不審者と遭遇(前編)
兄の様子がおかしくなったのは、兄が高校に入ってすぐのことだった。
兄はとても優秀な人だった、歴代でも最強最優の勇者候補と呼ばれる実力を持ち、しかしその強さにおごらず努力を続けるし、そして何より誰にでも優しかった。
そんな兄の様子がおかしいと初めに思ったのは、妹が家に招いた佐藤という少女と偶然顔を合わせた時だった。
佐藤は「はじめましてー」と言ったあと、ふと何かに気付いたような様子で兄の顔を数秒見つめて、こう言った。
「違ったら申し訳ないんですけど、トヅカのおねーさんにあの首輪を付けたのはあなたですね」
それを聞いた兄の顔から笑みが消えた。
そして、年下の少女に向けるにはあまりにも冷たい目で佐藤の顔を見下ろす。
俺は混乱した、妹もあからさまに雰囲気を変えた兄の様子に困惑していた、というか少し泣きそうだった。
しかし佐藤は飄々としていた。
「その反応、肯定とみなします。……あんまりやりすぎちゃだめですよ」
はあ、と溜息を吐きながらそう言った佐藤に兄は口を開く。
「……君にあいつのことをどうこう言われる筋合いはないよ。それにあんなのただのおまもりだから」
「随分と物騒なおまもりですねぇ……ちなみに、あのくらいの呪いならはずせますけど」
佐藤がそう言った直後、全身が凍りつくような恐ろしい気配を感じた。
その気配を放っているのは兄だった。
顔からは完全に表情が消えていた。
「…………ああ、そういう顔されるならやめておいた方がいいですね。普通に殺されそうですから」
「……君が賢い子でよかったよ。おかげで手を汚さずに済んだ」
「わあ、こわいこわい」
兄は殺意を収めてにこりと笑う、佐藤は怖いと言いながらも全然怖くなさそうな様子だった。
兄が去った後、妹は半泣きで佐藤に縋り付き、今のは一体なんだったのかと問い詰めたが佐藤は小さく笑った後、ただこれだけを答えてそれ以外は黙秘を決め込んだ。
「どんな聖人君子にも逆鱗というものが存在する。今のは単に私が、その逆鱗に触れてしまったというだけのお話です」
その日の夜に兄から一度だけ怖い思いをさせてしまってすまないと謝られた、だけど佐藤が言っていた『トヅカさん』と『首輪』について聞いてみると少し怖い顔で「お前達は知らなくていいことだよ」と。
それ以降は何も聞けずにいた、深く聞いてしまうと何かがおかしくなってしまうような気がしたから。
そんなことがあっても、その日以降の兄の様子は今までと変わりなかった。
だからきっと、佐藤が兄に言ったことは余程のことだったのだろうと思って安心して、半分くらい忘れていた頃だった。
兄が一人暮らしを始めると言いはじめたのは。
その日は特に変わったところのない普通の日だった。
家族揃って夕食を食べていたら、兄が世間話のように「来月までにはこの家を出て一人暮らしを始めます」と。
あまりにもいつも通りに、かつどうでもいい世間話のような雰囲気で言われたものだから、自分はうっかり「へえ、そうなのか」と返してしまった。
父や母も流しかけていたが、妹が「お兄ちゃん、出ていっちゃうの」と悲しげな声で聞いた直後にことの重大さに気付いたらしく、ものすごい剣幕で兄に問い詰めはじめた。
だけど兄はいつも通りの笑みを浮かべながら「自立したいんです。……誰にも頼らず一人でも生活できる力を身につけたいと思って、それなら一人暮らしをするのが手っ取り早いでしょう?」と。
そこから先は、あまり思い出したくない。
父はものすごくものすごく怒ったし怒鳴り散らしていた。
そんな生活力を身につけるために余計な手間をかけるくらいならその手間にかける時間で修行をしろというのが父の主張だった。
母は父の味方なのでその意見に賛成して、あなたにはそんなこと一生身に付ける必要なんてないとか色々言っていた。
妹は純粋に兄が家からいなくなることが寂しかったので「お兄ちゃんがいなくなるのいやだあ」とじめじめ泣いていた。
ここまで反対されれば兄は考えを改めるだろう、と思っていたらところがどっこい、兄は考えを全く改めなかった。
父が怒鳴っても、母がヒステリーを起こしても、妹が泣いても、兄は首を縦には振らなかった。
自分としてはあの兄があそこまで言われても引き下がらなかったことにかなり驚いた。
そういうことをやるような人ではなかったのだ。
だから本気なのだろうと思った。
あの兄がそこまで頑として考えを改めないくらい心の底から望んでいたのなら、自分だけは応援すべきだったのでは、と今は思っていたりもする。
