第14話 新石器時代

 地球の歴史上で最も直近の新生代の第四紀(259万年前~現在)は、ヒトという種を地球全体に拡散させ、繰り返し訪れた氷期が地形に残した恒久的な痕跡は人類史の行く末に極めて重大な意味合いを持っていた。文明の物語全体は現在の間氷期(1万4000年前~現在)に展開してきた。人類の物語におけるこの根本的な移行の背後にあった地球の影響力に目を向けると、それは野生植物の栽培化と野生動物の家畜化、そして農業の出現である。

 2万年前から1万5000年前までの間に北半球は再び温暖化し始めた。広大な氷床は融けだして後退し始め、最終氷期の凍結した時代は終わりに近づいた。北アメリカでは融解する氷床からの流水の大半は、後退する氷床の基底に堆積した岩屑の尾根の背後にせき止められるようになった。これによって広大な溶解水の湖が形成され、その最大のものはアガシー湖と名づけられた。1万3000年前にはアガシー湖はカナダと北アメリカの50万平方キロほどの面積にまで拡がった。現在の黒海とほぼ同じくらいの面積だ。やがて、自然のダムが決壊して途方もない量の氷床の水が大規模な洪水となって溢れ出し、北極海に注いだ。せき止められていた水が突然放出されたことで、世界の海水面がたちまち急上昇することになった。

 しかし、そこから1万キロほど離れた地中海東部沿岸のレヴァント地方に発達しつつあった文化にこの事態が与えた影響の方がはるかに甚大なものだった。氷床が後退する間に森林が再び乾燥したステップと低木帯の広大な一帯に取って代わり、河川は増水し、砂漠は縮小した。温暖で湿潤な状況になると、緑豊かな植生が生い茂り、草食動物の個体数が増えた。レヴァント地方の土地には野生のコムギやライムギ、オオムギが繁茂し、森林が復活してきた。この地に世界で最初の定住生活を築いたと思われるナトゥーフ人と呼ばれる集団が現れた。しかも、定住し始めたのは農業が発達する前からだった。彼らは石と木造りの村に定住し、野生の穀類を集めたほか、森から果実や木の実を拾ってきてガゼルを狩猟した。だがこの黄金時代は長くは続かなかった。

 1万3000年前ごろ、急激な気候変動が西アジアのこの地域と北半球全体を襲い1000年以上続いた。これがヤンガードリアス期 (1万2800年前~1万1500年前)として知られる晩氷期で、そのために気候は急速に悪化し、数十年の間にひどく寒冷で乾燥した状態へ戻っていった。氷期の状態へのこの唐突な揺り戻しを引き起こした原因は、アガシー湖の水のセントローレンス川から北大西洋への流出だったと考えられている。この広大な湖の水が突如として流出したために、北大西洋は淡水によって蓋をされた状態になり、一時的に海洋の循環パターンが停止に追い込まれた。今日、世界の海洋は水を勢いよく循環させるベルトコンベヤーを動かしており、それによって赤道からの熱を極地へと運ぶ。これは海水の温度と塩分濃度の違いが原動力となっているため、熱塩循環として知られる。


 現在の地球の姿がほぼ出来上がったのは、このヤンガードリアス期(1万2800年~1万1500年前)が終わった1万1500年前ごろのことである。気温が上昇すると、狩猟採集生活を営んでいた人びとが、農耕によって暮らしを立てられるようになった。それまでの数十万年に比べて、この1万年余りは気候も安定していた。そのおかげで、1万1000年前ごろに農業革命とそれに伴う新石器時代が起こり、その後5000年ほどを経て、都市を築くことを覚えて、文明誕生へとつながっていった。その文明誕生までの5000年間に文化的な生活に必要な要素である衣・食・住がすべてそろった。新石器時代は考古学的に言えば、石を砕いただけの打製石器に代わって、表面を滑らかに加工した磨製石器が用いられた時代であるが、「新石器革命」と呼ばれるほど重要な変化が人類の生活に起こった時代でもある。新石器革命はあるとき突然始まったわけではなく、前の時代である旧石器時代の人びとの行動や集団のあり方がゆっくりと根本から変化しその地域に広まっていくことによって起こった結果である。

