第379話 おリボンがスルーン事件

 にゃんごろーが、ひとりきりで後部デッキへと出るのは、これが初めての経験だった。


『にゃんごろー、ひとりだけで』


 たったそれだけのことで、世界は違って見えた。

 見たことのある景色のはずなのに、初めての場所のように思えた。

 自分ひとりの力で、誰も訪れたことのない未開の大陸へ足を踏み入れたかのような高揚感に包まれた。

 誇らしげなお顔で「むん!」と胸を反らし、潮風を受け止める。

 誇らしげな割には、何かあってもすぐに船内に駆けこめるように出入り口の前に陣取ったまま動こうとしないのはご愛敬だ。


 海の向こうには、もくもくの白雲がキラリと光を弾いていた。

 けれど、にゃんごろーがいる青猫号の真上の空は、薄っすらと棚引くような雲すら見えない、底抜けの青だった。

 “お空”には、死んだネコーたちが暮らすネコーの国があると言われている。古くから、ネコーの間で伝わる御伽噺で、子ネコーのにゃんごろーにとっては真実だ。“お空”に行ったネコーたちは、残してきた誰かを見守ったり、分かたれてしまった誰かとの再会を喜び合ったりしながら過ごし、やがて。各々が各々のタイミングで、再びネコーとして生まれ変わったり、或いは世界を巡る魔法の風になったりするのだ。

 にゃんごろーは、五にん兄弟だった。けれど、その内三にんは、“お空”へと旅立ってしまった。最初のひとりが旅だったのは、まだ赤ちゃんネコーの頃のことだったので、その子はもう、“お空”の国を卒業しているかもしれない。でも、後から“お空”へ行ったふたりは、きっとまだ、“お空”からにゃんごろーたちのことを見守ってくれているはずだと、にゃんごろーは信じていた。地上に残されたにゃんごろーとにゃしろーのふたりがおとなになるまでは、見守ってくれるはずだと信じていた。

 だって、もしも先に“お空”に旅立ったのがにゃんごろーの方だったとしたら、間違いなくそうするはずだからだ。

 にゃんごろーは、首元のリボンがよく見えるように、空に向かって胸を反らした。

 鏡に映ったおリボン姿を見ているだけでも嬉しさが滲み弾けて仕方がなかったのだけれど、せっかくだから、他の誰かにも見て欲しくて、青猫号の中をウロチョロと歩き回った。「似合っている」と褒めてもらえるのは、嬉しくも誇らしかった。鏡からでは得られない喜びがあった。そうしている内に、窓から、綺麗に晴れ渡った空が見えて、それで。


 にゃんごろーは、“お空”にいるみんなにも、ミルゥからもらった白いリボンを見てもらいたくなったのだ。

 ミルゥにあげたお守りの石。にゃんごろーが魔法で作ったお守りの魔法石。そのお礼としてミルゥからもらった白いリボン。

 それは、魔法を頑張ったご褒美のようにも感じられて。それで、だから。

 “お空”の兄弟たちに、魔法修業の成果として報告したくなったのだ。

 にゃんごろーも頑張っているよ、とみんなに伝えたくなったのだ。


「みんな、みえる? にゃんごろー、まほーのしゅぎょー、がんばってるんだよ! まほうのいしで、おまもりをつくって、ミルゥさんに、プレレントしたの! そうしたらね! ミルゥさんが、おれいにって、このおリボンを、くれたの! えへへ! にゃんごろー、がんばった! これは、その、あかし、でもあるから、みんなにも、みてほしかったんら!」


 蝶々むすびにされたリボンの端をお手々でちょいちょいいじりながら、にゃんごろーは空を見上げる。

 魔法の修行報告も兼ねているので、一にゃー前なところを見てもらおうと発声魔法にも気合が入っている。ここには、にゃんごろーしかいない。拙い方が可愛いと言うクルーたちにサービスをする必要はないので、にゃんごろーは発声魔法の上達ぶりを存分に見せつけた。多少のブレは、まあご愛敬である。


 リボンを触っている内に、もうちょっとだけ頑張りを見せつけようか、という気になってきた。リボンが、にゃんごろーに勇気を与えてくれたのだ。リボンを通じて、ミルゥの勇気がにゃんごろーの中に流れ込んできているように感じられた。


(にゃんごろーには、ミルゥさんが、ついている!)


 にゃんごろーは、キリとお顔を引き締め、「うん!」と自分を鼓舞するように頷くと、両手でリボンの端をいじりながら、壁を背にして、にじにじと手すりの方へと進んでいく。お船の魔法が守ってくれるから安全だと長老が太鼓判を押したデッキ上ではあるが、無防備に背中を晒すのは、やはり怖いのだ。

 キリキリと大真面目な表情となめくじの真似をしているような行動が合っていなかったが、臆病……もとい慎重派な子ネコーとしては、これが精いっぱいだった。

 それでも何とか、手すりまで到着した。

 手すりは、にゃんごろーの頭よりも高いけれど、鈍銀色の棒を組み合わせた手すりなので、視界は良好だった。ひゅるひゅると潮風も通り抜けてくるが、魔法の力を張り巡らせて、ガラスとは違う透明な魔法板で風を遮ることも出来るのだと長老が言っていた。