だけど当時の自分にそんなことを考える余裕はなかった。
父も母も大激怒、おまけに妹は泣いている。
父と母が怒るのはいつも通りといえばその通りではあったけど、あの怒鳴り声は聞いているだけで苦痛だし、妹は泣くし。
だから、妹をあそこまで泣かせてまで望みを通すつもりなのかと軽く喧嘩腰になっていた。
それでも結局兄は家族全員を根気よく説得して、本当に家を出て一人暮らしを始めてしまった。
そのうち戻ってくるとは言っていたけど、おそらくその言葉は嘘なのだろう。
そうでなければ、兄の部屋が今、本当に何もない空っぽな状態である説明がつかない。
兄は要領のいい人なので、一人暮らしもそつなくこなしているらしい。
というか母がヒステリーを起こしたり、起こしかけている時にあの人はいつも家事を全部引き受けていたので、そういうのには慣れていたのだろうと思う。
自分達も手伝おうとしたことはあったけど、いつも自分一人で十分だから遊んでていいよ、と。
そして兄は家事がうまかった、料理なんかは本音を言ってしまうと母のよりも兄が作ったものの方が何倍も美味しい。
だから、特になんの問題も起こさずやっていけているらしい。
兄が引っ越した直後に、妹と二人で兄が住み始めた部屋に遊びに行ったことがある。
少し高めのマンションで、随分とセキュリティがしっかりしたところであるらしい。
兄が通っている学校までの距離は実家よりも少しだけ近くなったらしい。
もっと学校に近いところに住めばいいのに、と言ったら「いろんな意味でここが一番都合が良かったから」と言われた。
引っ越したばかりだからか兄の部屋には最低限のものしかなくて、生活感がほとんどなかった。
兄が家を出て少しの間は、目立った問題は起こらなかった。
妹は寂しがっていたし、父も母もどことなく機嫌が悪そうだったけど、それだけだった。
けれども、だんだん何かがおかしくなっていった。
まず、母がひどいヒステリーを起こした。
妹と一緒に宥めようとしたけれど無理で、殴られかけた妹を庇った俺は何度も何度も執拗に殴られ、罵倒された。
それでも母の腕力はたいしたことがないし、語彙力もそれほどないのでまだ耐えられた。
殴られたことはあまりなかったから少し驚いたけど、馬鹿と間抜けと出来損ないは昔からよく言われていた言葉なので、それほど気にならなかった。
次に兄妹まとめて父の怒りを買ってしまった。
自分達は普段通りにしていたつもりだったのだが、その普段通りが気に食わなかったらしい。
兄よりも不出来な自分達は父の目から見ると随分と出来が悪い子供に見えるらしい。
自分達はだからこそ努力しているのだけど、父からするとその努力は不十分で、怠けているとすら思えるらしい。
だから散々罵倒され、兄妹仲良く一発ずつ殴られた。
その一撃はとても重くて、痛かった。
それだけなら、昔からうちでは時々あることだ。
兄貴がいないから庇ってくれる人がいなくなっただけ。
それだけならきっと耐え切れるだろうと思っていたけど、日に日に母のヒステリーも父の説教も酷くなっていくので、とうとう限界になってしまった。
助けてもらおうとは思わなかった、迷惑をかけることになってしまうから。
だけど、話だけでも聞いてほしい、できればあの二人をうまく怒らせない生き方を教えてもらいたいという意見が兄妹で一致したので、休日の昼過ぎに俺達は兄貴のマンションに向かった。
徒歩だと時間がかかりそうだったので電車で移動して数十分、駅からまた少し歩いてやっと兄貴のマンションにたどり着いた。
共通玄関でインターホンを鳴らしてみたけれど、兄貴は留守だった。
部屋番号を確かめて三回ほど鳴らしてみたが、駄目だった。
「どうする?」
不安そうな妹に「帰ってくるまでここで待つ」と言おうとしたら後ろに人の気配が。
自分達とさほど身長の変わらない、黒色に赤いリボンのセーラー服の女が外からこちらを覗き込んでいた。
クーラーボックスらしきものを重そうに持つその女は、俺達を見て面倒臭そうな顔をしている。
おそらくこのマンションの住民か、自分達と同様にこのマンションの住民に用事があるのだろう。
「あ……」
妹が慌ててインターホンから退こうとしたら、女は方向転換してどこかに早足で去っていってしまった。
悪いことをしてしまった、というような顔の妹の手をつかんで、俺はその女のあとを追うことにした。
このマンションには複数出入り口があるのだが、女は予想通り自分達がいたのとは別の共同玄関に向かっていた。