 ここでいう新石器革命の年代は、先頭を切った西アジアを基準としている。その後、エジプト、インド、ヨーロッパ、中央アジア、中国などが続いた。世界の地域によって大きな時間差があった。


 考古学者の中にはこのヤンガードリアス期 の晩氷期がナトゥーフ人を狩猟採集民としての暮らしに背を向けさせ、代わりに農業を発達させるきっかけとなったと考える人もいる。生き延びられるだけの食べ物を集めるために遠くまでさ迷い歩く代わりに、彼らは種子を持ち帰り地面に植えたのだ。これが栽培化の最初の一歩だった。ナトゥーフ村の遺跡から見つかった大きなライムギの種はこうした発展の兆候として解釈されてきた。もしその通りだとすれば、ナトゥーフ人は世界で最初の農耕民ということになる。人類の暮らしを恒久的に変えることになる発明は気候の急激な変化がもたらした困難から生まれたのだった。彼らはすでに定住した文化を築いていたため、この最初の農耕体験を試せる特別な状況にあったのかもしれない。とはいえ、地球が最終氷期後の間氷期にヤンガードリアス期の晩氷期を経て温暖化すると、数千年の間に世界各地の人びとがそれに倣うようになった。およそ1万1000年前から5000年前にかけて農業は少なくとも7ヶ所、西アジア、中国、アフリカ、南米、北米、中米、そしてニューギニアで、それぞれ全く無関係に農業を始めた。


 現生人類は6万年ほど前にアフリカの外へ移住し、地球の隅々まで拡散した。しかし、農業と定住への最初の永続的な一歩が踏み出されたのは1万1000年前ごろの「新石器革命」と呼ばれる移行が始まってからだった。北アメリカの氷床は急速に縮小していたが、地中海東部の肥沃な三日月地帯で最初の作物が栽培化され、そのすぐ後に中国北部の黄河流域でも栽培化が始まった頃にはカナダの半分以上がまだ氷に覆われていた。わずか数千年間のうちに世界のその他のいくつかの地域でも同じことを始めていた。農業は北アフリカのサハラ砂漠南縁部一帯のサヘルにも、メソアメリカ(中央アメリカ)にも、南アメリカのアンデス地域にも、北アメリカ東部の森林地帯にも、ニューギニアにも出現した。最終氷期の時代を10万年にわたって狩猟採集しながら生き抜いた後、地球が温暖化するにつれて世界のさまざまな場所にいた人びとは農業と文明という道を歩み始め、それが人類を恒久的に変えたのだ。

 氷期の地球は全般的に乾燥していたが、農業の発達が妨げられるほど乾燥していない地域もあった。阻害要因はおそらく、気候が害を及ぼすほど寒くて乾燥していたことではなく、むしろ極めて変動しやすかったことだろう。地域ごとの気候と降水量は突如として激しく移り変わることがあった。人類のその後の歴史においても地域的に気候が乾燥化して農業に行き詰まれば、インダス文明やエジプトの古王国、古典期のマヤ文明のように十分に根づいていた文明でも崩壊した。


 現在の間氷期は気候が比較的安定した状況を特徴とするが、それは過去50万年間で温暖な気候が最も長く安定して続いている時代である。最終氷期後に大気中の二酸化炭素濃度が上昇したことは植物の成長を促し、地球全体に影響を及ぼした。それが世界各地でほぼ同時期に農業を発達させた理由なのかもしれない。地域的にそのような温暖で湿潤な状況が安定して続き、大粒の種子をつける穀類が確実に生産できれば、人びとは広い範囲を歩き回るよりは、自分たちでいくつかの特定の植物を栽培して定住する気になっただろう。間氷期はまるで農耕民のための必要条件であったかのようなのだ。