 風でおひげが揺れ、リボンの端も揺れた。

 ひゅっと突風が吹き抜けた。


「ひゃうっ!?」


 にゃんごろーは驚いて身を屈めた。

 リボンの端が、風にあおられて暴れている。

 宥めようと奮闘したが、何がどうしてそうなったのか、リボンがしゅるんと解けていく。


「ああー……。しぇっかく、ミルゥしゃんに、むしゅんでもらっちゃのに」


 にゃんごろーは焦って結び直そうとしたが、焦ったのが良くなかったのだろう。リボンは完全に解けて、白い紐になってしまった。

 突風は、止んでいた。

 長い紐になったリボンは、ひら・ゆらと緩く棚引いている。


「……………………」


 白い色が、雲のようだったから、だろうか。

 にゃんごろーは、無意識の内に、白いリボンを空へと翳していた。

 抜けるような青空に、白いリボンはよく映えた。


(これなら、きっと、みんなからも、よくみえる)


 ひら・ゆら……と青空を背にゆるうりと踊るリボン。

 時折、キラ……と日差しが跳ねた。

 長細い雲のようにも、細長い白銀の魚が空を泳いでいるようにも見えた。

 後から“お空”に旅立ったふたりは、とてもヤンチャな子ネコーだったから、にゃんごろーの首元に蝶々になって大人しくしているリボンを見るよりも、きっとこの方が喜ぶだろう、とにゃんごろーは顔を綻ばせた。

 “お空”のふたりが、これを見て喜んでくれるなら、にゃんごろーも嬉しい。

 もっと良く見せようと、にゃんごろーは、お手々を高く、高く掲げた。

 折り悪く、その時突風第二弾がちょっかいをかけに来た。

 白いリボンは、風の誘いに乗り、にゃんごろーのお手々から逃げ出した。

 解き放たれた魚のように、長い体をくねらせながら空を泳いでいくリボン。


「…………ぁ!」


 小さく叫んで、子ネコーは駆け出した。

 風と一緒に遠くへ遊びに行こうと、無断でお手々を抜け出したリボンを追いかけた。

 勝手に体が動いていた。

 無意識の内に、魔法も使っていた。

 逃げる白リボンを、本物の猫さながらの俊敏さで追いかけるにゃんごろー。

 しかし、解き放たれた白いリボンは、楽しそうに踊りながら空を泳いでいく。

 本当に、白銀の細長いお魚になってしまったかのようだった。

 お魚は元気よく、デッキの……手すりの向こうへと飛び出していく。


「ちょあっ!」


 無意識の魔法で、子ネコーは素晴らしいジャンプを決めた。

 手すりに足をかけ、あんなに恐れていた船の外へと、大きくジャンプを決め、大空へと飛び出していく。


「や、やっちゃ!」


 お爪の先が、ひらりと舞うリボンの端を捉えた。

 子ネコーのお顔が歓喜に輝く。

 しかし、白いリボンは「まだ帰りたくないの」とばかりに、スルンとお爪をすり抜けて、空の向こうへ泳いでいく。

 捕まえたと思った白銀の魚は、振り返りもせずに空へと逃れ、にゃんごろーのことなんてすっかり忘れた様子で、空の向こうへお出かけしていく。

 未知なる世界を目指して、歌うように踊るように身をくねらせながら、遠いところへ旅立っていく。


 きっと、もう。戻って来ない。


 置いて行かれたことが信じられなくて、信じたくなくて、子ネコーはただ、お目目を見開く。

 手を伸ばしても、白いリボンは、どんどん遠ざかっていく。

 どんどん、見えなくなっていく。

 子ネコーの体は、お尻から落ちていく。

 落ちている自覚もないまま、ただ、空に向かってお手々を伸ばす。


「この馬鹿っ! 何をやってるんだよ!?」


 聞き慣れた声で、叱られた。

 リボンは完全に見えなくなって、代わりに見慣れたお豆腐助手のあまり見慣れない血相を変えた顔が映る。

 たまたま外にいたクロウが気づいて、ギリギリで滑り込みが間に合って、地面にたたきつけられる寸前の子ネコーのお尻をキャッチしたのだ。

 クロウによって、子ネコーのお尻は守られた。

 けれど――――。

 見開かれたままの子ネコーのお目目に、ぶわっと熱いものが迸る。


「う、うわあああああんっ! おリボンっ! ミルゥしゃんに、もらっちゃ、おリボン! おしょらに、おしょらに、いっちゃっちゃぁああああっ! う、ううっ! ろーしちぇ、ろーしちぇえええ! こんな、こんにゃ……っ! ふ、ふぐぅっ! ううぅうー! うわあああああんっ! おリボン! おリボンが……っ! ふぅうううっ……」


 空に向かって絶叫すると、にゃんごろーはお尻を守ってくれたクロウの手から飛び降りて、地面にうつ伏せた。

 白が混じった明るい茶色のもふもふした固まりが、ふるふると震える。

 乾いていた地面が、ほたほたと濡れていく。

 子ネコーが降らせた雨は、地面に小さな水たまりを作った。


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