第21話 願い



 狭間と呼ばれる巨大な穴。まだ誰も踏み入れたことがない、未踏の地。辺りは湧き出る黒い霧に覆われ、一歩先の景色も見えない。酸素は既にほとんどなく、重力も地上の10倍以上。普通の人間なら足を踏み入れた瞬間に命が消え、精鋭揃いの騎士団でも、まともに活動できなくなるような地獄。


「………………ない」


 そんな地獄の底から、ポツリと小さな声が響く。


「ない。ない。ないないないないないにいないにいない、ない……!」


 叫ぶ声。声だけで辺りの地形が壊れる。地獄の底のような環境なんて気にも止めず、少女は闇より深い真っ黒な髪を掻き乱し、狂ったように叫び続ける。


「ない! どこへやった……! あの子の……リーリヤの心臓を盗んだのは、誰だ!」


 闇から湧き出るように現れた白い腕が、辺りの壊れた地形を更に壊し尽くす。不意に産まれてしまった天使や、狭間の奥で息を潜めていた天使。それらはまとめて、その少女に殺される。


「…………」


 その少女から、まだ距離のある場所。崖の小さな窪みに身を潜め、ハルトは静かに少女を見つめていた。


「なんだよ、あいつ……」


 通常の人間なら、霧が邪魔をして見えない筈の距離。それほど離れた場所でも、魔剣で強化された人間の身体なら少女の姿が見える。……つまりそれは、あの少女がいつハルトに気がついてもおかしくないということであり、ハルトは乾いた笑みをこぼす。


「じょ、上等じゃねーか。あれがこの狭間の主って訳か」


 前の天使の大襲撃の時、ハルトはかなり上位の天使を何体も倒した。更に彼にはゲームの知識があり、皆が恐れている色持ちの天使や、その色持ちの天使をも凌ぐラスボスの正体だって知っている。それら全ては主人公によって倒されるということを、ハルトは既に知っている。


 だから、何が居ようと負ける筈がないと思っていた。ゲームで見た何が出てこうようと。例えゲームでも見たことがない化け物であったとしても。自分なら絶対に勝てると、ハルトはそう信じていた。


 ……なのに、斬りかかることができない。


「くそっ。なんで震えてやがる……」


 天使はどうしてか人類と同じ言語を持ち、ある程度ならコミニュケーションを取ることができる。それは色持ちの天使も例外ではない。なのに目の前の少女は、ただ暴れ、ただ叫び、ただ狂っている。


 周囲すらも狂わすような、その声。聞いているだけで、頭の中から脳みそが溶けていくような錯覚に襲われる。ここより近くであの声を聞いたら、いくら騎士団の副団長であるハルトでも、無事では済まない。


「でも、ここで逃げる訳にはいかねぇんだ」


 今からあれに背を向け全力で逃げれば、帰ることはできるだろう。それで狭間の奥に化け物がいたと報告すれば、大手柄だ。噂に過ぎなかったものに確証を与え、具体的な対策を練ることができる。そこまでの成果を出せば、ハルトを誉める者はいても貶す者などいないだろう。


「でもそれじゃ、英雄にはなれない」


 アリカ ブルーベルなら、ここで逃げたりはしない。ここで逃げたら、永遠に彼には勝てない。


「……よしっ」


 魔剣を握りしめ、深呼吸をする。……大丈夫、奴はまだこちらに気づいていない。不意を突きこの刃さえ当ててしまえば、どんな生物でも両断することができる。


 最強の魔剣。どんなもので斬れる魔剣。実力差なんて関係なく、当たりさえすればどんな存在であったとしても殺せる。再生や蘇生なんてつまらない能力ごと、その魔剣は両断する。最強の力。