 農業が発達すれば、土地を耕し作物を育てるために絶えず働かなければならないとはいえ、それを採用した社会には多大な利益をもたらした。定住した人びとは狩猟採集民よりもずっと早く人口を増加させることができる。子供を担いで長距離を移動する必要はないし、離乳食を利用し乳児をかなり早くから乳離れさせることができるので、女性がより多くの子を産むことができる。また農耕社会では、子供が作物の手入れや家畜の世話を手伝うことも、幼い兄弟姉妹の面倒を見ることも、家で食べ物を加工する手助けもできる。農耕民は新たな農耕民を非常に効率よく生み出すのだ。原始的な技術しかなくても肥沃な土地であれば、そこを狩猟や採集に利用した場合に比べ、10倍は多くの食糧を生産することができる。しかし農業は罠でもある。農耕を始めて人の数が増えれば、狩猟採集のような単純な生活様式に戻ることは不可能になる。増えた人口が農耕に全面的に依存して、すべての人に行き渡るだけの食糧を生産するようになり、後戻りすることはできない。また、そこからもたらされる別の結果もある。農耕によって人びとが高い人口密度で定住するようになると、すぐに大きく階層化された社会構造が発達し、狩猟採集民と比べて平等さが失われ、富や自由の格差が大きくなる。

 今日、我々人類のほとんどは何とか飢えずに生活している。我々の食べ物が栽培植物と家畜の生産によってもたらされたという歴史は普段あまり意識されていない。魚やエビ、キノコ類のような野生の食べ物ですら、しばしば栽培化され養殖化されている。人間が哺乳類の一番上、つまり食物連鎖の頂点を占めているのはこうした食べ物の供給に頼っているからである。狩猟や採集による野生のものだけでは、現存する世界のどんな小さな社会においてさえ生きていくことは難しくなっている。食料供給を行う農業の発展は1万年以上にわたって続き、現在も継続している。農耕の歴史的重要性は、農耕が過去1万年間の人口増加、特に文明化の究極的な経済基盤となってきた点にある。


 では、人類の繁栄にとって欠かすことができない食物の栽培化と動物の家畜化を伴う新石器革命は、いつどこで始まったのだろうか? 1万4000年前ごろに氷期は終結し、地球は温暖な間氷期(後氷期)に入っていった。気温は全地球平均で約6℃上昇し、北米大陸にあった巨大な氷床が融けて消滅した。この1万年前の大きな気候変化の前を更新世(164万年前~1万1700年前)といい、後を完新世(1万1700年前~現在)と呼んでいる。この移行期に人類を取り巻く自然環境は大きく変化した。高緯度地域を覆っていた巨大氷床は縮小し、世界中で海水面が上昇した。各地で植生に変化が起こり、多くの大型動物たちが姿を消した。人類はそれぞれの自然環境に合った新しい適応戦略を発達させた。

 西アジアでは、現在のイスラエル・レバノン・シリア・イラクにあたる「肥沃な三日月地帯」と呼ばれる地域で農耕が同時に確立したと考えられている。当時、この地域では比較的雨が多く、今日世界各地で最も利用されている作物の原種である野生の穀類や豆類、木の実などが豊富に自生していた。現在とは比べものにならないほどの豊かな土地だった。さらにヒツジ・ヤギ・イノシシ・オーロックス(家畜ウシの祖先)なども生息していた。1万4500年前ごろ、現在のイスラエルを含む地中海東岸にあたるレヴァント地方にナトゥーフ文化を持った狩猟採集民が現れ、エンマーコムギ・オオムギ・ドングリ・アーモンドといった植物を利用した。やがて彼らは定住化し集落を作るようになった。ナトゥーフ文化後期の1万3000年前~1万2000年前にかけて、世界的な気温の低下が起こり、西南アジアでは降雨量も減り、乾燥化が進んだ。この時期に、定住化していた人びとが食物の栽培を始めた。その後、人びとは栽培技術を向上させ、品種を改良し、農耕を発展させた。やがて、メソポタミア南部の乾燥した大地で、治水や建築技術などをさらに発展させた集団がメソポタミア文明を興すのである。



(レヴァント地方の先史時代初期の考古学的遺跡)


