第94話 飢餓

 暗がりの部屋に一人。

 苦しそうに息を荒らげた男が椅子にだらりと座っていた。

 深い夜。窓から差し込む月の光が視界に入る度に突き刺すような痛みが男を苛める。


 全身が疼いて仕方がなかった。

 喉がずっと乾いているような、全身が焼け燃えてしまいそうな、急激に蝕まれていくような苦しみが男を襲っている。


 隣の部屋から壁を殴りつける激しい音が響いた。同時に狂ったような甲高い奇声もだ。かと思えばしくしくと泣きじゃくる声がする。


 それを聞いて男は少し落ち着きを取り戻す。

 苦しいのは自分だけでは無いのだと安心できた。だが、そんなのも一時的な錯覚でしかない。


 思考が混濁していく。考えては霧散して、考えては忘れていく。

 何かに追われるような焦燥感が襲ってきて、どんどんと不安と恐怖が男を支配していった。


 今日は酷く不愉快なことがあった。

 だからこの最悪な気分を消し去るためにが必要だった。


「っ………!!」


 敏感になりすぎた感覚が何かを感じ取る。

 それは、このパーティーハウスに誰かが無造作に入り込んだ音だ。


 求めていたものが届いた。

 そうと分かった男は目を血走らせて椅子から立ち上がると、下のリビングへと駆け足で向かった。


 乱暴な足取りで階段を降りて、向かったリビングにはやはり灯りなんて付いていない。

 それでも直ぐにリビングに誰かがいるのは分かった。


 月明かりがいっそう強くなる。

 まるで家に入ってきたその人物を照らすかのようなスポットライト。

 外套を纏い、奧深なフードで顔を隠した小柄な男がパーティーハウスに入ってきた闖入者だ。


 男は小柄な男を見ると時間帯も気にせずに叫んだ。


「遅せぇぞ!どれだけ待たされたと思ってる!!」


「いやぁー、ごめんごめん。ちょっと野暮用があってね。許してよ……なんだか今日はご機嫌ななめだね?」


 男の怒号を気にした様子もなく小柄な男はケラケラと軽く笑う。

 全く詫びる様子のないその態度に男の機嫌はさらに悪くなる。


「うっせぇ!今日は腹立つことがあってムシャクシャしてんだ!さっさと今日の分を寄越せ!!」


「あーはいはい。分かったよ、分かったからそんなに怒らないで」


 小柄な男は無駄口を叩く暇もないのだと察して、徐に外套の中から一つの小瓶を取り出した。

 一見、何の変哲もないただの硝子の小瓶。しかし、その中には気味の悪い赤い錠剤がビッシリと詰まっていた。


 男はその小瓶を見た瞬間、さらに呼吸が苦しくなり、奪い取るように小柄な男に詰め寄る。


「寄越せッ!」


「おー怖い怖い……まるで獣だね」


 小柄な男は距離を詰められる前に小瓶を前に軽く放って事なきを得る。


 男は宙に浮いた小瓶を器用にキャッチすると、蓋を開けて乱雑に赤い錠剤を口に何錠も放り込んだ。

 ボリボリと子気味良い咀嚼音がリビングに響く。男は錠剤を飲み込む度に呼吸が落ち着いていき、不安や恐怖の支配からも逃れていく。


 完全に男が正気を取り戻したところで、小柄な男は結んでいた口を解く。


「独り占めはダメだよ?ちゃんと他のみんなにも分けてあげてね。次は3日後に持ってくるから」


「……ああ、分かってる」


「それにしても今日は妙に気がたっていたね?」


「……まあな」


「何か悩み事があるなら聞くよ?僕と君の仲じゃあないか」


 小柄な男は口元を綻ばせて親身な態度をとるが、男はその態度が気に入らずに突っぱねる。


「……必要ない。これ以上お前に借りを作るのは癪だ」


「別にこれぐらいで脅したりはしないよ〜。ちゃんと最初にした約束を守ってくれれば、僕はそれで満足さ」


「分かってる。約束はしっかりと守る」


「それなら安心だ」


 小柄な男は満足したように頷くと外套を翻して、扉に手をかける。


 リビングを後にする最後に小柄な男は振り返って、念を押すように言った。


「それじゃあ約束の件、頼んだよ。カルナ・ブレンダくん」


 その全てを見透かすような眼がカルナと呼ばれた男には気味が悪くて仕方がなかった。

 ただ頷くことしか出来ないカルナを見て、今度こそ小柄な男はリビングから姿を消した。


 ようやく落ち着きを取り戻し、気味の悪い男との取引も終わりを告げた。


 無意識に気を張っていたのか、カルナの全身をどっと疲労感が襲う。それに釣られて彼はテーブルの椅子に力なく腰掛けた。

 窓から差し込む月の光。今度はそれを視界に入れても不快感はなく。寧ろ、心が落ち着いていった。


 頭の中で思い出すのは今しがたの男とのやり取り。

 支払われた対価の分の仕事はする。あの小瓶に詰まったモノの為ならば彼はどんな事でもするつもりだった。


 それはカルナにとって自身の限界を簡単に覆すことの出来る魔法の薬。

 一度手を出せば、後はもう引きずり込まれるようにのめり込んでいくだけ。


「今に見てろよ、グレン……!!」


 忌々しい名前を口にして、カルナは立ち上がる。


 夜はまだ長い。けれど、彼には早急にするべきことがあった。

 それは男との約束を果たすための準備もあったが、差し当たっては、今も各々の部屋でこの小瓶の中のモノを求めている同士達に、それを届けることだ。


 まだ少し覚束無い足取りで、今度は静かに二階へと続く階段を上がった。


 その後ろ姿はとても小さく見えた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る