気配を消して女のあとをつけると、女が懐から取り出した鍵で共同玄関のドアを開いて中に入っていったので、ドアが閉じ切る前に身体を滑り込ませて中に入った。
「ちょ、こんなことしていいの、怒られるよ」
小声で妹に問われるが、適当に言いくるめた。
どちらにせよ兄は留守なので外で待っていても中で待っていてもさしてかわりはないだろう。
だが共通玄関が複数あるので入れ違う可能性があるし、もし父や母が自分達を探しに来たら外にいるよりも中にいる方が発見されにくい。
というふうに妹を言いくるめて、兄の部屋の前まで行くことにした。
エレベーターを使おうとしたが、そこにはさっきのクーラーボックスの女がいた。
何か聞かれたら面倒なので、階段を使うことにした。
階段を使って、最上階まで上がる。
ここの端の部屋が兄の部屋だったはずだ。
兄の部屋に向かおうとしたら、ちょうどエレベーターが来た。
誰かが降りてくる、降りてきたのはさっきのクーラーボックスの女だった。
何となく隠れて、女がこちらに背を向けたので兄の部屋に向かう。
女の部屋は兄の部屋と同じ方向にあるらしく、あとをつけているような形になってしまっている。
それでなんとなく自分達が不審者になったような気分になってしまってもやもやとした気持ちを抱えていたら、兄の部屋が見えてきた。
しかし、何故か女は立ち止まらない。
てっきり兄の隣の部屋の住民なのだろうかと思っていたが、もう通り過ぎている。
そして、女は兄の部屋ドアの前に立つ。
ひょっとして、兄貴の客か?
と思ったが、女はインターホンを無視して片手に持っていた鍵らしきものを鍵穴に差し込もうとしている。
「おい!!」
怒鳴るように叫ぶと、女が振り返った。
その首元で何かが光る、さっきは気付かなかったが女は首に紫色の石がついた黒いチョーカーをはめていた、光ったのはその石だったようだ。
「はい?」
とぼけた顔でこちらを見ている女にズンズン歩み寄って睨むと、女は目を白黒させる。
「えっと、なに?」
「そこ、オレらの兄貴の部屋なんだけど」
「お部屋間違ってる? ……じゃなきゃ、泥棒さん?」
女は目を見開いて、俺と妹の顔を交互に見た。
「あー…………」
納得がいったような、それでいて面倒臭そうな顔で女はそんな声をあげる。
あれはやましいことがある人間の顔だ。
ということは、この女は泥棒かストーカーか、とにかくそういう不審者なのだろう。
あの兄に盗みや付き纏いをしようなどとする無謀な馬鹿がこの世にいるとは思わなかったが、いるのであれば仕方がない。
女は見るからに弱そうだった、きっと自分一人もしくは妹だけでも簡単にどうにかできてしまうだろう。
なら、とっ捕まえて警察に叩き込んでやる。
そう思いつつも一応言い訳くらいは聞いてやろうかと口を開こうとしたが、その寸前に女がすっと真顔になった。
「部屋を間違っているのは君達の方だと思うぞ」
「は?」
「え?」
「だってほら、鍵もある」
そう言いながら、女はドアの鍵穴に鍵らしきものを差し込んだ。
「こうやって鍵穴に刺してくるっと回せば……ほら、開いた」
がちゃん、とあっけなく開いたドアにそんな馬鹿なと女の顔を見る。
先程は多少はやましいことがありそうな顔をしていたのに、今ではすっかりそんな様子は無くなっている。
「な? というわけで間違っているのは君達の方だったということだ。部屋番号が違うとか階数が間違っているんじゃないか? よく確認しておにーさんの部屋を探すといいよ」
じゃあな、と手を振って部屋の中に入っていく女を慌てて引き止める。
「いや待て!! ここは兄貴の部屋だ!!」
「じゃあ、なんでこの部屋を開けられる鍵を私が持っているんだ?」
「……盗んだ、とか」
女は「ふうん」と俺の顔を覗き込んだあと、こんなことを聞いてきた。
「それじゃあ一つ質問を。君達のおにーさんはそういうヘマを簡単にする人か? 自分ちの鍵を落としたり誰かに盗まれたりする、そういうおっちょこちょいのへなちょこなのか?」
「それは、ちが」
「じゃあ、ここは君達のおにーさんの部屋ではない、ということでいいな?」
……確かに、そんなヘマをあの兄がやらかすとは思えない。
女は見るからにとろそうだし、それにこの女がどれだけ凄腕の盗人であったとしても、あの兄なら軽く撃退しているだろう。
「だとすると、わたしたちの勘違いだった……?」
ぽつりと妹が呟くと、女は「そういうことになるな」と。