 先史時代初期の考古学的遺跡は少なくとも150万年前からレヴァント地方の至る所で見つかっている。ホモ・エレクトスの仲間であるホモ・エルガステル(働く人)がレヴァント地方にやって来たのがその頃だった。さらに違うタイプのヒト族がその後に続く、50万年前からはホモ・ハイデルベルゲンシス、25万年前からはネアンデルタール人である。

 これはすべて気候の変化による降水量の増加に対応したもので、その時のレヴァント地方は狩猟や採集に最適で、飲み水にも事欠かない豊かな河畔の森林地帯を形成していた。最も注目すべき遺跡は、ガリラヤ湖の数キロ南に位置しているイスラエルのウベイディア遺跡で、この遺跡には150万年前から85万年前の間に、初期の人類が繰り返し訪れている。そこには何千というおびただしい数の石器とともに、シカの骨やすでに絶滅種となっているカバの骨などが残されていた。しかし、湖畔にはハイエナやライオンが徘徊するため、まだ火の使用を知らなかった初期の祖先たちにとって、そこは一時的なかりそめの場所だった。

 ウベイディア遺跡から20キロほどティベリアス湖畔を北へ行くとオハロ遺跡がある。オハロ遺跡は最終氷期のピーク時である2万年前に狩猟採集民が生活していた最も保存状態のいい遺跡である。2万年前にはネアンデルタール人やそれ以前のヒト族の種はすべて死に絶えており、世界はホモ・サピエンスに占領されていた。象徴能力と音声言語という先行する人類に追加された利点を持つ現生人類のホモ・サピエンスがレヴァント地方へやって来て恒久的にそこに留まるようになったのは4万5000年前である。2万年前のオハロ遺跡が存在していた当時は氷河時代だったためにティベリアス湖の水位はとりわけ低かった。そして次の数千年の間には、温暖化し雨量も増えた。湖の水位は上昇し、たまたま野営地の瓦礫がれきやソダ(木の枝)で作られていた焼け焦げた小屋の残骸を水浸しにした。そのおかげで、遺跡は水によって腐朽から守られた。1989年の干ばつで湖の水位は9メートル下がり、遺跡が再び姿を見せた。6つの住居跡が発掘され、そこには野草、果物、ナッツ類の種子がおよそ100種、木製のひき臼の周りで厚い層を成していた。ガゼルの猟が行われ、遺跡ではそれらが解体されていた。魚は湖で捕獲された。おそらく植物繊維で編んだ網を使って捕ったものだろう。当時の狩猟採集民は親族の絆で結ばれた25人~50人の比較的小さくて動きやすいグループを構成していた。そのため彼らは常に水資源の近くに定住することが可能だったし、それが枯渇しても、他の場所へたやすく移動することができた。

 1万4000年前に氷期が終結し間氷期へと移行すると、北東風が止み、大西洋と地中海から湿った空気が流れ込み降水量が増えた。この「氷河期後期、亜間氷期」として知られる1万4000年前~1万2800年前は気温が著しく上昇し、温度も高くなった。その影響は植物性の食物や野生の獲物を各段に豊富にさせ、狩猟採集民たちが食糧を求めて新たな土地を絶えず見つけなければならない必要性を軽減させた。この時代の遺跡には、2万年前のオハロ遺跡に比べてはるかに大きな石壁のある遺跡がいくつか見られる。そこには墓地もあった。大きな石臼やり石は、野生の植物の採集とその処理が盛んに行われていた証拠だ。そして新たな彫像や身の回りの装飾品は社会組織の変動を暗示している。それは富と社会的地位を有する個人の出現である。これは絶えず移動し、財産を集積することのできない狩猟採集民には起こりそうもないことだった。このような特性を持つ遺跡は初期ナトゥーフ文化のものと見なされている。食糧はなお野生の植物や動物に依存していたし、水資源も相変わらず完全に自然の水利に依存していた。1万4500年前までさかのぼるアイン・マラハ遺跡はこの典型的な例である。そこでは地元の泉に依存していた。泉は飲み水を供給するだけでなく、おびただしい魚が泳ぐ池を作り、池は渡り鳥を呼んだ。おそらく定住していたと思われる。しかし、この生活はそれほど長くは続かなかった。最大で2000年ほどだっただろう。1万2800年前には晩氷期と呼ばれるヤンガードリアス期が戻ってきた。

