第5話
彼の言った言葉は謙遜だったのだと思った。見た目こそその通りだと思ったけれど、中はやわらかな布が張られ、壁には絵が掛けられていた。木を使ったテーブルや椅子、ベッドはとても寝心地が良さそうだった。奥に台所があって、水瓶や竃がある。テーブルに向かい合う二脚の椅子に花を下ろすのかと思っていたけれど、彼は壁の側に穴を開けて土間にした場所へと、その根を垂らす足を置いてやった。こじんまりとした椅子が、花が座ることで整うような気がした。その土間の上には、ぽっかりとした窓が取り付けられていた。明り取り用というよりも、花のための空だった。小さな空から、まだ微かに光が入る。室内は薄暗く、そしてささやかに明るかった。その空のお蔭で。
「ありがとう」
小さな光の中で花は笑った。慈円さんも笑う。幸せそうで、恥ずかしそうな、男の子のような笑顔だ。
彼はそばの椅子に腰を下ろし、向かいの椅子を僕に勧めた。僕はそれにひとつ頷いて座った。座ると半日の疲れがどっと体中から滴った。しばらく立ち上がれないかもしれないと思う。今更ながら中に招いてくれた彼に感謝した。
「こんな森の中じゃミルクも砂糖もなくてな。ただのお茶で勘弁してくれよ。」
「ありがとうございます」
「その代わり夕飯には俺が捕った鳥の丸焼きだ」
「楽しみです」
にこりと笑うと、彼はさっそくそれに取り掛かるらしかった。台所の端に布を張った棚から取り出された、羽を向かれた鳥の肉を切り分けていった。細い鉄の串にその細かくした肉を刺していき、起こしてあった竃の火の上へと差し掛けた。その足で棚の別の段から取られたカップに水瓶から水を掬った。その水は花の足へとそっとまかれた。
そうしてから僕と慈円さんのためのお茶の用意がはじまった。肉を刺した場所の隣で沸かされたお湯が、小瓶の中からそっと小鍋の中に降らされた茶葉に注がれた。騒がしいくらいの湯気が一瞬立ち上がり、すっと穏やかにのぼりはじめる。それを濾しながらふたつのカップへ。すっと前にだされた色の濃いお茶の色に目でお礼を言いながら、僕は木で作られたカップに口をつけた。滑らかとは言えないが、持ち手もない素朴なそのカップに慈円という人の中身が少しうかがえて頬が持ち上がった。お茶は今まで飲んだことのない、深く、かすかに甘い花のような匂いの感じられるもので、とてもおいしかった。
「慈円さん、聞いてもいいですか」
お茶が喉をゆっくりと温めて、当たり前の疑問が口の中から顔を出した。
「ああ、いいよ。花のことだろう」
頷く僕。それを見てから慈円さんは花と一度目を合わせて、また僕へと目を戻した。
組まれた手を間に、彼は話し始めた。小屋の中に火の爆ぜる音が時々走った。竃の上のほうに小さな窓が換気のために空いていた。それでも満ちていくおいしそうな肉の焼ける匂い。テーブルに乗った二つの空のカップ。
「俺はこの花を手折りに来た。でもできなかった」
「手折らなかったんですか?」
驚きに瞬きを強く数回。彼は照れたように続ける。
「手折るつもりで勿論会いに行ったんだ。花の姿については俺だって一端に知っていた。たおやかな女性の形をとっている、と。でもまさか自分の半身がこんな儚いものだなんて頭が分かっていても、ついていかなくてな。ほら、俺みたいな無骨な男の片割れがこんなきれいなもので、衝撃だったんだ」
ははは、と笑う彼につられて僕も笑う。
「そう思ったら、できなくなってた。花に聞かれたよ。これからの半生をどう生きたいかって。俺は考えたよ。考えて、考えて、分からないと言った。ただ君を手折って得る半生はいらないと言ったら、花は笑った。それではどうするのって」
「どうしたんですか?」
「どうって、こうすることにした」
そう言って彼はすぐ横の花を手で示した。
花は眠たいように首を傾いで目を閉じていた。その瞼の白さ。落ちた腕の色。
「花は…生き物じゃないんですよね」
半身。そう言っても花は花だ。彼は頷いてまた手を組んだ。
「ああ、でもそれを決めるのは俺だからな。俺は花を手折れないと感じたんだ。だからやめた。でも花を連れて街には戻れない。だからここで暮らすことにしたのさ」
「…お子さんがいた、って言いましたよね」
「いったな」
「奥さんや、慈円さんの家族は」
どうしてるんですか、と聞こうとして目を見て後悔した。彼は自分と同じだ。
