第3話
「ねぇ、満光となにか話をした?」
羅々は明るい茶色の髪を肩のあたりで揺らしながら僕に聞いた。
村のはずれにある、薬草を主に育てている転電おじさんの畑に羅々と使いに出された帰り道。日は傾き始め、それでもまだやわらかに僕らを撫でている。土を踏み固めた道に落ちる二つの影が短い。褪せた草の色がそばを流れていった。彼女は打ち身に効く薬草を。僕は、おばあさんが夜中に何度も起きてしまうというので、眠りが深くなるハーブを。夜中眠る体力がなくなる年になったのだとおばあさんは言ったけれど、僕のせいなのかもしれないと考えてしまう。
僕は満光との約束をてのうちに確かめがら、口を開いた。
「話?少し前に畑の雑草取りをしていたら遊びに来てくれたことはあったけど。そんなに大したことを話した記憶はないな。どうかしたの?」
何気なく、森のほうを見た。あの中には花がいる。美しく、はかなげで、誰も犯すことのできない神聖な半身たち。木々の寒々しい幹の色が重なって、その白い肌の色は少しもこぼれてはこない。
「うん?どうというほどのことじゃないの。知ってるでしょ、あの子私と違って繊細だから。ちょっと最近大人し過ぎるなと思っただけ。もともと活発なほうじゃないから余計にね、何かあったのかなって」
羅々は僕と同じ年だ。満光とは五つ違う。けれど姉妹は、双子のように互いのことを理解しているように見えた。いつも一緒にいるわけではないけれど、生活の中で自然に重なった時間の中の違和感を敏感に感じとりあう。
やはり満光は気に病んでいるのかもしれなかった。鼻から息を吐き出しながら気持ちの俯きを、僕は寸でのところでこらえた。
羅々の横顔は満光と似ていない。通った鼻筋と、厚みのある下唇。丸みのある顎と小さな耳朶。目を伏せるように笑う。
「そっか。どうしたんだろうね。今度会ったら僕も気を付けてみてみる。」
「ありがとう」
「羅々と満光は似てると思うよ」
僕の言葉に、彼女は少し驚いたように目を瞠り、そして心底嬉しそうに笑った。
「うれしい」
それは唐突だった。
いや、知っていた。これは唐突に来るものだってことを。見送りに来る人々は前々から準備をしていたかのように悲しむけれど、これを受けた本人はそうはいかない。羅々のおじさんの少し影を含んだ頬の色を思い出した。今までも何人か、村でこれを受け取った人はいた。でもそれはおばあちゃんの知り合いがほとんどだった。小さな村の中の人付き合いだけれど、大人と子供の関わりには溝がある。見送りに行くのは近しい人だけだ。僕が知っているのは、だから羅々のおじさんだけなのだけれど、きっと誰しもこう思っただろうと、心に深く二つ落ちたこと。ああ、もうなのか、ということが一つ。そしてもう一つ、さてどんな顔でこれを報せよう。
そう例えば、今、隣で妹の微かな落ち込みに心を向かわせている友人に。幼いころから知っている、彼女の笑顔も泣き顔も怒った顔も頭の中で凄い速さで回るばかりだ。
さあ、話さなくては。でも、なんて?
「来?」
きれいな瞳の中に自分の顔を見た。おい、しっかりしろよ。生まれたその時から知っていたものが来た。それだけなのに。
「うん、羅々、あのさ」
そこまで言葉になったことが奇跡のように僕は震えた。手に提げていたハーブの入った軽い籠が揺れる。息がうまく吸えずに、震える両手をどうにか口に持って行った。開きっぱなしにした口を、できるだけやさしく強く覆った。分かるだろう?ああ、分かっているんだけれど。
「来、大丈夫?おばあちゃんを呼んでこようか?」
前屈みになって今にも倒れそうな僕を、彼女は支えようとした。自分の分の籠を放り出して細い両手を広げて見せていた。あの朝、頼りないと思った肩は、今もそれほど頼もしくはないけれど、彼女は僕よりもずっと凄いのだ。僕は自分の口を覆っていた手をぐっと前に突き出した。彼女の両手がそれを拾ってくれる。冷たい手の下に、僕のせいで乱れている血の走りを感じた。そこはあたたかい。その手に縋るように僕は指を絡めて彼女を引き寄せた。優しい、あの日託されたものを一日としておろしたことのない肩に、自分の額を押し付ける。そうしてやっと息を吐いた。涙が滲んだ目を閉じる。振り落とされた涙が地面に落ちて割れた。
「羅々。ごめん。おばあちゃんには君の次にきちんと言うから」
閉じた瞼をこじ開けるように、なのに何も見せまいとするように、涙が溢れて落ちていった。
「来、もう?」
彼女もまた震え始めてしまう。幼いころ悪戯をしては二人で怒られた。風邪を片方が引けば、必ず大人の目を盗んでお見舞いに行った。そして治ったころに片方が寝込んでしまう。二人は双子みたいね。そう羅々のおばさんに言われていたことを思い出した。あの頃、何の責任も負ってはいなかった彼女は両親のいない僕の痛みを真摯に受け入れようとしてくれていたのだ。ああ、そうか、彼女が半分近くを負っていてくれたから、僕はこうしていられたのか。今更だと思いながら、僕は彼女に感謝していた。そして今、彼女は僕がこれを打ち明けようとしていることを、まだ一言も漏らしていないのに、涙の数滴にしか満ちていない不安と混乱と悲しみを受け入れようとしてくれていた。それが分かった僕は、少し落ち着くことができた。
彼女の肩からそっと額を剥がす。無意識に入れていた両手の指の力をできる限りそっと解いた。離れた僕たちの手は、自由に互いの体のそばに、まるで慰めるように寄り添った。
彼女は泣いていた。そして待っていた。
「羅々、僕は、呼ばれたみたいだ」
白い花。あの美しい顔を瞼の裏に描く。それは笑った顔なのに、何故か目の前で泣いている最愛の友人の顔に重なっていた。
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