第80話 【3日目】次期当主の動揺
昼餐を前にして、イラーティアは執務机に向かい、綺麗に整えられた書類に目を通し、また時に筆を走らせる。
ここ数日の館内の騒動で執務が滞りがちであったため、未処理の書類が執務机に山を成していたのだが、それを見ても顔色ひとつ変えず、溜息ひとつ零さず。
背に筋金が入ったかのように美しい姿勢で淡々と処理して、今では書類の山は半分程度にまで減っていた。
補佐をするラツィットは、いつもながらその様子を感嘆の思いで眺めていた。
「やあ、いつも任せてしまって悪いね、イラーティア」
「いえ、これは私の仕事です、オティオーシ様」
軽く上気した肌が見えるような軽装で執務室に入って来るオティオーシが声を掛け、慇懃な言葉遣いとは裏腹に書面から視線も上げずにイラーティアが答える。
その様子を軽く苦笑し肩をすくめながら家令ラツィットの方に向かった。
「今日も鍛錬ですか」
拭いた後から流れる汗に、ラツィットは清潔な
「ああ、僕にはこれしかできないからね。
奥方にはいつも苦労をかける」
「当主様は当代一の武芸者で在らせられますので」
微妙にピントをずらした回答をする家令に苦笑を深めるオティオーシだったが、急に扉の方を振り向いた。
つられて扉に視線を遣るラツィットは、続けてその扉を叩く音と入室を問う声を捉えた。
「クヌースです、お時間を頂いても宜しいでしょうか」
***
「おいおい、そりゃあ、ちょっとお粗末だったなぁ」
苦笑しながらオティオーシが感想を言う。
犯罪行為の容疑者として捕らえられていた娘が強奪されたというのに、随分と呑気な返事だとラツィットはつい考えてしまう。
しかしこれがこの当主の平常。
当家の真の当主とも言うべき彼女こそが、全てに気を配り、全てを決定するのだから、家の運用になんら支障はない。
「それで?」
些かも表情を崩さず、冷たいまでに静かな眼差しで次期当主を見据える。
イラーティアのその短い言葉に、弾かれたように姿勢を正すクヌース。
「は、はい!
事後に館内を探しましたが、痕跡は見つかりませんでした。
今回の件が家の人間により行われたなら、くまなく館内を探すまで。
最も警戒すべきは外部勢力の介入。
姉上を連れ出されないよう、まずは外部への逃走を警戒するように指示しました。
それと同時に、外部勢力が同期して動いても対処できるよう、対外警戒も最高
内外の疎通を断った上で、館内の捜索を徹底的に行います。
既に賓客は退去済み、全ての部屋を隈なく探すことに致します」
「通達は既に行ったのですか?」
「いえ、まずは当主の指示を仰ごうと思い、急いで参りました」
その言葉を聞いたイラーティアは、その目線を隣に侍するラツェットに向けた。
「奥様、私はクヌース様の仰った館内警備の警戒度を最高位にする旨、責任者に通達してまいります。
例の件も、その折に合わせて伝えますが、よろしいでしょうか」
「いいでしょう。行きなさい」
滑るように部屋を出て行くラツェットを視界の端に見詰めつつ、イラーティアはクヌースをひたと見据えて言う。
「当主に判断を仰ぐ間に逃走されては意味がありません。
貴方は既に次期当主に定められているのです、緊急を要する件は独断で処理なさい」
そう言われても、判断を間違えた時の厳しい叱責を想うとなかなか――などと言うこともできず、ひとまず頷いておく。
「今回はいいでしょう、同じことはないように。
後は貴方が対処なさい。
それで、他の件はどうなりましたか。
昨日の話からどう考えたのか、ちょうど良いので報告なさい」
う、と一瞬言葉が詰まるが、あきらめて現状を話す。
――なにも思いついておりません、と。
たったそれだけを言いながら、体中から変な汗が噴き出してくるのが感じられ、口腔内が渇き滑舌がおかしくなり、声は小さくなる。
なんとか言い終え、おそるおそる母たるイラーティアの表情を窺う。まるで少年時代から変わっていない、この恐怖心。
「何も考えていないのですね」
「申し訳ございません――ですが、こう事件が多いと調査も進まず、真実が不明ですと筋道も立てづらいのです」
委縮するクヌースの様子を見ていたイラーティアは小さく息を吐き、居住まいを正してから言う。
「昨日も言いましたが、真実と
ひとたび侮られた
だからこそ、それが虚構でも
冷たい視線は微塵も揺るがず、ただ淡々と教え諭す。
「グーラは侍女を殺したから廃嫡になったのではありません。
侍女を殺したと思われても仕方がない醜態を公にした無能、これこそが廃嫡の理由。
自分が、その家が社会から求められている
真実を暴けないなら事実を作り覆い隠すのです。
それを完璧にこなせるのが貴族、力を持ち人の上に立つ者なのですから」
淡々と考えを述べるイラーティア。
冷徹に人を騙せという教えにクヌースは声も出ない。
「今一度言います。早急に解決なさい」
***
フォルテンの御披露目のために招かれていた賓客たちは、既に王都の別邸へ移動しているため、現在この館に居るのは元々ここで暮らしているウルザイン家の人々だけとなる。
食事のたびに別室を用意し賓客をそちらで持て成す必要がなくなった今、普段通り家族は大きな部屋で共に食事を取ることになっていた。
唯一残された客待遇である俺も同席させてもらい、昼の食事のために大きなテーブルを前にして着席し待っている。
だが、当主オティオーシと奥方イラーティアも席についているにも関わらず、なかなか食事が始まらない。
(皆なにを待っているんだ?)
