第4話

赤ん坊が死ぬとき、花は飛んでいかない。死んで出てきた赤ん坊。それを抱く疲れ切った母親と父親。そのそばに花は立ち、半身に口付ける。赤黒い赤ん坊は自分で花を摘むことができないから、花は自分の口からそれを注ぐ。命が流れて赤子はほんの一瞬笑うことがおおい。大声で一息哭く赤ん坊もいる。ぱあぐうぱあ、と手を開いて閉じて、すっと目を開けて終わることもある。花は両親とともにその様子を微笑んで見守り、花もまた終わる。


終わった花がどうなるのかは、花を手折ったものしか記憶できない。その場にいた両親がまだ花を手折っていなければ、その後の記憶はおぼろげに消えていくのだという。


おばあちゃんは僕の頭を撫でながら言った。

来はよく生まれてきてくれた。おばあちゃんの生きる力になってくれた。

そう言って大きく厚い熱い掌で、まだ幼い僕の頭を包むように撫でてくれた。おばあちゃん。


そっと頭上を見上げれば、高い高い木々。その張り合った枝先の格子模様。そこから更に高くで二羽の大きな鳥がくるくると旋回しながら飛んでいった。立派なこげ茶色の羽が、光の中で白く午後の過ぎた陽光を照り返す。その色が羅々の髪の色を思い出させた。


彼女はあの後けして泣かなかった。まだうまく歩けない僕の手を引いて、おばあちゃんの待つ家の前まで連れてきてくれた。誰かを助けるとき、彼女は無言になる。助けようという気持ちのまま動くこと。その一心のみになる。その姿をいつも隣で見ていた僕は、彼女の横顔がとても大人びることを知っていた。誰かを助けたいと思うことなら子供でもできる。それを実行できてはじめて大人なのだ。他人を助けられる。そこに目論見や見返りがあったとしても、行動できるのが大人だ。羅々の横で僕はそ知った。そして先にそうなれた彼女を尊敬し、すこし羨んでいた。


ドアを開けたおばあちゃんは一瞬驚いた顔をしたけれど、すぐにいつもの顔に戻って僕を中に入るよう体を横にずらした。羅々が手を放し、それを受け取るようにおばあちゃんが、冷えていたもう片方の手を取った。そっと引っ張られて、暖かな室内へ。おばあちゃんは先に座っているよう言い、自分は一度ドアの外へと出た。閉じられるドアの隙間で、羅々の不安に青くなった顔が少し微笑んだ。


手を振ることもできなかった。顔の筋肉は全く僕のいうことを聞かなくなっていた。まるで僕よりも僕の体のほうが、花に呼ばれた衝撃にまだ立ち直れずにいるみたいに。


その夜の夕食は覚えていない。食べたのかさえ覚えていない。再びドアを開けて入ってきたおばあちゃんが、どこか穏やかな笑顔だったことのほうをくっきりと覚えている。


呼ばれれば、行かなくては。


それは約束で、そして必要なことだから。できるだけ早く出発しなくてはいけない。花は待っている。




朝は静かに胸に満ちていた。明るく晴れた空には、幾筋も雲がたなびき、美しい朝の光に輝いていた。赤の中に朱色、黒の中に青、黄色と橙は二本の螺旋を描いて伸びていく。様々な色の目覚めのような朝、僕は家を出た。


花に呼ばれた人はどこへ向かえばいいのか分かるのだという。頭で理解できなくても、磁石が引っ付き合うのと同じことが花と人の間で起きるのだと。だからただ歩き出しさえすればいいのだと、おばあちゃんは言った。


まぶしいほどの朝に、僕は森のほうへ歩き出した。


しんと冷えた空気に、森の中の独特の冷たさが重なる。そっと手を肩に置かれたような気がした。森の中には一本の道が伸びている。石畳と言えばいいのか、形の整わない石をひたすら埋めていったという風な、とても素朴な道だ。ここに足を踏み入れる日が来ることを、僕は知っていた気がする。森の中。大きな木のひたすらに続く森の中へ伸びていく。その道を歩き出した。


どれくらいの時間がたったのか、日はすっかり真上に昇りきっている。

慣れない石畳に足はすっかり疲れていた。何より深くなればなるほど、森の景色は変わらない。同じ場所を繰り返している気になってくる。苔の蒸した木々、いつの間にかそれが大半になる。草の青や葉の緑よりも苔の呼吸の色が大きく聞こえる。時々鳴き声は聞こえるが姿までは見えない鳥。ぶつかる虫の羽の厚み。思い出したように踏む影に残った霜の、ばり、という音。一人でこんなにも長い時間いることは初めてのことだった。


ああ。


ため息のような吐息。そこに広がるかすかな白に、自分が熱を持った生き物なのだと思い出す。放された熱は一瞬で霧散する。


羅々は、満光は、怒っているだろうか。二人の名前を浮かべると、鼻の頭がつんと痛んだ。手を引いてくれた羅々の手を思い出し、何度も撫でた満光の頭の形を思い出した。体に残る記憶が優しく内側から撫でてくれているようだった。吐息が白くかがやく。


羅々は怒っても、満光は怒らないかもしれない。満光とはあのままになってしまった。それが少し心配だった。花を手折って、そして僕は戻るだろうか。僕が戻ることを、待っていてくれるだろうか。残りの人生の時間が知れている僕を、みんなは。


