第56話 放心状態

 手放したナイフの感覚がまだありありと手に残っている。

 まるでそこだけ火傷したかのような違和感がその事実を脳裏にさらに刻みつけてくる。


「─────」


 悲しそうに僕を見つめる1人の女性。

 何か答えなければ、言わなければいけないことがあるはずなのに声は一向に出ることは無い。


 無意識に視線を目の前の女性から逸らしてしまう。しかし逆にそれが裏目に出る。


「っ!!」


 斜め下にやった視線の先に映るのは大柄な男が泡を吹いて倒れる姿。

 その首筋からは微かに血が流れて、妙に目について離れない。


 ───僕は今、何をしようとしていた?


 泡を吹いて倒れる男を見て僕は考える。


 ───そこに転がっているナイフで何をしようとしていた?


 月明かりに照らされて刃が鈍く光るナイフ。そこには確かに血が付いていた。


 さっきまで僕はこの男を───


「はぁ……はぁ……はぁ…………っ!!」


 ───確かに殺そうとしていた。


 自覚した瞬間に思考は停止していく。呼吸はどんどん荒く乱れて、息苦しくなっていく。


 感覚が無くなる。

 今僕は立っているのか? それとも座っているのか? 息をしているのか? 目の前が見えているのか? 言葉を話しているのか? 

 全部、全部わからなくなる。


 この感情はなんと言ったか?


 怒り? 悲しみ? 憎しみ? 快楽? 悔しさ? 後悔? 

 どれも違う気がする。

 この感情は────


 "結局、お前もコイツらと同じだな"


