第5話 意味もなく放課後の教室にいるもんじゃない

 午後の授業は恙無く終わり、帰りのホームルームも気がつけば終わってしまった。本日の全ての授業が終わり、解放されたクラス内は歓喜の声に満ちていた。


 そそくさと部活に向かう生徒、今週の割り当てられた掃除区域へと向かう生徒、帰りの寄り道に向かうため下校する生徒、意味もなく教室に残って駄弁る生徒。

 放課後の過ごし方は様々だ。


「じゃあまた明日な、啓太」


「またな善、部活頑張れよ」


「おうよ!」


 目の前の男も大きなリュックサックと器用にまとめられた道着を持って部活へと向かう。


 新入生が入って来て各部活動にも活気が満ちてくる頃、善も最近はそそくさと部活に向かうところを見ると後輩が出来て嬉しいのだろう。去年まではサボりがちだと風の噂で聞いていたが、威張れる相手が出来ればそれも変わるというものだろう。

 まったく不真面目な男だ。


「さて、どうしたもんかな……」


 元気よく部活に向かった善を見送って考える。これからどうしようか、と。


 普通ならばそそくさと俺も下校するか、譎玲奈に無意味なアプローチをしに行くところなのだが、今日はどうにも直ぐ帰る気にはならないし、無駄なアプローチをする必要も無くなった。


 重愛と一緒に帰ろうかとも考えたが、どういう訳かいつも感じるはずの彼女の視線が今は感じない。このことからわかることは重は今俺の近くにいないということ。もしかしたら今日はもう帰ってしまったのかもしれない。


 この一年間、ずっと無くなることがなかった視線がない。その違和感は凄まじく。今まで当然だったこと、未来が変化していることを実感する。


「……そりゃそうか。同じ月曜日でも俺の行動は前と今じゃ全く違うわけだし。未来も変わるか」


 独り言を呟いて窓の外に何となく目線を向ける。

 少しづつ夕日の色に彩られる空は鮮やかで、ぼうっと見つめるには十分な魅力があった。


 ……ふむ。どうせ帰っても暇だし。この空を眺めながら少し考え事をしよう。

 議題はもちろん決まっている。

 それは『如何にして重愛に恩返しをするか』と言うことについてだ。


 今日、改めて重とコミュニケーションを取ってみて思ったことは『結局、俺はどうやって重に恩返しをすればいいんだ?』と言った情けないものだった。


 いや、よく考えて見てほしい。

 俺は神様のおかげで未来の惨劇を知って、その惨劇から救ってくれようとした重に恩を感じている。重の出た行動は褒められたものではなかったが俺の事を考えて行動してくれたことに変わりはない。


 それに重は明日のこと意外にも、今まで俺の事を陰ながら色々な方法で助けてくれていたという。それに俺は今まで気づかず彼女の事を邪険に扱ってきたが、知ってしまった以上はもうそんなことできない。命の恩人なのだ恩返しはしたい。


 しかし、今まで嫌っていたというのに今更手のひら返しで「恩返しします!」と言っても不審がられるだけだ。言わば今回のこの恩返しは一方的なものなのだ。俺が重に知られずに勝手にやってあげたいことなのだ。

 よく考えてみればこれはとても難しいことだと思う。


 それに俺は重の事を知らなさすぎる。

 好きな物とか、趣味とか、やりたいこととか、困っていることとか、とにかく親密度が低すぎる。

 これでは恩返しをする所の話ではない。何をしていいか全くわからないではないか。


 今までのことも含めて、俺は直ぐにでも重にこれまでの恩を返したい。しかし、焦ってはいけない。

 まずは地盤固めから始めるべきだろう。千里の道も一歩からと言うだろう。重と仲良くなり、それなりの信頼関係を築いてから恩返しをする。と言う方針でいいのではなかろうか? 結果を焦りすぎても良い結果が生まれる訳では無い。重に幸せになってもらうことは決定事項なのだ。じっくりと行こう。


「うん。何となく考えはまとまったな……」


「何がまとまったの?」


「そりゃあ、俺のこれからの輝かしい未来のことで───」


「なんだか壮大だね」


 方針が決まり納得していると横の席から質問が飛んできたので、適当に返事をする。横から苦笑が聞こえてきた。

 そこで気づく、横に誰かいるということに。


 ゆっくりと視線を外から、声が聞こえた横に移す。嫌な汗が背中を伝う。この声に俺は聞き覚えがあった。

 いや、忘れられるわけが無い。


 視界にその女子生徒を収めた瞬間、胸の鼓動が高鳴る。

 恋する男心、なんて言う甘酸っぱいものなんかではない。

 その女子生徒は俺と目が合うとニコリと微笑む。


 肩口辺りまで伸びた綺麗な黒髪、スラリと伸びた目尻は麗美で、形が整った唇は全男子の夢が詰まっていることだろう。全体的に見て顔立ちはとても整っており、学校で1位2位を争うほどの美女と言われれば納得してしまう。


 彼女に声をかけられればどんな男も心臓の鼓動は高鳴る。もちろん恋慕的な意味で。

 昨日までの俺もそうだった。声をかけられれば飛び跳ねるほど嬉しくて、なんなら執拗いぐらいに自分から声をかけていた。スマホのメッセージのやり取りだけで一喜一憂なんてのは当たり前の事だった。


 こんな距離まで近づかれたらもう内心は嬉しさや緊張でグチャグチャになっていた。

 だけど今はどうだろうか?

