光の雫

たけざぶろう

第一章 異世界拉致&転生

第1話 闇のトンネルの向こうへ

晩秋の夜空。

吸い込まれるような黒い背景に、白いつぶらな月が浮かぶ。


冬の訪れを告げるような冷たい風が、首筋をすり抜けて行った。

終電の時間も過ぎ、人気もない夜道に、瀟洒しょうしゃな外套を羽織った均整の取れた身体つきの中年の男が、ふらつく足を運ぶ。


暗い夜道を歩いて行く。

まばらな電灯では、足下も良く見えない。

よろめくように歩き、ややあって壁にもたれるように身を預け、そのまま俯いた。


「おえええぇぇぇ…」


いい年をして、数軒はしご酒をした挙げ句、バーで凍らせたウォッカを何杯も煽ったのはやはりやりすぎた…などと悔いても今更である。


しばらく壁にもたれていて、少し落ち着くのを待つ。

首筋を吹き抜ける冷気に身を震わせる。


気持ち悪い。

気を紛らわせたい時の癖で、懐に手を入れ、首から下げた御守り代わりの石を握る。

黒く透き通るその石の感触を遊びながら、この石の贈り主を思い出す。

そうすると、すこし苦しさが紛れる気がするのだ。


少し顔を持ち上げる。

電信柱の灯りがにじんで見える。


……さて、帰らなければ。


誰が待つわけでもない部屋だが、それでも彼の帰る場所なのだ。

そう思い、足を踏み出した次の瞬間。


「――!?」


突然、呼吸ができなくなる。

体も動かない。

鉄かと思える硬く細い何かで、物凄く強い力で後ろから身体を拘束された。

人間のサイズではない大きな手のような何か――骨だろうか?それで口を押さえつけられ、鼻も圧迫されて呼吸もままならない。


とにかく拘束を振りほどこうと、全身で抵抗するが、まるで緩む気配がない。

まるで機械に挟まれたかのようで、抵抗という努力の結果を何一つ感じられることはなかった。


学生時代は柔道で鳴らし、その後も体を鍛える習慣を怠らなかった、同年代の中年男にしては強靭な、秘かな自慢である自分の全力がまるで通じない。

背筋を走り抜ける冷たい感覚に、酔いなど吹き飛び、無駄であろうがなんであろうが、文字通り必死の抵抗をする。

なにしろ、呼吸も満足に出来ないのだ。


ふわり。


唐突に、身体にかかる重力がなくなったかのような浮遊感。


浮いている?


拘束している棒状の何かのせいで良く見えない。

透き通るような冬の星々が映るが、自分がどうなっているのか、知るための情報はそこにはない。


自分はいま、どんな体勢なのだ?


急に、身体中にひどく強い加速がかかるのを感じる。今度こそ、自分が飛んでいることを実感する。

まるでローラーコースターで振り回されているかのような、乱暴極まりないG。


遮二無二、身体を捻ると、僅かに態勢を変えることができた。

不自由な視界で必死に外を見遣ると、そこは――


黒かった。


黒い世界が広がっていた。

夜空ではない。

一面に広がる闇。


身体に受ける力の感覚から、その中を飛んでいると知れる。


時折、光の円盤のようなものが通りすぎて行く。

良く見ると、その光は時間の経過で形を変えている。


最初は線状のスリットが、僅かに光っていた。

近づくと、そのスリットが成長し、円盤状に膨れる。大きさは様々。

通り過ぎた円盤は良く見えないが、紡錘形に変形し、やがて再び線形になり消えていくようだった。


慣れてくると、その円盤の中に景色らしきものが見えるのが分かる。


険峻な赤い山並。

荒れ狂う黒い海。

どこまでも続く緑の平原。

岩だらけの赤い荒野。


まるで丸いウィンドウに表示された異国の景色が次々に流れ飛んでくるような。

不自由な視界でも、これほど豊かな情景が視認できた。

相変わらずの息苦しさと、身体中をあらぬ方向へねじ曲げるようなGのせいで、とても冷静に観察することはできないが。

実際、汚い話ではあるが、この暗い空間で激しく振られている間に、何度も吐き戻している。


胃の中も空になり、意識は朦朧とし、感情を動かすことも億劫になり。


どれほど時間がたったのか、それとも実際はほんの瞬く間の出来事なのか?

不意に少し弛んだ拘束から首を僅かに動かし、進行方向に目を向ける。

そこには、薄く光る球状の何かがあり、そこから少しはみ出た小さい点、少し紫がかった出っ張りが見えた。


やがてそこから溢れ出すように光が広がる。

光の雫のように細かく眩く、包み込まれるような光にくるまれながら、遂に彼は意識を手放して行った。


***


『由宇、そろそろ起きないと』


……眠い。


暖かい何かにくるまれたような、居心地の良い空間に居続けたい。

微睡みから抜け出すことを拒みたい。


『疲れているのね。

可哀想だけど、そろそろ目を覚ます時間よ?

起きて、由宇。』


長い間、耳にできなかった、自分の名前を呼ぶ、優しい声。

懐かしく、愛おしい時間に巻き戻されたかのような、微睡みの時間。


いなくなったはずの女性の声に押されて、目を開く努力をする。


やがて網膜に光が差し込んできて、そして――


最初に目に映ったのは、青紫に染め上げられた、冷涼とした空の色だった。

暗い緑の木々に構成された森、その奥に灰色の山が立ち並び、その背後の空は、大きく丸い、白銀色の月が浮かぶ。


視線を少し落とすと、月光を反射して煌めく光を散りばめた、美しい湖面が、視界の下半分を占領するように広がっている。


広い、湖だ。


幾何学的なまでに優美な弧を描く汀線が、視界に入る限りに続いていて、その内側に湛えられた水は深い闇色に沈んでいる。


湖の外側には、月明かりに照らされた、力強い木々と、雑多な植物で構成された森があるようだ。


自分の置かれた境遇を忘れ、魅入ってしまうほどの自然が織り成す景観。


雑多な住宅街の深夜の裏道にいたはずの彼は、今や、美しい大自然の中で、彼自身が異質な存在として一人、うずくまっているのだった。


寒い。


湖から吹いてくる風が、身体を吹きさらし、体温を奪う。

移動して、身を守らなくては。


少し動くと、ぎしり、と身体の内側で音がする。

身体が強ばって、うまく動かない。


力を入れ、無理に腕を、足を動かす。

長い間、揺すられていたためだろうか、身体が自分のもので無いように動かない。

意識を身体の隅々に注いで、這いながら少しずつ移動する。


やがて雑草が周囲に繁る木の側にたどり着き、背中を木に預けた。


雑草がうまいこと風から身を守ってくれる。

身体の力を抜き、湖面をしばし眺めた。

習慣で懐の黒い石を握ると、いつもは冷たい石が、今日はほんのり温かく感じる。


ああ、疲れた――


自分が何に巻き込まれたのかを知る由もなく、そっと瞼を下ろして、再び眠りに落ちて行った。

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