「奥さんとは子供が死んでからうまくいかなくてな。彼女のほうが先に花に呼ばれたんだが、発つときに言われたよ。もう俺のもとには戻らないと」
慈円は立ち上がると肉の向きを変えに竃の前に向かった。花は静かに佇んで目を閉じている。眠っているのかと思ってじっとその白さを眺めた。
花の白さには個々で違いがあるというけれど、慈円さんの花は本当に白かった。内側から光が透けて届くような。頭の上に頂く花の瑞々しさ。今にもとろりと命を溢しそうなその膨らみに触れてみたいと思った。子を宿した女の人の腹部のようだ。何度か満光がお腹にいたときに、おばさんのお腹に手を当てさせてもらったことを思い出す。強い張りと、命の音が手のひらからひたひたと僕の心臓まで伝った。あの音が、花のゆるく閉じられた蕾からは零れそうだった。
「花を手折らないと、どうなるんですか」
分厚い手袋をつけて作業をしながら慈円さんは、さあな、と言った。太く、勇ましい彼の声はとても乾いていて、もしかしたら彼も考えないようにしていることだったのかもしれなかった。切り替えるように違う質問を口にした。
「最初、花は僕の名前を知っていました。それに慈円さんも僕にじゃなく花に僕の目的を聞きましたよね?どうして花は僕のことを知っていたんですか」
ああ、と慈円さんは笑った。こちらへ戻り、椅子に腰を下ろしながら言葉の続きを汲み出す。
「花のこと、来はどこまで知ってる?」
「どこまでって…」
花のこと。それは親から、周りの大人から、雨のように日々降らされる物語のようなものだ。寝物語に、集会の後の宴会や祭りのはじまりの挨拶の中で、花のことは編み込まれて手渡される。会ったもの、手折ったもの、花から半生を受け取ったものが語るそれはまるで夢物語、美しい賛歌、人生の幸福の一番の輝きが花には宿っていたと。それは死を受け取ることでもあるから、まだその時を迎えていないものに少しでも安らかさをと思っての話なのかも知れないと思っていた。けれど実際に花を見ると、彼らの気持ちは嘘ではなかったのかもしれない。心から、花に会えたことを幸せに思ったいたのかもしれない。今の感想が本心ならば、この目の前の彼も。
「花のことと言われると、具体的なものはあんまり知らない気がします。おばあちゃんや村のおじさんたちがお酒の席で話して聞かせてくれたようなことだけだから。」
「たとえば?さっき花が言った通り、俺は暫く人と話をしていないんだ。来が良かったらだけど、一宿のお礼と思って話してくれ」
慈円さんは口元を引き上げながらそう言った。もう一度立ち上がって棚から一本の蝋燭を取り出す。竃の火にその頭を滑らせて、小さな火を用意するとこちらに戻ってくる。さあ、そう言うように彼の目には、きらきらと蝋燭の橙の火が揺れて光っている。
「そうですね、花は半身であるひとの半生の時間の分、年を取って見える。だから最初の記憶で会う花の姿のころに自分が差しかかったなら気持ちの準備を始めなさい、って言われてました。まだ先まだ先と思わずに、明日がその時でもいいようにって。あれは誰が言ったのかなぁ」
僕は笑った口の中で、おばあちゃんでないのは確かだけれど、と転がした。
おばあちゃんは無理に花の話を避けたりはしなかったけれど、その顔は他の大人たちのようにうっとりといったものではなかった。厳しく自分を閉めてきっている。そんな印象の、そのことを出来るだけ隠そうとしているような目元の皺。僕は大丈夫だと言いたかった。おばあちゃんが思うほど辛いことだと考えていないと。でもそれはおばあちゃんにとっては、辛いことになってしまうのだろう。だから言えなかった。
「花は植物とほとんど変わらない存在なのに、他の動物や虫の影響を受けないっていうのも聞きました。僕の幼馴染が小さいころに心配して泣くから、一緒に大人に聞きに行ったんです。笑われたけれど、彼女が安心してくれて僕もほっとしました」
羅々。彼女はその話を満光にもしてやっただろう。彼女が不安になったその時に、とっておきの宝物を見せるように。彼女のやさしい話し方が耳のうらをくすぐった。
そのわりに僕の名前は強く発音する。そして返事をした僕に笑う。彼女の笑顔は明るくて、星が光るみたいな大きな力を放っていた。それに照らされて僕は、自分の深くなる影にどれほどにたくさんのものを投げ込んだだろう。
