第2話

花を手折った人が、それまでの生活を置いて他の場所へ生きる地を移すことは珍しいことではない。生涯を誓った相手が居ても、寝たきりの家族を残していても、たとえば生まれたての赤子を閉めたドアの向こうに置き去りにしてきたのだとしても、非難されることはない。今が、人生の半分だと知ること、それはこれからの半分を生きる土壌を選択できる最後の機会だ。どこで、何をして、誰と生きるのか。選んでそこまで生きたはずだったのに、もう時間は有限ではないと、見えないけれど確かな時間という目盛りで示されることで、人は自分の生をひたと見つめる。そこで出した結論を残された側は寛大な心で受け入れるしかない。


僕の父はそういう結論を出した一人だ。


母が僕を産んですぐ息を引き取ったのを、父は知らない。おばあちゃんは話すのを嫌がったけれど、いつ誰の口から洩れるかわからないのなら、せめて事実のままを話しておくほうを選んでくれた。その時のおばあちゃんの決断を僕は思い出しては感謝を口にしそうになる。



父は、母のお母さんであるおばあちゃんとの二人暮らしの家に同居する形で結婚生活を始めた。幸せな生活だったとおばあちゃんは言った。その辛そうな眉間の皺の震えに、僕はその生活の穏やかさや温かさを感じた。おばあちゃんは一つ息を大きく吐き、その生活が罅割れたのは、僕が母のお腹に宿ってからだったと言った。父は最初喜んだという。家族の最後の欠片が生まれてくる、と。けれど僕が生まれる頃、母は花を手折りにいった年を倍にした年齢になることを知ったことで、小さな罅は入った。僕を産まなければ母はもう少し生きられるのではないか、と父は言った。そんなことをしてどうするの、もう子供は宿ったのだから産みたい、愛したあなたの子供をあなたに残していくことが私の愛だ、と母は言い募った。お互いに言葉を尽くし、時には物を壊すほど激しく、また時間を置いては互いの肩を合わせてぬくもりを織り込んだ。そのうち二人は愛の言葉の中身を食べつくしてしまった。その言葉の中に焦燥や憎しみ、凶暴に互いを求める故の摩擦、悲しみといつか来る喪失の恐怖を詰め込んでいってしまった。それを互いにぶつけ合うことが、傷を作らないわけがない。そして父は呼ばれた。そんな疲弊した生活の中で花と会ったのだ。自分の半生を実感を伴って知った。それが彼にとって、父にとってどんな声に聞こえたのだろう。僕は想像する。きっと天使のやさしい救いの声に聞こえたのではないか。見たことのない父に対して意地悪で思うのではない。死を間近にした愛する人、愛した月日に比べればどれほどでもないだろうけれど今の憎しみの見え隠れする生活、そんな彼女が自分に残そうとする赤子。僕のことを父が愛してくれたのか、わからない。分からないからこそ僕は父がそれらすべてから逃げ出したことを許した。小さな鞄一つにまとまるほどの荷物だけを持って、夜中に誰にも見送らせず花を手折りに行った父を、おばあちゃんはけして悪く言わなかった。残されたおばあちゃんからすれば、父の行動も理解してあげたかったものなのだろう。僕に対して、そう考えたことをおばあちゃんは申し訳なく思ってくれていることも含めて、僕は父を許すことに決めたのだ。話し終わったおばあちゃんの目が少し潤んでいたこと。その後に飲んだ甘いミルクの味。夜は深く帳を下ろしていたことを、僕は覚えている。その記憶が父を許したままにしてくれることを、僕は自覚しているのだ。


夕餉の席で僕は考え込んでいた。

テーブルの上に並んだ野菜のスープ、ハム、少し乾き始めているパン。スープを口に入れては匙を置き、パンを千切りはするのになかなか口に運ばない僕を、おばあちゃんは心配する様子もなく静かに見ていた。