「っ!!」


 どこかから聞き慣れた声がする。

 それは実際の声なのか、はたまた幻聴なのか、今の僕には判断できない。


 ただ、その声を聞いた瞬間に体は怯えるように震えて、僕は思わずその声を否定した。


「違う───」


「……テイク?」


「───違う。違う。違う。違う……僕はそんなつもりじゃ……ただヴィオラさんの為に……彼女の為にこの男を…………」


 様子のおかしい僕を見て赤毛の女性───ヴィオラさんが心配そうに問いかけてくるが、僕はそれに反応することが出来ない。


 "彼女の?この感情をお前は人の所為にするのか?それは違うだろ。それは紛うことなき、お前の欲望エゴだ。

 結局お前も───テイク・ヴァールという人間も圧倒的な力、誰かを虐げられる力を手に入れれば、無闇矢鱈とその力を理不尽に振り翳すんだ″


「違うッ!!!」


 叫ぶように否定した僕に聞き慣れた声は言った。


 ″何が違うんだ?現にお前はその男を欲望のままに殺そうとしたじゃないか。

 お前のその力は何の為にある? 何を成し遂げるために手に入れた? 欲した?″


「あ………」


 目を背けたくても、その声は僕の腑抜けた考えを許そうとはしない。


 ″怒りに身を任せて、欲望のままに誰かを傷つける為に欲した、手に入れた力か? 違うだろ。その力は───″


「あぁ……あぁ…………!」


 その声の言っていることは正しい。

 納得してしまう。直視してしまう。自分の中に生じた矛盾に気がついてしまう。


 僕は誰かを傷つける為に力を────


「私を見ろ!テイク!!」


「っ!────ヴィオラ……さん……」


 脳内を巡る思考の波が一気に晴れる。

 ぐらりと勢いよく体が揺れて、視界が一気に開けた。


 眼前に広がるのは悲しげに涙を流すヴィオラさんの姿。

 どうしてそんなに悲しそうな顔をしているのか? 呆然と考えるがその理由はわからない。


 少しして僕の所為で彼女が泣いているような気がして、彼女に謝らなければいけないような気がして。


「ごめ───」


「ごめん!ごめんね……私なんかの為にこんなに怒ってくれて……何も出来ない私の為にテイクに全部やらせようとしちゃって……!!」


「………」


 けれどそれは遮られて、何故かヴィオラさんが逆に僕に泣きながら謝って。


 思考は依然としてボヤけている。

 状況の処理が追いつかずに、僕は目の前で起きていることが自分とは全く関係の無い事柄に思えて、妙な疎外感を覚える。


 耳元ではヴィオラさんが一生懸命に僕に謝っていて、気がつけば僕は彼女に抱きしめられていた。


「ごめんね……ごめんね……ごめんね……!」


「あ……の……」


 優しく包み込まれる感覚。彼女の体は火傷しそうに暖かくて、雨でずぶ濡れになった僕にはその暖かさがとても鮮烈に刻み込まれる。


 呆然としていた思考が……この期に及んで現実逃避を試みていた感情が現実に引き戻された。


 改めて僕は認識する。


「僕は───」


 ───人を殺そうとした。


 それはきっと殺されても文句を言えないような男だった。人の尊厳を踏みにじり、私利私欲の為に、欲望のままに生きてきたような男だったろう。


 それは正当な行為だと思う。

 怒りを向けられても仕方の無いクズ野郎だと思う。

 けれど違うのだ。


 そもそも、誰かを殺すのに正当も何も無い。

 一括りに「殺す」と言うことはその人の全てを、奪う権利が無いものまでも無慈悲に消し去ることだ。


 そんな残酷なことを1人の人間が独断と偏見で、感情に身を任せて行っていいことなのだろうか?


 僕が欲した力は……僕が手に入れた力はそんな理不尽を振り翳す為のモノなのだろうか?


 否。


 僕はそんなことがしたくて力を欲した訳では無い。誰かを傷つけたくなんてない。例えそれが傍から見れば理不尽ではなくても、殺されて当然な人間でも。


 この力は彼女アリシアの隣に堂々と胸を張って並び立つ為に欲した力だ。


 その力で怒りのままに誰かを殺して、僕はこの夢を叶えることが出来るのか?

 胸を張って彼女の隣に並び立てるか?


「───そんなわけない」


「テイク?」


「……すみませんヴィオラさん、勝手なことをして───」


 僕はヴィオラさんの体を軽く抱きしめて謝る。


 僕がさっきまでしようとしていたことは彼女が本当に望んでいたことなのか?

 違うだろ。僕の耳元で大声で泣いている女の子はこんなことを望んではいない。


 とてつもなくお人好しで、優しいこの人は決して自分を苦しめ、人生を滅茶苦茶にした極悪人でさえ死んでいいなんて思っていない。


 それを勝手に僕が怒りに身を任せて……。


「───本当に、ごめんなさい……」


「私の方こそ……ごめんね!!」


 僕が謝るとヴィオラさんは腕の力を強めてさらに大声で泣いてしまう。


 ここが人気の無い路地裏で助かった。

 夜にこんな大声で泣いてたら近所迷惑所の話ではない。

 泣かせてしまった僕に責任があるのだけれど、本当に良かった。


 ようやく思考は落ち着き取り戻して、同時に押し寄せてきた安堵感によってそんな呑気なことを考えていると目の前に1人の老人が立ちはだかった。


 その隣にはルミネの姿もあって、彼女は僕とヴィオラさんを恨めしそうな目で睨んでいた。


 眉間にシワのよせて異様な雰囲気を放つエルフの少女に、僕は改めて自分の今の状況を思い返す。

 状況的に仕方がないとは言え、いつまでも女性と抱き合っているのはどうなのだろうか。多分、ルミネはそんな感じのことを言いたいのだろう。


 僕は直ぐにヴィオラさんから離れようとするが彼女は依然として泣きじゃくり、一向に離れる気配は無いし、がっちりと僕をホールドして離れてくれない。


 あたふたと困っていると今まで無言だった老人は不意に口を開いた。


バガ共が世話になったな、テイク・ヴァール」


「え、あ、あの……あなたは?」


言いたいことがある。申し訳ないがちょっと着いてきてくれ」


「は、はい……」


 妙に威圧感のある老人の言葉に僕は頷くことしか出来ず。依然として泣きじゃくるヴィオラさんを抱えながら立ち上がる。


 少し前を歩く老人は思いのほか背丈が高く。その脇にはいつの間にか全身を拘束されて気を失っているアイアンが抱えられていた。


 大柄な老人が大柄な男を抱えて歩く異様な光景に気圧されながら僕達は黙って老人について行った。

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