そこまで考えた僕の視界に、珍しいものが入ってきた。

石畳の続く先、折り合った屋根と、壁の色は切り出した色そのままで、あちこちが苔や蔓草に浸食され始めている。あれは人の住む家のかたちだ。そしてその家の前で倒木を椅子にして座っている人影が見えた。白い人影。それは細く、ふうわりと膨らんだスカートの裾が光っているようだった。

石畳のそばに建ったその家は、近づくほどに家というよりも、納屋より少し丈夫そうな小屋という印象に変わっていった。倒木に腰を下ろして足を遊ばせていた人影は、しかし人ではないことに気付いたのもそのくらいの距離だった。

彼女には足があったが、頭に花弁がひらいていた。そしてその足からは細くもしっかりと根が生えていた。白いワンピースの肩から剥き出しの腕は、服の部分と同じ質感の白。しかしやわらかなスカートの裾から下の膝は、ゆっくりと土の色。その色の中を緑の筋が走り、模様のように見えた。瞬きを繰り返しながら、ひたすらにその姿を見つめた。記憶の中以外に花を見たのははじめてだった。花は神聖で、神秘的な、美しいものだと大人たちに言われ続けてきた。けれど自分の半身の花からは、その言葉のつくる雰囲気があまり感じられなかった。それは自分の花が少女の形だったからかも知れない。白い花。その頭上で柔らかく揺れる。それは日の傾きを機敏に感じ取ってか、そっと閉じ始めていた。

立ち止まった僕を追い越すように、冷たい風が走った。


「あの」


自分の花以外に話しかけてはいけない。その約束を声を出してから僕は思い出した。あ、と口を両手で覆うも、出てしまった声はもう花に届いていた。


にこりと、花が笑う。


「まあ」


思っていたよりも女性的な、強く張りのある声が森の木々を揺らすように空へ駆け上がった。


「こんにちは。来」


確かに花はそう言った。驚いて口を開けたまま固った。

その時、花の後ろからドアを開ける音が聞こえた。


はっとしてドアの方を見ると、そこには男が立っていた。彼の花なのだろうか。花に話しかけてしまったことを思い出して僕は狼狽えた。震える喉を必死に宥めて声を出す。


「あ、あの、ごめんなさい。花を見るのが初めてで、あなたの花だと知らなくて、話しかけてしまって…」


ゆっくりと近付いてきた男は、しかし怒ってはいなかった。僕の姿を確認して、大きな手で少し乱暴に僕の頭を撫でた。


「ああ、いいさ。花がきれいなのは知ってるからな」


ははは、と笑うと、男は僕の荷物と顔を見て、花の方を見た。


「この子は迷子か?」


「いいえ。彼は花を手折りに行く途中なのよ」


花は、ね、と同意を求めるように微笑んだ。


「どうして」


どうして名前も目的も知っているのか、そう聞こうとした僕を男の声が遮った。


「花を手折りに?こんな子供がか?」


「慈円、年齢なんて関係ないわ。半生を終えるときに、ひとは花をもとめるのだもの」


僕の頭にあった重たい男の手が外れた。と思った次の瞬間、僕は男の逞しい腕の中にいた。抱きしめられていることに気付いて固まる僕を、男の後ろで花が笑った。


「慈円、いくら花以外と会うことが久しぶりでも、挨拶もなしに抱きしめられては困惑してしまうわよ」


静かな、鳥の羽音のような声に、男が「でもよぉ」と返す。その声が鼻声で、僕は男が泣いているのだと気付いた。この人は僕のことで泣いているのか。それが想像を超えて胸に染みこんできた。僕の目にもあたたかいものがこみ上げたが、寸でのところで堪えた。失礼がない程度に男の胸を押して、潜るようにして腕の中から出る。見上げた男の顔には幾筋もの涙が走っていた。


「あの」


「ああ、すまない。俺は昔子供を亡くしたことがあってな。生まれてすぐ離れるのも悲しかったが、こんな年で一人送り出さないといけないというのも遣る瀬無いと思って。本当にすまない」


「いえ。僕には両親はもういないので、そんなふうに言ってもらえて、変かもしれませんがうれしいです」


そう言って僕が笑うのを、男は複雑な表情で見ていた。まるで僕が彼の子供であるかのような。そして柔らかく拒絶されたかのような。その悲しみを仕方ないものと唇の内で噛んで砕くような、そういう笑い方だった。花が微笑む。それは感情の発露ではなく、そういう造形なのだと思う。思っているのに、花を見ると微笑み返してしまうのは何故なのか。僕は花と微笑みあっていた。


「慈円さん、この花はあなたの花ですか」


僕の問いに、慈円さんは一度花に振り向いてから、花に頷いてやるように首を縦に振った。


「ああ、そうだよ。あいつは俺の花だ」


花が微笑む。彼の言葉を肯定する以上のやさしさで。彼は僕に向き直って言った。


「お前の名前は?」


「来です」


「そうか、来。俺は慈円という。俺が見よう見真似で作ったから粗末というより雑な小屋なんだが、風と霜くらいは凌げる。冬の終りだとしても、森は日が落ちるのが早い。そしてこの森は深い。まだ花を探しに出たばかりなら今日は俺の小屋で休んで行けよ」


春はまだ先だからな。そういって彼は花を倒木から抱き上げた。妹のように、家族のように、それはやわらかで命あるものを親しく抱きあげるようだった。


「どうだ?」


僕が頷くより少し早く、慈円さんは小屋に向かって歩き出していた。抱き上げられた花が、彼の太い首に回した腕に小さな顎を乗せて僕を見ていた。微笑んでそっと手招く。


一日歩き通した石畳から、僕はやっと足を離した。


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