名付
「ツィン殿」
と、その場で言ったのは当代だった。彼女がこの邑の支配者である。次の代に位を譲る日が来るまでは、だが。
「申し訳ないが、しばし場を外して頂けませぬか」
と言われてしまっては、どうしようもない。私は社から外に出た。すぐ外は広場になっている。特別な日であるので、広場には灯火が焚かれていた。普段はこの邑ではこんなことはしない。
とりあえず手帳に書き付けなどをしていると、やがてしばらくして、村の老人のひとりが社の中から現れた。
危惧していたことが起こった、と思った。その老人は、‟黒い方の赤ん坊”を連れていた。丁重に扱っている、という風ではない。ぞんざいに、手の先でぶら下げていた。
「その子をどうするのです?」
私はきっぱりと老人の前に立ち、言葉を発した。
「森に捨て、神の意志に任せます」
そんなことになるだろうという気はしていた。実のところ我々の帝国でも、帝王の子が双子として生まれ、片方が殺されたり幽閉されたりするという例は、そんなに珍しくはないということが歴史を学んでいれば分かる。
「念を押して聞きますが、捨てるのですね?」
「はい。……仰いたいことは、分かります。そうです。捨てるだけです」
「そうですか」
そうして、老人は、赤ん坊を神の意志に任せた。
彼らの神話体系についての研究はまだ進んでいないので、彼らの神がこういう場合にどのような判断をするのかは分からない。だが、私の信仰する神はこのようなとき、無垢なる命が失われることを座視するようにとは説かない。従って、私は。
「念のため……乾燥乳を荷物に入れておいてよかった。まさかこんなものをこんな形で使う事態が訪れるとは」
人でもエルフでもない赤ん坊を育てた経験はないが、黒い羽根を持った赤ん坊はそれでも私の胸に縋りつき、私の差し出した匙の先から乾燥乳を啜った。当代は胸部に膨らみがあるからおそらくこの段階での育て方は鳥より哺乳類に近いのだろうと、私は判断したのである。そしてそれは正しかった。
続いて、もう一つのことが分かった。赤ん坊が成長するペースは、我々の種族はもちろんのこと、人よりもなお遥かに早かった。私の持ってきた乾燥乳一瓶が空になる頃には、既に与える食事は離乳食へと移っていた。
当たり前だがもちろん、邑の者たちも、当代も、私が何をやっているかは把握している。はっきりと敵意を向ける者はないが、このことを始める前よりは、明らかに私を取り巻く邑の空気は変わったようだった。しかし。
「るぅ。おなかすいた」
私はこの子供に、イカロスという名前を付けた。その行為の持つ意味は、もちろん分かっているつもりだ。責任を持つつもりがないのなら、名前など付けてはいけない。人の社会でもエルフの慣習でも、そんなことは常識であった。
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