「あとは。そうだな、花はいつでも僕たちのことが見えていて、だから会いに行った時、これからを考えるとき寄り添えるんだって。だから一人だと嘆くことはないし、悪いことも善いことも明かされてるんだって。だから自分に隠し事ができないように、花にもすべて知られているのだと思いなさいって。僕、正直この話を聞いた時が、一番怖かったんです」
残りの時間を知らされるよりも。自分はけしてきれいにも強くも賢くも生きてはこられなかったことを知られていることが。欺いていたつもりでも、けして逃げられない目があること。大罪を犯したわけでもないのに。祖母の向けてくれる愛情を上滑りさせていることや、羅々や満光に対して底のほうで微かに蠢かせる劣等感の霞が、全部筒抜けだなんて。恥ずかしい、恐ろしい、そして楽になってしまうことが、怖かった。
「来は、花がなんなのか考えたことがあるか」
慈円さんの顔をゆらゆらと灯の影が撫でる。あかい。その肌は温かいのだなと、厚い肌の下で生きる力が巡っていることを目で確かめながら、僕は小さくうなった。目をするりと逸らしす。
「うん、何でしょう。死を自覚させる。自制の鎖みたいな。楔みたいな。自分を縛るものだと思ってます」
「そうか」
笑った口元がどこか自嘲めいて留められる。笑って言わなければいけないと、彼が決めているかのように。
「俺はね。笑ってくれていいんだが、花は人という生き物の善意のかたちだと思っているよ」
僕は笑わなかった。善意。それは溢れるようにもらってきたものだと思う。優しさに義務を付属させている。受け取られない可能性もあると、砕きに砕いてきれいな水に溶かしこんで降り注がす。逃れることは許されない。それは言葉の意味ほど誠実を伴わない性質。僕の中に様々注がれてきた善意。かわいそうに。たいへんだな。かしこいね。いいこだ。よくやっているよ。もっと時間があれば。それは僕の心だ。そして知る。もう周りの大人たちからすれば僕は死に始めているのだと。死を内包して彼らの生活に組み込まれているのだと。両親がいない、祖母と二人暮らしの子供は、子供である内に半生を受け取ることになる。自分たちより先に死ぬ子供。可哀相に。
僕は。
「じゃあ、僕たちは、自分たちの善意を手折って半生を得るんですね」
それは皮肉のように聞こえたかもしれない。目を逸らしたままの僕には彼の表情は見えなかったが、彼はけして気分を害したようではなかった。
「ああ、そうだな。試されている気分だったよ」
彼は言った。声は平穏そのものだったが、僕はその言葉に打ちのめされてしまった。彼はだから花を手折れなかったのだから。そしてその代償をうすうす気付いている。僕の想像も、きっと分かっている。
「さあ、もう焼けただろう」
立ち上がった彼の椅子の音。数歩の足音。火の爆ぜる音。あがる湯気。香りが小屋中に広がっていて、空っぽの僕の胸や腹の天井から満ちていく。あたたかいそれに、僕は唾を飲み込んだ。僕の前のテーブルに大きな青い葉っぱに、分厚い鳥の肉が置かれた。胡椒が振り掛けられたそれは質素で贅沢な夕食だった。慈円さんが自分の前にも同じように取り分けられた肉を置いて、席に着いた。
「フォークなんてものは置いてないんだが、大丈夫か?」
「大丈夫です。なんだか悪戯をしている気分です」
「来はよっぽどいい子だったんだな」
「そんなことはないですよ」
「そうか?手掴みで料理を食べたことがなさそうだ」
「それは…あんまり」
だろう?というように慈円さんは片方の太い眉を上げて見せた。果物やパンくらいだ。それは普通のことだと思うけれど。
僕に一本きりのフォークをわたし、慈円さんは串に刺さったまま肉を口へ運んだ。
「あの、さっき聞いた花が僕のことを知っていた種明かしはしてもらえないんですか?」
「おお」
彼は本当に忘れていたという顔をして肉を一口千切って口に放り込んだ。数回の咀嚼の後飲み下して改めて口を開く。
「花は、半身の情報を共有してるのさ」
こともなげに言った。
「共有?どんなことを?」
彼はさも種明かしをするようにわらって、全部さ、といった。
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