第27話 グレイ



「──復讐してやる。いつかきっと、あいつら全員……殺してやる……!」



 怨嗟に染まった低い声。死の間際に叫んだ比類なき憎悪。英雄と呼ばれた男、アリカ ブルーベルの最期。彼は情けなく声を振るわせ、必死になって叫んだ。


「そうか。けど残念ながら、お兄さんは……ここで死ぬ」


 そんな英雄を処刑する1人の聖女。彼女は普段とは似ても似つかない慈愛に満ちた声で、優しく笑う。


「バイバイ、英雄。あんたはいい男だったよ。……ただ、産まれる世界を間違えたね」


 剣が迫る。死が、心臓を掴む。


「…………」


 最後に彼は思った。


 もし次があるとするなら、別に才能なんてなくてもいい。優れた頭脳も、カッコいい顔もいらない。幸福なんて贅沢品は、1つだって必要ない。


 だから、



「もし次があるなら、決して折れない剣になりたい」



 それが、英雄の最後の言葉。全てを持って産まれ、全てを失くした英雄が最期に望んだのは、復讐の刃になること。



 ……けどそれは、何に対する復讐なのか。



 信用していたのに裏切った幼馴染、ティアへの復讐か。そんなティアに協力し嘲笑った、アニスへの復讐か。全てを奪っていった紛い物の英雄、ハルトへの復讐か。魔剣の力を失った途端、手のひらを返した騎士団の連中への復讐か。



 或いは、その全てか。



 定まらない剣は弱い。それでは、決して折れない剣にはなれない。剣に余計な機能はいらない。ただ、必要なものを必要なだけ斬れればそれでいい。


 だから、想像する。


 自分を陥れた人間を、1人ずつ殺していく様を。泣き叫ぶティアの首を斬り飛ばす。狼狽えるアニスの心臓を串刺しにする。高笑いするハルトの身体を斬り刻む。加害者の癖にどこまでいっても他人事なこの世界の住人を、片っ端から殺していく。



 最悪の悪役となって、この世界に復讐する。



 きっと自分がその気になれば、天使なんて及びもつかない怪物になれるだろう。この世界を地獄に変えられる。想像するだけで、胸がすく。きっとそれ以上の快感なんて、この世のどこにもない。



 だから自分は、この世界を害する悪の剣になる。



「──筋書きを、なぞったような思考だな」



 と、誰かが言った。それが誰なのかは分からない。そもそも自分が誰で、ここがどこなのか。どうして自分が、こんなことを考えているのか。何1つとして、分からない。


 けど、筋書き。誰かが決めたルール。物語の道筋。まるで運命のように、悪役であることを強制される。



 それは果たして、本当に彼が望んだことなのだろうか?



 泣いている子供を助けた。死にたくないと叫ぶ誰かを助けた。生きたいと願う、多くの人々を彼は救った。数え切れない程の感謝が、確かにあった。


 彼は傲慢で不遜でなんでもできる完璧の癖に、そういう人たちの笑顔を見るのが好きだった。戦場の最前線で誰よりも沢山の死を見てきた彼は、それでも人が死んだら訳もなく悲しくなる。そんな当たり前の感性を、決して捨てようとはしなかった。



 彼は最期に、決して折れない剣になりたいと願った。



 でもそれは、何を斬る為の刃なのか。誰のために振るわれる剣なのか。……本当に、全てに復讐する為に、彼はそう願ったのか。それだけで、本当にいいのか。正しく斬るべき相手は誰なのか。