「ご、ごめんなさい!! 勝手に思い込んで泥棒扱いしてしまって!! ごめんなさい……」
「別に謝らなくていいよ。間違えは誰だってするし、それに君たちはまだ子供だ。……それにしても……どこぞのクソガキなんかよりもずっとずっと素直でいい子だな、君達は」
どこの誰と比べているのか、表情を和らげて少しだけ呆れたような顔で女はそう言った。
「引き止める形になってしまって悪かったな。おにーさんが待っているのだろう? 早く行った方がいい、心配しているだろうからな……ところで共通玄関で困っていたみたいだが、何かあったのか?」
「え? えっとその、あの」
うっすらと笑う女に妹が慌てる。
困っていたからアンタのあとをこっそりつけて無理矢理入った、とは言えない。
「兄貴が中々出てくれなかっただけだ」
妹がボロを出す前にそう言った。
「そうか、なら別にいいんだ。……このマンション、結構セキュリティ厳しいらしくてな……子供でも勝手に入ると……いや、関係ないからいいか」
「……勝手に入ると、どうなるの?」
「滅茶苦茶怒られるだけならまだマシ、最悪警察呼ばれるらしいぞ」
妹が引きつった顔で小さく悲鳴を上げた。
「まあ安心するといい、ちゃんと住民の許可を取って入ったのならなんのお咎めもないよ」
「そうか、なら問題ないな」
問題しかないがここで問題ないといっておかないと厄介なことになる。
妹が震える手でこちらの手をつかんできたので、いったん撤収した方が良さそうだ。
「じゃあ、オレらはこの辺で……疑って悪かったな」
「いいや。じゃあな」
ひらひらと手を振られる、妹は控えめに手を振り返していた。
そのまま立ち去ろうとしたが、ふと違和感を感じた。
本当にここは兄貴の部屋ではないのか? 自分達はそんな簡単に思い過ごすか?
それにこの女の言動、まるでこちらが自主的に、慌てて逃げ出すように仕向けているみたいじゃないか?
「待て、やっぱり待て」
「ん? まだ何か?」
部屋の中のに入ろうとした女の背に声をかけると、女はこちらを振り返る。
「二つ……二つだけ聞かせてくれ」
「わかった、だが手短に頼む。……これの中身アイスなんだ。溶かしたらおこ……面倒だから」
と、クーラーボックスを軽く振った女に問いかける。
「ああ……じゃあ、一つ目。そこは本当に、アンタの部屋か?」
「なんで? 私はこの部屋を開けられる鍵を持っている。何故疑う?」
「……アンタはそこがアンタの部屋だとは断言していない」
「わざわざ断言する必要のないことは言わないよ。……それとも、まだこの鍵が盗難品だとでも思っているのか? 君達のおにーさんはこんなちんちくりんに」
「それだ。なんでアンタは、オレたちの兄貴が鍵をなくしたり盗まれたりする間抜けではない前提で話をしているんだ?」
「…………」
女は何も言わずにじっと俺の顔を見た。
「アンタが何も知らない赤の他人だっていうんだったら、オレたちの兄がそういう間抜けではない前提で話しているのはおかしい。だってオレらがオレらの兄貴はそういうへなくちょだって言い切ったら、どうするつもりだったんだ?」
それにあの時のこの女の言葉には妙に自信のようなものを感じた、ああいえばオレたちが絶対に引き下がるだろうという、自信を。
「……で? 何が言いたい?」
「つまりアンタは、この部屋の住民ではない。でも鍵は持っている、それでもってオレたちの兄貴が間抜けじゃないことを知っている……つまり、アンタはただ単に兄貴の顔見知りで、鍵を預けられるくらいに親しい人間、ってだけなんじゃないか? ……本当にそうならなんで素直に話さないのかよくわからないが」
女の顔を見つめる。
なんの表情もない顔で見つめ返されたが、しばらくして女は深々と溜息を吐いた。
「あー、やっぱダメか……うーん、これは後で怒られる……私のせいじゃないのにきっと私が怒られる……面倒臭いな」
心底面倒くさそうな顔でそう言った女はクーラーボックスを数度叩いたあと指先で素早く何かを書き込んだ。
感じた魔力から察するにクーラーボックスに冷却魔法らしきものを掛けたようだが、見たことのない術式だった。
「……これ以上誤魔化すと余計に拗れそうだから正直に話す。弟くんの言う通り、私はここの部屋の住民ではないし、これはここの家主から受け取った合鍵だ」
観念したような顔で、女は随分とあっさりそう白状した。
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