまで抱えていた悩み事など放り投げて、愛は殺意の赴くままに歩みを進めた。

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