花と少年

とし総子

第1話

生まれたとき、見えたもの。それは白い花。雪のような、あまいような、白い花。それを頭上にひらいた同じ色の頬、唇に微笑まれたこと。いつか出会う花に、僕はいったいその時どんな顔をしたのだろう。



人が生まれたときに、花も生まれる。花はその人の半生を預かって飛ぶ。

その人の人生が折り返しに差し掛かった時、花との再会に最適な場所へと、飛ぶ。その色は一様に白く、そこに混ざる色に個性はあるものの、みな根の同じ白を下地に花を開く。少女、若い女性、幼子、妙齢の女、その姿こそばらばらだがみな花は頭上に大きく空に向かい合う花を開き、白い足はやがて土の中へと一本に吸い込まれている。美しい姿は儚く揺れて森の中に点在する。けして近付いてはならない。自分の花が呼ぶその時まで。自分の半生を迎えに行く、その時まで。




「来」


その声はどこか頬をつねるような力がこもっている。目を、落としていた畑の雑草から剥がし、子供らしいまるみのある声のほうを見た。三つの畔を隔てて小さな頭に少し釣り目の女の子が立っている。


「満光、どうしたの?またおばさんに黙って遊びに来てくれたの?」


午前中のこの時間、彼女の母親は畑に出ている。満光はその後に続いて遊んでいるのが常だが、時々こうして僕のところにやってきては相手をねだる。彼女の姉の友人であり、お隣さんの親しみで。彼女の口に出す僕の名前は、だから彼女の姉の呼び方の忠実な写しだ。年齢は違わないのにお姉さんぶる彼女の、すこし言いつけを口にする母親のような呼び方。僕はそれが好きだ。もちろん満光のも。


「もうちょっとだけ待ってくれる?この一本が終わるまで」


泥のついた指で足元の畔を指さす。それはもう半分を少し多く草抜きが終わっている。日がもう頭の上近くにいる。日差しの穏やかな、風のあまり吹かない冬の終わり。周りの木々には早々とふくらみが見つけられる。


満光はこくりと小さな黒い頭を頷かせた。


「ありがとう」


僕はしっかりと微笑むと、残りの雑草取りを急いだ。


満光と羅々の父親は、満光が生まれてすぐ花に呼ばれた。生まれたばかりの満光と、まだ産後の体への負担が大きかったおばさんを置いて行くことに、おじさんはただただ悲しそうだった。その時八つだった羅々に


「お父さんは必ず帰ってくるから、それまでお母さんと満光を頼むよ」


ちいさな肩に手を置いて言った。その手は八つの女の子の肩など覆って、滑り落ちてしまいそうだった。厚みのある手を、それでも羅々は力強く、優しく、それは旅立つ息子を見送る母のような目で、声で


「分かってるわ。大丈夫。心配いらない」


そう言った。おじさんを見送りに集まっていた村の人たちに頭を下げながら、最後におじさんは僕とおばあちゃんのところに来て、大きな体を深く折った。


「少し、留守にしますが家族のことを宜しくお願いします」


僕の目を見て、頼んだよ、とも。僕はその気持ちに応えようとして体が強張り、うまく声が出せなかった。ただ何度も頷いて見せた。おじさんはその全てを受け取ってくれたように一つ頷き、笑った。僕はその笑顔を今もくっきりとした線で覚えている。早朝の冷たさが鋭い、もう五年も前の冬の朝のことだ。


おじさんはそれ以来帰ってこない。


雑草取りを一段落させて額に僅かに浮かんだ汗を腕で拭いながら、畑の端でしゃがみこんでいる満光の方を見た。彼女は父親を知らない。写真の中で快活に笑うおじさんは、僕たちの中の記憶であって、彼女の中にはひとかけらも存在しないものだ。柔らかい横顔に、高い位置からの日差しが降る。すべり落ちる。無口で、見つめることが好きな満光。


「満光、ごめんね、おまたせ」


僕の声に顔を上げた彼女は、ほんの僅かに口の端を引き上げた。それが彼女の笑顔だ。


服についた土を払いながら、


「今日はどこに行きたいの?」


僕も笑う。小さな友人は僕に倣って立ち上がり、そっと口の横に手を添えた。ほかの畑仕事をしている大人たちに聞かれたくないことなのかと、彼女に合わせて少し膝を折る。十四の男子としては低めの身長が、満光には親しみやすさになる。


手で世界をやんわりと遮断しても、まだ信用しきれないのか、彼女はこの近さで拾えるかどうかの声で僕の鼓膜を揺らした。息の多く含まれた声。


「花に、会いに行きたいの」



花。それは野に咲く植物のことを指さない。多種多様の色と形を持つあれらは、それそれに名前が付けられ、その愛らしい姿ゆえに贈り物にされる。孤独に寄り添い、誰かの心を運ぶ手助けをする。花、はそれではない。