 ハルトは魔剣を握りしめ、静かに地面を蹴った。


「ああ、どこだ! 心臓! 心臓! リーリヤの心臓! あれがないと、あの子が生きられない! あれがないと、私は生きられないのに……! 誰が、盗んだ……!」


「……っ」


 響く声。精神が溶け出すような不快感。それでもハルトは足を止めず、ゆっくりと少女に近づく。



 不意に、真っ黒な瞳がハルトを見た。



 何の気配も発していない筈なのに、どうしてか少女が振り返る。世界を沈めるような狂気が、ハルトの身体を飲み込む。


「かっ、あっ……」


 声にならない声を上げ、それでもハルトは剣を振り上げる。対する少女はとても静かな目で、ゆっくりとハルトの方に近づく。……もう、逃げられない。


「はぁ……はぁ」


 心臓が痛い。なんなんだこの化け物は。こんな奴がいるなんて、俺は知らない。なんで英雄を超える筈の俺が、こんなガキみたいな女を恐れなければならない。


 まるで死の直前のように、ハルトの思考が加速する。


 勝つのは俺だ。俺は凡人とは違う。俺は英雄なんだ。誰も俺に逆らえない。皆は俺を讃えなきゃならない。みんなが俺を必要として、俺はまた皆の中心になる。そしてその後、何人もの女を侍らせ、騎士団の団長になって、この世界は俺のものに……なるんだ!


「……そうだ。俺はもう、モブなんかに戻らない。あんな惨めな人生を送るくらいなら、俺は──!」


 決死の覚悟。今までにないくらい冴えた一撃。ハルト ライラックという人間の……いや、何の意味も見出せず1人で死んだモブと呼ばれた人間の、全てが詰まった一撃。


 その一刀を前に、少女は静かに言った。





「……そうか、上か」



「…………え?」


 少女はハルトの攻撃になんて目もくれず、何でもないことのように空を見上げる。その瞬間、闇から這い出た白い腕が、ハルトの身体を突き飛ばす。


「あっ……」


 そのまま情けなく、尻餅をついてしまうハルト。少女はゆっくりと、そんなハルトの方に近づく。


「や、やめろ! 来るな! 俺はあの騎士団の副団長、ハルト ライラックだぞ! 俺はお前みたいな天使を何体も──」


「そうか。人間がリーリヤの心臓を奪ったのか。それは、考えもしなかった。……あは。あはははは。あははははははははははははははははははははは! 殺してやる。殺してやる! 皆殺しにしてやる! 糞虫供……!」


 天使は地面を蹴って、そのまま地上へと向かう。ハルトは尻餅をついたまま、ただその背を見上げることしかできない。


「……は、ははっ」


 下半身が濡れている。自分でも気づかないうちに、失禁していたようだ。髪が汗で肌に張り付く。腰が抜けて、立ち上がることもできない。最強である筈の魔剣は地面に転がり、目からは大粒の涙が溢れる



 ──相手にも、されなかった。



 死闘のうちに敗れるなら、まだ許せた。圧倒的な力によって惨めに殺されるのであれば、ギリギリ許せた。でも現実は、違う。……相手にも、されなかった。殺す価値すらないと、そう思われた。



 あの少女にとって、自分はただのモブに過ぎなかった。



「はははははははっ!」


 笑う。笑うことしかできない。ティアやアニスが結託して、アリカ ブルーベルを殺したのは知っていた。ゲームの知識があるハルトは、彼女たちが彼に嫉妬しているのを理解していた。


 だからその嫉妬を煽った。彼女たちが1番言われたい言葉で褒め、1番言われたくない言葉で煽った。それが、英雄の死。ただただ正しく、ただただ優しくあろうとした彼の人格を理解していながらも、ハルトは英雄を蹴落とす道を選んだ。



 前世で報われなかった自分が、今度はヒーローになる番だ。



 許されている筈だった。こうして自分が好きだったゲームの世界に転生したのは、やり直しのチャンスを神様が与えてくれたからだ。誰かの影に隠れて幸せになれなかった自分が、今度は誰かを蹴落として幸せになる。



 それが、正しいことの筈だ。



 どんな人間にも、幸せになる権利はある。俺は間違っていない。一度目の人生はこの世界で成功する為の、踏み台でしかなかったんだ。ここで俺は、英雄になる。平穏な生活がいいなんて負け惜しみは捨て、ありとあらゆる手段を使って主人公になる!


 その筈なのに……!


「……くそっ。くそっ! くそっ……!」


 圧倒的な捕食者を前に、情けなく小便を漏らし、腰が抜けて立ち上がることもできない。そんな情け無い姿を晒しても、少女は自分を敵だとすら思わなかった。


 それはハルトにとって……どこまでも特別でありたかった少年にとって、1番堪える現実だった。


「俺は結局、どこまで行ってもモブなのかよ……!」


 辺りの霧が濃くなる。空気が徐々に重くなる。けれどそれでも、ハルトはもう立ち上がることができなかった。



 そして。




「──我が力をよるに」




 少女……漆黒の翼を持ったその少女の魔界が、国を覆う。その日、地獄の蓋が空いた。


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