(末妹のアムーラを待っているようだ。
欠席するなら事前に連絡が必要で、姉上もそれは欠かさずやっていたと聞く。
いくらアムーラでも母上を怒らせるような真似はしないと思うのだが……)
と、入り口から顔を青くした使用人風の男が小走りに当主達の席へ向かった。
奥方イラーティアに耳打ちをすると、珍しく彼女が眉を顰める。
胸元の碧色に輝く珠に手を添え、数瞬の間を空けてからイラーティアは宣言する。
「問題が発生したようです。
本日の昼餐はいったん中止、各自は自室にて待機しなさい。
ラツィット、各自の部屋に食事を運ぶ手配を。
クヌース、貴方は当主候補として私と一緒に来なさい」
そう言うと立ち上がり、後ろも見ずに歩き始めるイラーティア。
驚いた様子でその後を追いかける当主オティオーシとクヌース。
少し遅れて、伯母のヴィタもその後に続いた。
扉のところまで歩いたイラーティアはそこで足を止めて振り返る。
「――ユークィテル導師様。
現在、少し複雑な問題が発生しているようです。
当家の問題に関わらせてしまい申し訳ございませんが、御同行いただけないでしょうか」
大テーブルの端の方に座る禿頭に小さな帽子を被り法衣を纏う男に部屋中の視線が集中した。
急な指名を受け、困惑した様子のユークィテル導師。
困ったように少し左右を見回した後、あきらめて立ち上がり当主達について行く。
残された者達は少し呆然としてから、やがて己の部屋や持ち場に戻っていくのだった。
***
イラーティア達が急行したのはクヌースの私室。
その扉の外には、顔を青ざめさせた女性使用人と、彼女を取り巻くように立ち並ぶ小ざっぱりした格好の男達が困惑した様子で立ち並んでいた。
「それで、アムーラはどちらに」
イラーティアは端的に問う。
「……は、はい。その……」
その女性使用人は困ったように周囲の男性に視線を走らせ、彼らは同様の視線で今度はクヌースを見た。
一瞬驚いた様子を見せたクヌースは、彼らに向かい声を掛ける。
「どうした?
早く報告しなさい」
クヌースのその言葉に力を得たのか、女性使用人がおずおずと口を開く。
「は、はい……。
その、私達がクヌース様の部屋のお掃除に伺いますと、大部屋の戸棚の中から……その……。
その、アムーラお嬢様が居られまして。
ええと、その、すでにそのお体は冷たくなっていて、その……」
そこまで聞いたイラーティアは「下がりなさい」と鋭く言うと、反射的に退いた女性使用人と周囲にいた男達の側を通り抜けて中に入る。
中に入ると、執務や応接に使う大部屋の中央にある大机、その上にアムーラが横たえられていた。
イラーティアはそっと歩み寄る。
綺麗な顔をしていた。
まるで眠っているような穏やかな顔。
その頬をそっと触ると、滑らかな器のようにひんやりとした感触が伝わる。
本来は温かいその頬が冷たいと、手先の感覚に違和感を感じ、そのことが心にその状態の異常性を刻み込み、揺さぶる。
「どのようにして見つかったのですか?」
側に控える女性使用人にイラーティアは問う。
「は、はい。
そちらの戸棚の中に、うずくまるようにしておられました。
服の端が扉から少しはみ出してまして、それで……」
そう言って目元を抑える使用人。
アムーラの身体は硬直していない。
なら、死後、それほど時間は経ってはいないはずだ。
クヌースはシャイナが逃走した後でアムーラに会ったと言っていた。
なら、それからほどなくしてアムーラは亡くなったことになるのか。
いや、むしろ報告に虚偽があるのだとしたら?
イラーティアは傍らにいるクヌースに視線を遣る。
クヌースは真っ青な顔をして硬直しており、イラーティアと視線が合うと慌てて否定する。
「お、俺ではありません! 何も知りませんよ!?」
それが真実なのか、嘘なのか?
分からない。
少し離れた場所にいるユークィテル導師を見ると、ゆっくりと首を横に振った。
「申し訳ございません。
クヌース殿は動揺が激しく、それが真実なのか、嘘が入っているのか、私にはいささか判断がつきかねます」
「……分かりました。
それでは、お手数ですが、ラツィットと共に、アムーラの様子を見ていただきます。
ですが、少しで良いので、この子との別れの時間をいただけますか」
この冷静で、我が子にも厳しい奥方イラーティアが、別れの時間とは。
周囲を囲む者達は少し驚いた様子を見せたが、すぐに踵を返して部屋を出て行く。
最後にオティオーシだけは残り、静かにイラーティアの脇に寄り添った。
その気配を肌で感じつつ、娘の顔から視線を外さない。
「アムーラ。貴女は、厳しい家督争いから最も遠い貴女だけは、平穏な人生を送ってほしかったのですが……まさか、兄弟の中で最初に逝ってしまうなんて」
そっと冷たい頬をなでる。
「私はまだこの家を護らなくてはなりません。
貴女の魂と共に在ることは許されない。
まだしばらく、寂しい想いをさせてしまうことになりそうです。
ですが謝罪はしません……いずれ、私が子供に家を任せられる日がくるまでは」
そう呟きながら、イラーティアはゆっくりと冷たい頬をなでていた。
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