人生の半分に差し掛かった時、どこかの地でただ一声、半身を呼ぶ。その声は皆同じだと言われているけれど、自分の花以外に近づくことは禁忌だとされる僕たちに、それを確かめる術はない。神聖なもの、誰かの命の半分を預かりしもの、神様が与えた半身。植物の温度と一体性、生命活動の仕組みを持つのに人の女のかたちを模し、表情は美しく、雨も雪も嵐も花を折ることはできない。どんな刃物も、火でさえも花を折れない。森が炎に抱かれたあと、ぽつりぽつり灯が燈ったように焼けた地面に立ち続ける花の姿、そんな絵がある。花は何より人に近く、けれどその存在意義のために畏怖の対象に成らざるを得ない。花は半身から預かった半生の分の年齢に育つ。生まれて初めて受け入れる記憶は、自分の花との対峙。正確には生まれ出る前の、神様のそばで花を受け入れるときの光景だといわれている。その時の花の姿が、その人の花を手折るときの姿の鏡写しなのだと。母親は子供がおしゃべりを始めてすぐその記憶のことを聞く。子供が出会う花が年上の様だと安堵し、子供の姿だった時はただひたすら子供を甘やかしてしまうのだと。


僕の母は聞けなかった。僕はおばあちゃんに話した。僕の花は女の子だったこと。少女の年頃の、とても柔らかく笑っていた花だったと。おばあちゃんはそうかと言ったきり、微笑んで僕の髪をなでていた。母はなんと言っただろう。おばあちゃんに言っただろうか。母と僕は同じくらいの花を見たはずだ。母は、僕を産んですぐ死んだのだから。


おばあちゃんは冷たくなっていく母と、まるくて熱い赤ん坊の僕の間に座って空が明けるのを見たと言っていた。遠い空を見るような眼をして僕に。僕にその空を見せようとするように。その時けれど僕は、僕の花のことを透明な目の膜に描いていたのだ。


「ねぇ、満光?どうして花に会いたいの」


畑仕事をしている大人たちから離れて、森の端の木の下に腰を下ろした僕たちの前に、何か期待したのか数羽の小鳥が降りてきた。握りこぶしほどの体に、深い茶色と鮮やかな青の羽が線を描くように胸から羽先へ伸びている。その青に目を当てながら満光の気配を探る。生まれた時から知っている横顔。ゆるゆると揺らめく影が白と赤の頬を滑ってかすかに揺れる。


「知ってるよね、花には近付いちゃいけないのは。満光は賢いから、何か理由があって僕にいったんでしょう?」


「来は、お父さんを知ってるよね」


「おじさん?そりゃあね。」


満光はぐっと唇を噛んだ。口の中に、決して外に出してはいけないものがいるみたいに。自分の幼い歯でそれを噛み砕いてやろう、そして流れるだろう苦い中身を残さず飲み込んでやろうという強さで。


森の奥から風が吹く。遠い場所からの残り雪の甘い匂いが顔の横を通っていく。追いかけて細い枝先の震えや重なり合う落ち葉の散らかる音が合奏する。乾いた音の重なりが耳朶をひっかけながらはしる。


「お父さんは,帰ってくるって言った」


「…言ってたね」


「わたしがうまれたから出てったの」


「そんなわけない」


僕は自分の大きな声に驚きながら、そんなことを気にしていられないくらい必死に満光の瞳を覗き込んだ。彼女のまるい瞳は羅々よりも深い、春の土の湿った色をしている。本当は言葉よりも沢山の感情を巡らせているのだろう。僕は瞳の表面で、僕の花を思い浮かべた。一瞬の邂逅のように愛しい気持ちが瞳に満ちる。


「そんなことないって、しってるでしょう?」


「知ってるけど、それが本当なのかはわからないよ」


「本当って」


満光はふっと僕から目を逸らし、枯葉が覆う地面をみた。複雑な色々を細い筆でひとつずつ自分の中の額縁の中に落とし込んでいくように。


瞬き。三回数えて、僕はまた呼びかけた。彼女は噛んだ唇を、覚悟をしたように解いた。


白くなった肉に赤みが走って戻る。それは噛む前よりも赤くなったように思う赤。


「あのね、山査子のおばちゃんがほかのおばちゃんたちと話してたの。」


短い髪が冷たく焼ける。白く色を跳ね返す黒。


「あの家のだんなはもう五年も帰ってこない。子供も小さいのにどうして帰らなかったんだろうって。それは私が生まれたからじゃないかって」


「そんなこと…」


本当のこと。そんなこといったい誰が知っているというのだろう。山茶花のおばさんのおしゃべりはきっと悪意も嘲りもない、同情からの言葉だったのかもしれないけれど、あまりに無責任な言葉に胸の裏側が爛れるほど熱くなった。


満光は僕の継ぎきれなかった言葉の先を探す風もなく、地面の模写に力を入れている。無力なことを知っているのだ。自分だけでなく、僕もまたその仲間であることを。もしかしたら彼女はそれだけでなく、僕の父のことを知っているのかもしれないと思った。


「花に会って、どうするの?おじさんの帰らなかった理由を聞きたいの?」


満光は首をゆるく振った。それも聞いてみたいのかもしれない。下を向いたまま彼女の唇は割れた。


「わたしがいなくなれば、帰ってくるのか。それをお父さんにきいてほしいの」




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