 1500年の間、寒冷で乾燥した状態が続いた後に、再び気候がもとへと戻り、現在に至るまで続いている。およそ1万1500年前、地球規模で気温が急激に上昇し、これが氷河時代を決定的に終焉させた。それがもたらしたのは、我々が現在享受し、最初の農耕社会の出現にとって重要となる比較的温暖で雨の多い安定した気候だった。レヴァント地方の狩猟採集民の反応は、1万4500年前のそれに酷似していた。より大きく、より定住に適した集落の再登場である。それに伴ってあらたに行われたのが豊富な植物性食物、とりわけ野生の穀類の集中的な開発だった。その中には我々が現在食しているオオムギやコムギの原種が含まれていた。

 イギリスの女性考古学者キャスリーン・ケニヨンが、1950年代にエリコのテル・エッ・スルタンを発掘していたとき、この時代のものと思しき最初の遺跡を発見した。ケニヨンが発掘作業をしていた時、すでにヨーロッパでは新石器時代が最初の農耕集落の時代だったことが確認されていた。ケニヨンはテル・エッ・スルタンの基底で見つけた建造物や遺物と、ヨーロッパ新石器時代の最古層から出土したものとの間に、多くの類似点を見出した。しかし、そこには一つ重要な差異があった。土器の不在である。土器はヨーロッパ新石器時代を定義づける重要な要素の一つだが、テル・エッ・スルタンの基底には土器の痕跡がなかった。土器は今も発見されていない。したがって、ケニヨンは自分の発見を、PPNA(Pre-Pottery Neolithic)、つまり「先土器新石器時代」に属するものとした。テルというのは、長い年月の間に古代の集落跡が幾層にも重なってできた塚のことで、当然のことながら、上層ほど新しく、下層にいくほど古いものが残されている。


 ***


ここからは歴史時代の年代と整合性をとるため「BCxxx年」表示とする。


 先土器新石器時代A期(PPNA)(BC9500年~BC8500年)

 先土器新石器時代B期(PPNB)(BC8500年~BC7000年)


 レヴァントにおけるナトゥーフ文化期(BC1万2500年~BC9500年前)後の先土器新石器文化期には、さまざまな文化的要素が初めて見られる、あるいは明確に現れ始めた。そして先土器新石器文化のすべての社会が狩猟採集民から農耕民の様式に変化しつつあった。そのさまざまな文化的要素というのは、


1.集落の規模が大きくなった。集落規模から見て、BC8500年ごろまでには定住していたのは明らかだ。初期の3ヘクタールから、終期には16ヘクタールという、ほとんど都市のような規模に達するものもあった。

2.日乾レンガを使用し、それまでの円形家屋から間仕切りされた方形家屋へ徐々に変化した。方形家屋はそれ以降古代世界の基本的な建築様式となった。また石灰プラスターを壁や床に使うようになった。

3.モニュメントや共同利用施設がいくつかの大きな遺跡で出現した。例えば、アナトリア南東部のギョベクリ・テペ(BC8300年~BC7200年)やネヴァル・チョリで出土した動物や人のレリーフが刻まれたT字型石柱。

4.女性土偶の広まり。それは性的象徴と多産という側面を際立たせている。

5.共同埋葬施設の出現。

6.細石器に代わって磨製石斧、フリント製の鎌刃、ドリルのような尖頭器が広く普及した。特に鎌刃は穀粒を刈り取ることに使用された。


 後期にあたるPPNB期(BC8500年~BC7000年)にはヒツジやヤギという最初の家畜動物と併せて、栽培作物にますます依存していったことが明らかになっている。またBC7000年までには煮炊き用の土器が広範囲に普及した。土器製作には焼成技術が必要であり、この技術革新がその後の金属精錬へとつながったと考えられる。当時の遺跡は、泉、湖、川筋などの水源近くに立地していた。これらのうちいくつかの遺跡では、野生穀類が自生する地域から離れていたので、野生穀物を持ってきて栽培する必要があった。