 英雄になるのか。悪役になるのか。両方は選べない。けれど、どちらの想いも捨てられない。それは誰かの思惑ではなく、確かなこの胸の叫び。


 ……ああ、そうか。


 はたと、気がついた。それでいいんだと思った。この信念は、この刃は、他の誰でもなく自身の為にあって。誰かの為の英雄ではなく、誰かが望んだ悪役でもない。



 ──私は確かに、ここにいる。



 それに、気がついた時。彼の本当の願いに気づいた時。私の意識は、闇の中から引き上げられた。


「おはよう、おにいーさん。調子はどうだい?」


 響く声。心底から楽しげに笑う聖女。鉛のように重い身体。中身がない甲冑の肉体。心臓のように重い大剣。存在しない脳髄に刻まれた、英雄の過去。英雄の想い。


 潔白な英雄と、真っ黒な復讐心が混ざり合った灰色グレイという新しい名前。正しく人を守る者ではなく、闇雲に人を殺す悪鬼でもない。英雄でも悪役でもなく、アリカ ブルーベルでもない。他の何者でもない決して折れない剣。



 それが、グレイ




「──我が祈りをけんに」


 甲冑にヒビが入る。何者でもない灰色。決して折れない剣から生まれた、決して壊れない筈の漆黒の殻。真っ黒な復讐心が詰まった、怨嗟の結晶。


 それが今、音もなく壊れる。


 魔剣とは、祈りの力である。祈りとは想いであり、信念である。己を1つの世界とし、自身の在り方を書き換える力。神のいないこの地に、祈りだけが剣となる。


 魔剣の深度とは、どれだけ深く自己の世界に没頭できるのか。どれだけ強く、自分の世界を保てるのか。それを測る指標である。強い魔剣使いは、皆、独善的で強い我を持つ。恣意的で、どこまでいっても自分本位なアニスやティアの魔剣が強力なのも、それが理由。


 しかしグレイは未だに、自身の世界を理解していない。彼の深度は状況によってとても不安定で、自分でも上手く力をコントロールできない。そんな状況で無茶をすれば、決して折れない剣である筈の彼は、容易く折れるなまくらへと落ちる。



 しかし、世界の危機で折れるような英雄はいない。



 英雄の魂を持つ彼は、敵が強ければ強いほど自身の力を高める。人の死をただ悲しいと感じる英雄の魂が、難敵を前に叫びを上げる。


「──っ!」


 眩い光が辺りを染める。ノアは思わず目を瞑る。


「…………」


 色持ちの天使、リゼンノートはそんな状況をただ静かに眺める。先程グレイがつけた傷は、既に回復している。それどころかその傷をつけたグレイを脅威と認識し、彼女の魔界の力が更に強まる。


 1秒前とは別人のように成長し続ける怪物。そんな彼女にとって、その程度の光は視界の妨げにもならない。……けれど、そんな彼女をもってしても、光の奥が見渡せない。そこに何がいるのか、理解できない。


「あはっ」


 だから、彼女は動かない。楽しげに口元を歪め、胸の内で殺意を高鳴らせる。早く出てきて殺させろと、彼女はただ笑う。



 すると、声が響いた。



「英雄の帰還……などとは言わんさ。私はアリカ ブルーベルではない。その名はもう、捨てた名だ」


 聴こえた声は、確かに先程までのグレイと同じ。けれど、雰囲気が違う。その声には尊大な自信と、深い慈愛に満ちている。


「私は剣。私は灰色。……しかし、お前が見るのは黄金だ。何故なら私は、思ったからだ。あの少女を、死なせたくないと。この私を心配してくれた彼女を、守りたいと願った。それが今の私の祈りであり、それが……折れない剣である」


 光が収まる。漆黒の甲冑が完全に砕け散る。全てを覆う漆黒の殻。その中から生まれたのは、潔白の眩い黄金。死してなお、折れない英雄。


「ああ……」


 知らず、ノアの目から涙が溢れる。ずっと会いたかった。もう一度だけ、その背を見たかった。少しでいいから、触れてみたかった。……彼を殺した世界を恨んだ。復讐を誓った。守られるだけ守られて、最期には薄情にも見捨てたこの世界の全てを憎んだ。



 けど、確かに今、眩い黄金が……。



「誰だよ、お前」



 と、天使は言った。



「──貴様を殺す者だ」



 英雄グレイは端的に、そう答えた。


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