第288話 空の青、海の青

 ホロンと零れた子ネコーの涙が、ホタリと床に落っこちて。

 まるで、それが合図だったかのように、見通せるようで見通せない青い壁が、たゆんと揺れた。

 青い壁に波が走る。

 たゆたゆたゆーんと白く光る波が走る。

 空のようだと思っていた青が、海の青に成り代わる。

 ザパンと波音が聞こえてこないのが、不思議なくらいだ。

 子ネコーの涙が、お空に海を呼んだのだろうか?

 呼び寄せた子ネコーは、涙でお目目が滲んでいるのと俯いているせいで、涙が呼び寄せたのかもしれない不思議に気がついていない。

 涙目子ネコー以外のみんなは、息を呑んで、壁としてのアイデンティティーを揺るがせながら揺れている青……否、碧に見入っている。

 そのまま、本当の意味で碧に吸い込まれてしまった者がいなかったのは、幸いだったかもしれない。


『…………***……**……』


 呆けていると、揺蕩う壁の向こうから、何かの、誰かの、声が聞こえたような気がした。


「ほ、ほぇ?」

「あら?」

「えっと……?」


 項垂れていた子ネコーが、ようやっとお顔を上げた。子ネコーたちは三にんそろって、壁に向かってお目目をパチパチ。示し合わせたわけでもないのに、三にんそろって、青く波打つ壁に向かって、もふもふお手々をそっと伸ばす。

 水面にお手々を伸ばした時のように、碧の中に沈んでいくものだとばかり思っていた。子ネコーばかりでなく、周りで見守るおとなたちも。

 けれど、お手々は、タシンと壁に行き当たった。

 お手々の周りに波紋が広がっていくのが見える。だけど、お手々が中に浸かることはない。トプンの不思議は起こらないようだ。

 諦めきれない子ネコーたちは、乱暴にならないように気をつけながら、壁をタシタシと叩いてみる。


 タシタシ。たゆたゆ。

 タシタシ、タシン。たゆたゆ、たゆゆ~ん。


 お手々に合わせて、ざわめくように波紋が生まれて、広がっていく。けれど、トプンなことにはならない。トプンなことは、起こらない。


「あはははは! おもしろーい」

「ううーん。不思議な素材ですね。魔法石の材料にしてみたいです。あ、でも、もしかして。この壁自体が、魔法石の仲間なのかも?」


 壁の向こうにいる誰かのことを知らないキラキラコンビは、不審な声のことを忘れて新しい不思議に夢中になった。

 キララは、笑いながら壁をタシタシしたり、お手々をグルーリして、波紋が織りなす不思議を追いかけ楽しんでいる。

 キラリは、魔法好きが発動して、不思議そのものよりも壁の素材考察を始める始末。お顔をキリリと引き締めているが、こちらもやはり楽しそうだ。

 ただ、にゃんごろーは、壁に変化が生じたからこそ、トプンを諦められずにいた。お手々をトプンして、三にんでお顔もトプンして、せめて、せめて。

 キラキラのふたりにも、不思議さん……精霊さんのことを知ってほしかった。

 そこに眠っているのは青猫号の精霊さんなのだと知ってほしかった。


「ふしりしゃん、ふしりしゃん! おともらちに、にゃれにゃくちぇもいいきゃら、ごあいしゃちゅらけれも……。キララとキラリにも、ちゃんと、ホントのこんにちはを、しちぇほしーにょ。おちょもらちは、むりれも、おしりあいに、なっちぇほしーの。ふしりしゃん、おねらいしましゅ。うぅ、ほんちょは、おちょもらちにも、にゃりちゃーい!」


 にゃんごろーは、ポロポロと涙を零しながら、タシタシと壁を叩いた。

 その声が、それともタシタシの振動が届いたのだろうか。


 フアッと大きく碧が揺らいで。

 それから。

 見通せなかった碧が、見通せるようになった。

 まるで、強大な水槽が現れたかのようだった。


 透明なガラスの向こう側で、女の子が丸くなって眠っている。

 水の中で丸くなって浮かんでいる少女。

 水色の長い髪が、海藻のように揺らめいている。

 白銀の、体にピッタリと吸い付くような服。


『…………むにゃ、うにゃ……にゃ……』


 声が聞こえた。

 透き通るような、甘く冷たい声。

 今度は、さっきよりもはっきりと、寝言らしき声が聞こえた。


 ザンッと白い筋が走った。

 そして、そうして。


 水槽のガラスは、元通りの奥が見通せそうで見通せない青い壁になった。

 それは、海の碧ではなく。

 空の青だった。


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