 形態的にみて栽培型の穀類の最初の拡がりはBC8500年ごろになって初めてみられる。これはヤンガードリアス期やナトゥーフ期よりも数世紀遅れる。栽培化の過程がどのように進行したのかは正確にはわからないが、次の3つの人間活動が明白に関わったと考えられる。


1.鎌による収穫法の採用。これにより非脱落性の選抜がなされた。

2.鎌で刈り取られた穀粒を野生種のある場所から離して植えた。

3.植物が部分的あるいは完全に熟すまで収穫を遅らせ、非脱落性の穂の種子が増えていった。


 西アジアの環境は壊れやすいものである。人間集団が引き起こす一つまたは複数の要因、例えば人口増加、森林伐採、耕地開発、動物の放牧などが、さまざまな土地荒廃や植生後退、塩害、土壌侵食などの資源劣化を引き起こす。西南アジアの先土器新石器時代の遺跡が歴史時代まで存続した例は稀である。最大級の遺跡であるレヴァント地方のエリコやメソポタミア北部のシリアのアブ・フレイラなどでさえ放棄された。500年の間アブ・フレイラの人びとは身近な場所にすぐに利用できる植物性食物があった上に、食肉も確実に手に入った。食肉の80%は砂漠のガゼルのものだった。ガゼルは初夏になると牧草を求めて谷間に移動してきたので、それを狙って仕留めることができた。こうした食糧源、ガゼルの移動、春の野草、秋の豊富な木の実はみなアブ・フレイラの人びとに予測しやすい食べ物を提供していた。しかし、BC9000年ごろ次第に深刻さを増す長期の干ばつがアブ・フレイラを襲った。環境悪化の激しい時期は先土器新石器時代の後半にあったが、それは気候の乾燥化と人間活動の両方によって助長された。環境悪化のような出来事があると、人びとは新天地の探索へと向かう。

 ある研究者は、レヴァントのPPNB期(BC8500年~BC7000年)の人口をナトゥーフ文化期の16倍と推定している。PPNB期には、すべての繁栄した新石器文化によく見られるような爆発的拡散の傾向と、地域性の顕在化という二つの対照的な要素が見て取れる。ヒツジ、ヤギ、ウシ、ブタの野生種は狩猟の激化によって数を減らしたため、PPNB期の終わりまでには家畜化された。PPNB文化と見なされる多くの文化的特徴は、年代的にも地理分布的にも北から南への流れを持っている。つまり、北のアナトリアから南のレヴァントへの流れであるが、一方ではPPNB文化の際立った特色の多くは南レヴァントで知られている。


 多くの人にとって新石器革命という概念は、栽培植物を伴った農耕の起源を指している。それは西南アジアではBC9000年~BC8500年ごろのこととされている。事実、経済的な革命はそのころには存在しており、その存在なくして後の文明は生まれなかった。しかし、この革命にはまた別の側面がある。それは農耕中心の生活様式を起源地のはるか外まで拡散させたことである。この拡散において本質的に重要なことが二つある。


1.土地の疲弊による地域的な資源枯渇

2.マメを飼料に使用するようになったことにより、動物の家畜化の重要性が高まった


 どちらも人間と動物の押しとどめられない増加を反映している。PPNB期はヒツジとヤギに特化した牧畜が始まった時期にあたり、また目前にせまる一連のメソポタミア文明の土台となる初期の都市の下地となった時代でもある。後続する文化にはウバイド、ウルクや、BC3000年紀の輝かしいシュメール、アッカド、エラムの諸文明があげられる。これらの文明が発展したメソポタミア低地は、ウバイド初期の灌漑農民によってBC6000年ごろから植民された。彼らの経済や文化的伝統の多くはPPNB文化から受け継がれたものである。

 ところが、PPNB期を過ぎると経済や文化の下降期を迎えた。レヴァントのBC7000年~BC6500年の様子にはこのことがはっきりと見て取れる。レヴァントの大型遺跡のうち次に続く土器新石器時代(BC7000年~BC5800年)まで継続的に居住されたものはほとんどない。土器が広く普及したBC7000年ごろには遺跡の多くは放棄されるか縮小した。これはおそらく乾燥化によるものと思われる。