満光の願いは断るしかなかった。ごめんね、と二回繰り返す僕を、満光は、いいよ、の一言で解放した。お母さんのところに戻るよ、ありがとう。そう言って素早く立ち上がったかと思うと、彼女は走り出していた。彼女の小さな影が、離れたところで止まり、足一本を軸にくるりとこちらを見た。誰にも言わないで。そう強く言い残して、満光はまた駆け出して行った。呼び止めることはしなかった。呼び止めて言える言葉を、僕は持っていない。父の話を満光にすることはできなかった。必ず、彼女を傷つけることになる。僕が傷ついた顔で語るそれに、彼女は傷つく。彼女自身の気持ちの整理ができていなくても、僕の気持ちを優先させる。優しい女の子で、それだけなら良かったのに、満光は賢いのだ。他人の気持ちを読み取ろうといつもしている。大事な人から大事な人を奪ったのが自分なのではないか。そんな怯えを抱えながら、おばさんや羅々にそれを打ち明けられない。自分への愛情を否定してしまうような心の滓を、彼女は二人に見せることができないのだ。

僕を選んだのは、満光と僕は似ていると僕が感じているからかもしれない。僕なら考える。満光ならどう感じ、どんなふうに考えるだろうかと。僕が想像することを彼女は期待しているのだ。きっと満光の話した内容を彼女の家族に伝えはしない。おばあちゃんにさえ話さないだろうと。


花に一緒に会いに行けないなら、せめてこのどうしようもない気持ちに寄り添ってほしい。僕は満光にそう願ってほしいのだ。隠し事を隠しきれず打ち明けた心を、僕が重荷に感じていないかと不安にゆらゆらしていませんように。


おばあちゃんは先に食べ終わっていた。食べ終えた食器を片付けに立ち上がる。

僕はすっかり冷たくなったスープを、ため息を吐き出そうとする口へ掻き込んだ。パンは明日に回すことにする。ミルクと一緒になら喉を通るだろう。おばあちゃんの後に倣って水の張られた桶に、空の食器を沈めながら、ふと横手の窓を見た。おばあちゃんの家で唯一硝子の嵌っている窓だ。


窓のかたちの夜。冷たい空気は張り詰め、ほんの少しそちらに傾けば、すぐにその寂しがりな幾百幾千の暗い手に抱き竦められてしまいそうだった。裸の木々が、重たさを少し増してきた枝先を庇いながら揺れている。

まるで満光への罪滅ぼしのような気持ちでその木々の間、遠い星と明るい半分の月に祈っていた。片手にパンの残るお皿を持って。


どうか、僕のお父さん、満光のおじさん、どうかあたたかな家の中で、火の前で、満たされたお腹で、外の冷たさなど入り込む隙の無い幸せのなかにいますように。


いつだったか街から物売りの親子が来たことがある。深い森の色の帽子をお揃いで被ったおじさんと、その人の息子だという男の子。男の子はこの辺では見たことのない、濡れたような青い髪をしていた。短くされたその髪は、仲良くなった僕と羅々に別れの挨拶に来てくれた彼が、そっと秘密を教えるように帽子を脱いで見せてくれたのだ。僕と羅々は物売りのおじさんの話で、街にはたくさんの人がいることを知った。

街に行けば君みたいな髪の人もたくさんいるの?

だからその言葉は、そうなのだろうと想像して聞いたのだ。しかし男の子はふふふと笑って、あんまり、と言った。


僕も、羅々も知らなかった。男の子のあの髪は、花の前に捨てられて、花に生かされていた時期のある人間のしるしなのだと。男の子と物売りのおじさんは他人だったのだと、その時知った。そういう家族のかたちも存在するのだと知って、僕は涙をこらえた。

家族。それは知っているだけの存在で、いつしか憧れでも妬みの対象にもできなくなった存在だ。色々な形があっていいのだ。僕を育ててくれる無口な祖母と、黙りこくる僕が家族であるように。あの男の子の名前をもう忘れてしまったけれど、その名前は美しい音をしていた。それを発音する物売りのおじさんの声は包み込むようだった。あの髪を彼は、一等の秘密として大切にしていた。それは悲しみを隠すための秘密では、決してなかったと思う。


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