バッテリー

三文字

バッテリー

 朝起きてスマホを見ると、充電するのを忘れているのに気づいた。バッテリーが、切れている。それを見るなり何となく休日に何かしようという気がそがれて二度寝をしたくなる。正直、何をする気も起きない。

 こんな風に気持ちのバッテリーが切れることが一度もない人がもし世の中にいたとしたら、それは気持ちの容量がよほど多い状態で生まれて来たか、バッテリーを必要最低限のことにしか使わないかのどっちかだろう。バッテリーを無尽蔵に使っている様に見えてもその人のクールな人生観を見ていると後者だな、と分かるなんてこともある。

 世の中、実際真面目に生きていてバッテリーを切らさないほど楽ではない。だけど不真面目に生きているだけでは何も見ようとしなくなるだろうし、かといって真面目に生きているだけでもちっとも世の中のことなど分かったものではない。そんなことを自分が考えるのは、全体を見たいというか、ある意味で客観性を持ちたいと思うのだろうか。

 しかし、客観性なんて、そんなに重要な事だろうか。というより自分のことに執心してばかりいる人のほうがある意味それ位しか自分にできる事がないと自己を客観的に見ているのかも知れない。そして自分のことに邁進した事で高みに上って、幾多の自分より劣った人間達を見下ろして「ああ、自分は恵まれている」なんて言って悦に浸ることが幸福で、それが人生の意味と言う人のほうが客観的なのかも知れない。

 しかし、それはそれで、そんな風にして見下された人の生きる価値が一方的に劣っていると簡単に僕は信じる事が出来ない。それは何故だろうと思った。それが思い出せないので、そんなことは一旦忘れる事にして、散歩でもすることにした。

 方向も決めずに適当にほっつき歩くと近所の学校にぶち当たった。それを見て教育の二文字を思い出した。生きる意味など、本当は与えられるものでも作るものでもなく、生き物は生きるから生き物な訳だが、しかし人間は弱いからそれだけでは生きられなくて、自分の生きる意味を、幸福度や財産や哲学や宗教などでつい計ろうとしてしまう。そしてその数値を増やすために人は苦労をしなければならないと思い制度を作る。そしてその制度を教えるのが学校が象徴する教育だ。意味がないとは言わないが宿題だテストだ受験だ何だと言って、何故そこまで教育が必要とされるのかというのは未だによく分からない。そんな世界観からドロップアウトするのが却って一番楽なのだから、楽さを考えれば案外僕が勝ちなのかも知れない。それはある意味ずるい様だが、そう言われてもどうしようもない。

 僕はよく学校の休み時間に窓際で日向ぼっこばかりをしていた。そこにひらめくカーテンには無数の光が散らばり、その眩しさに包まれながら僕のぼんやりとした意識は窓の外の青空に向かって舞い上がり、音もなく風に吹かれ無数の雲のきれに囲まれてくるくるとその中へと入っていき、じきに影も形もなくなっていく……。

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