 一方、BC6500年ごろのヨルダン渓谷のアイン・ガザル遺跡では急激な人口流入があったようだ。そこからは粘土で作られた多数のトークン(直径2センチほどの小型粘土製勘定道具)が使われていた。巨大な人口の下で物資を管理するためだったと思われる。シュメール人による文字の発明の3000年以上も前のことである。しかし、アイン・ガザルでは、住居の部屋の大きさは縮小し、柱穴の直径は小さくなり、鎌刃と石臼の数が減るなどの変化があった。また、幼児の死亡が増え、飼料として好まれたマメ類と家畜ヤギが増加した。研究者はこの傾向を環境悪化と森林伐採のために穀類ベースの農耕経済が破綻したからであって、牧畜経済化とそれによる人口減少、あるいは人口の拡散へと移行した結果だと考えている。このような牧畜の拡散はBC7000年ごろのレヴァントから始まって、シリアのパルミラ盆地やアラビア半島北部の砂漠、オアシス地域に進んだと考えられる。同様の環境悪化の兆候は他の遺跡でも報告されている。いくつかの地域では集落が放棄され、居住が続いている地域の周辺部では遊牧が発達した。そしてこれらが組み合わさって二つの事象が促進された。地域間の交流と、人間集団の拡散である。これらは相反する要素のように見えるが、農業革命を第2の重要な段階へと導くものである。農業は西南アジアの初期農耕共同体で約2000年の熟成期間を経た後に、北東アフリカやヨーロッパ、中央アジアそしてインダス地域へと本格的に旅立とうとしていた。


 BC6500年~BC4000年の2500年間に西南アジアで発達した農業はユーラシアと北アフリカの広大な地域に拡散していった。ブリテン島とイベリア半島などの西方や、トルクメニスタン、アルタイ山脈、パキスタンなどの東方、そしてエジプトと北アフリカなどの南方に拡がった。この時期にアジアのもう一方の端である東アジアでも農業の拡がりは見られ、東南アジアと東インドに達しようとしていた。ある地域で農業が受容されたとしても、狩猟採集を続けようと望んだ人びとは農業が始まってからも何世紀あるいは何千年もの間絶えることなく存在している。農耕民が拡散したことによりそのまますぐに狩猟採集民が消滅したわけではない。狩猟採集民と農業という異なる生業はとてもうまく共存しうるものである。

 キプロス島への農耕拡散は、BC8500年ごろのPPNB期の間か、あるいはPPNA後期に起こった。移住者たちはシリア沿岸から地中海を渡ったと推測される。彼らはアインコルンコムギ、エンマーコムギ、オオムギといった穀物をもたらし、またウシ、ヒツジ、ヤギ、ブタ、ダマジカといった動物もつれてきた。BC7000年にはクレタ島へも渡った。西アナトリアでもBC6500年ごろから農耕牧畜民集団の流入があったようだ。さらにトラキアやバルカン半島、ギリシャ本土へと進出した。彼らは最初から農耕牧畜的であり、狩猟はほとんど行われなかったと思われる。

 BC5400年以後、農業が地中海沿岸に沿って西へと拡がっていったのとほぼ同じ時期、農民の開拓集団はハンガリー平原の西端で600年間足踏みした後、ドナウ川流域を上り、アルプス以北のヨーロッパを通って、ライン地方とパリ盆地までかなり急速に拡がっていった。北ヨーロッパの海岸線に近づくと、拡大の速度は再び遅くなり、ラトビアおよびスカンジナビアの大部分に農業が拡がったのはおそらくBC3500年以降になってからであり、フィンランドに拡がったのは青銅器時代に入ってからと思われる。ヨーロッパでは新石器時代に二方向への拡がりが見られる。初めにバルカン半島を通ってドナウ川を上り、アルプスの北の温帯ヨーロッパへと拡がった農耕経済では、脱穀の難しいいわゆる皮性のアインコルンコムギとエンマーコムギが多数を占めていた。彼らは線帯文土器文化(LBK)の人びとと呼ばれ、木材を使った特徴的なロングハウスからなる集落と刻文土器を持っていた。しかし、地中海北岸に沿って拡がったムギはすべて脱穀の容易な裸性の品種で、おそらく四倍体であった。両者は結果的にはアルプス山脈の西側および北側で出会うことになった。LBK文化から派生したファンネル・ビーカー型土器(TRB)文化は、BC4500年ごろに始まってヨーロッパの北海岸沿いの平原を通って拡がった。