 不思議と彼女が横にいるというのに嬉しや緊張なんてのはなくて。

 むしろ、俺の中には恐怖が居座っていた。


 思わず体が後ずさる。


「い、譎っ!?」


「うん。みんなのクラス委員長の譎玲奈です」


 俺の慌てふためく反応を見て、譎はクスクスと可笑しそうに笑う。

 楽しそうな譎とは反対に俺は動揺していた。


 どうしてこの女がここにいる? というかいつの間に俺の横なんかに来た? なぜ俺は気づけなかった? そんなに思考に集中していたつもりは……。


 今日一日、俺は譎をさりげなく避けていた。

 理由は簡単、神様に見せてもらった映像から俺は譎にどう接していいかわからなかったのだ。譎と接触しそうになったら極力彼女から距離を取るようにしていた。


 放課後になってそれなりの用事がなければ学校に残る生徒なんて居ない。今回の俺はただの気まぐれで学校に残っていたが、譎のような友好関係が広く、人気のある生徒は放課後も引っ張りだこだ。もうとっくの前に下校したものだと思っていたが……まさかこの最悪なタイミングでエンカウントしてしまうなんて、ついてない。


「ど、どうしたんだ? こんな時間まで学校にいるなんて珍しいな? 帰らないのか?」


 崩れかけていた姿勢を正して、平静を装い質問をする。

 心臓の動悸が激しい。今すぐここから逃げ出したい。


「その質問、そっくりそのまま潔くんに返すよ。いつもは学校に残っていることなんてないのに、今日はどうしたの?」


「お、俺はあれだよ。思春期の儚い抵抗的な? たまには放課後一人で教室に残ってノスタルジックな気分に浸りたかったんだよ」


「ふふっ。なにそれ」


 俺の適当な軽口にクスクスと笑う譎。

 俺のよく知る譎玲奈だ。映像でみた彼女が偽りだったのではと思えるほど自然で、人当たりの良い譎玲奈だ。


 だが、騙されてはいけない。


「お、俺は質問に答えたから今度は譎の番。譎はなんでまだ学校にいるんだ?」


「私はクラス委員のお仕事。ちょっと時間がかかっちゃってこんな時間になっちゃった。

 帰ろうと思ったら教室に潔くんがいるの見えたから声をかけてみたの。今日は1度もお喋り出来てなかったから……」


 譎はあからさまに落ち込んだ雰囲気を見せる。そんな彼女の反応に罪悪感を覚えたが、直ぐにそれを拭いさる。


 これもきっと譎の巧妙な罠だ。

 もうほとんど籠絡しかかっていた相手が素っ気なくなったのを気にかけてこんな思わせぶりな態度を取っているだけだ。勘違いするな、騙されるな。俺はこの女に殺されかけた。


「あ、あれ、そうだっけ?

 いや〜、今日はなんかぼうっとしてることが多くてさ。あは、あははは……」


「そうだよ。私、今日は潔くんとお喋りできなくて寂しかったんだよ?」


「っ…………!!」


 少し距離を詰めてからの上目遣い。

 これで落ちない男はそう居ない。以前の俺なら確実に勘違いをして告白していただろう。

 悔しいかな、少しときめいてしまった。


「そ、それはごめん。次からは気をつけるよ……」


 俺は気取られないように身を引いて譎から距離を取る。

 なんだ? 今日はやけに話しかけてくるな。普段なら俺が話題や会話を繋げる立場なのに……これも譎の戦略なのか?


 譎の本性を、裏の顔を見ようとしすぎて疑心暗鬼になってきた。

 このまま会話が続けば、何れボロが出るのは目に見えている。少し不自然かもしれないが、無理やり撤退しよう。


 そう判断して俺は立ち上がる。


「そ、それじゃあ俺はそろそろ帰ろうかな〜。譎も気をつけて帰れよ〜」


「あ、ちょっと待って。私も一緒に帰る!」


「…………え?」


 譎に呼び止められて思考が停止する。

 まさか、ボロが出る前に撤退しようと思ったら、その行動でボロが出てしまうとは思わなかった。


「つ、詰んだ……」


 譎に聞こえない声量で絶望する。

 なんだってんで今日に限って譎はこんなに絡んで来るんだよ。


「何か言った、潔くん?」


「えっ! いや、何も!?」


「そう? それじゃあ帰りましょ」


「う、うん……」


 そうして俺は断りきれず、譎と一緒に下校することになった。

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