 BC7500年ごろまでにイランのザグロス山脈地方に農耕的な新石器時代を発生させた農耕拡散の動きは、BC7000年紀にはパキスタン、カフカス(コーカサス)、トルクメニスタンに達した。BC7000年より少し前に成立したパキスタンのバルチスタン州のクエッタから南東150キロのカッチー沖積平野にあるメヘンガル遺跡には先土器新石器時代の文化層が見られる。メヘンガルは肥沃な三日月地帯から派生した新石器文化の拡散の東端近くにある。

 カスピ海の東のトルクメニスタンにおける最初の農耕共同体は、メヘンガルよりいくらか遅れて出現した。トルクメニスタンの新石器文化は初めから土器を有しており、その基準遺跡であるジェイトゥン遺跡はBC6000年ごろに築かれた。ジェイトゥンの彩色土器はイラクのクルディスタン州のジャルモ遺跡のものと関連がある。カフカス(コーカサス)には農業はBC6500年ごろまでに到達した。

 北緯36度線に沿ってカスピ海の東から天山山脈を通って中国とモンゴルのタクラマカン砂漠、ゴビ砂漠地帯へと人を寄せ付けない砂漠地帯が拡がっている。これらの砂漠の北にある草原ステップ地帯、およびさらに北の森林ステップ地帯では、BC5000年以降、ある程度の穀物を伴ったヤギやヒツジの牧畜民の拡散が見られる。西部ステップ地帯はドナウ川の河口から始まり、黒海とカスピ海の北岸周辺に拡がっており、東へはアルタイ山脈とサヤン山脈の山麓に向かって徐々に消えていき、実際はアジアの中心部でまったく姿を消し、再びモンゴルで姿を現す。西部ステップ地帯の諸文化はすべてBC3500年より前の西アジアに起源を持つ文化である。後のアファナシェヴォ文化はBC2500年までにアルタイ山脈に到達した。これらの集団よりさらに西方の黒海付近では、アインコルンコムギ、エンマーコムギ、オオムギ、キビ、アワなどの穀物が栽培され、ヒツジ、ヤギ、ときにはウシ(牽引のため)が飼われていた。ウラル山脈の東では、穀物の生産は少なくとも青銅器時代以前はあまり活発ではなかったと思われる。初期には主に牧畜に重きを置いていたようだ。ウマは初めの頃は狩猟の対象であったが、BC2000年紀に乗馬が発明され、それにより移動性が非常に増して集団の移動が可能になった。ステップの新石器文化はすべて西または南から移ってきた。この時期、中国の新石器文化とのあいだに大きな関連は見られないが、BC1000年紀の鉄器時代には、新疆しんきょうのタリム盆地のオアシス地域の文化、および天山山脈から流れ出た川が作るカザフスタンの沖積地における文化で、コムギ、キビ、イネなどの穀物が生産され、ヒツジ、ヤギ、ウシが飼われていたことがわかっている。タリム盆地ではかつてインド・ヨーロッパ語族から最も古くに分化したトカラ語が使われていたこと、またBC5000年までに新石器時代の中国、イラン、西ステップ地帯ではキビの栽培が始まっていたことを考えると、これらの砂漠地帯を通ってもっと早い時期に新石器文化拡散の動きがあったのではないかと思われる。キビの起源はおそらくカスピ海と新疆とのあいだのどこかにあるかもしれない。新石器時代の移民たちはアフガニスタンからタリム盆地、ロシアのステップ地帯、さらに中国の西部まで達したと思われる。

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