第8話 一縷の望み

 ギリアムの死を見届けてから、パレアは深々と息を吐く。

「ギリギリだった」とか「紙一重で勝てた」とか、そんな安堵は全く湧いてこなかった。


「……ったく、勘弁してよ……」


 頭を抱えるようにして持ち上げた手で、クシャリと前髪を握る。

 現在生き残っている子供たちが、一人の例外もなく〝まとも〟じゃないからこそ、パレアは殺し合いに身を投じることに躊躇しなかった。


 実際ギリアムも、敬意を抱いた相手を躊躇なく殺しに来ている時点で、大概に〝まとも〟ではなかったが……もう少しだけでも交流を図っていたら、また違った結果になっていたのかもしれないと考えてしまう。

 どう足掻いても、殺し合うという結果が変わることはないとわかっていながら。


「……全てが終わったら、お墓くらいは建ててあげるわ」


 その言葉で無理矢理気持ちを切り替えると、踵を返して自分の家へ向かうことにする。

 ギリアムとの戦いで、そのほとんどが炭にされたナイフを補充するために。


 しばらく歩いていると、東の山間から太陽が顔を覗かせ始める。

 日の光を見てつい気が緩んでしまったのか、歩いていた足がもつれて転びそうになる。


 昨日からイルルナの実験を受け、寝ているところを背中の魔法陣によって無理矢理起こされ、夜通し殺し合いをさせられていたのだ。

 この五年間、心身ともに鍛え抜いたパレアといえども、疲労に襲われるのは自明の理だった。


(家に戻ったら、休めそうなら少し休んだ方がいいかもね)


 そうやって自分にささやかなご褒美をちらつかせることで、急激に重さが増した足を無理矢理にでも前に送り出した。



 ◇ ◇ ◇



 子供たちの一人――リリンは、視界の端に映る曙光に目をすがめながら、絶望的な気分になっていた。


 リリンは現在、何もない野原で這いつくばっていた。

 自ら進んで、こんな間抜けな格好をしているわけではない。

 体の自由はおろか、も奪われ、倒れたまま動けなくなってしまったのだ。


「なんでこんなことに……」


 つい、嘆きを口にしてしまう。


 殺し合いが始まってすぐ、リリンが真っ先に目指したのがイルルナの家だった。


 正直、イルルナには逆立ちしたって勝てる気はしない。が、それでも彼女を倒せる可能性を見出せるとしたら、殺し合いが始まった直後しかないとリリンは考えた。


 いくら生き残った子供たちの多くが、頭のおかしい連中ばかりだとは言っても、同じ師匠マスターのもとで一七年間切磋琢磨してきた相手を、何の躊躇も殺せるとは思えない――と思いたい。


 リリンは、そんな逡巡が都合良く発生することに賭けた。

 殺し合いが始まった直後、まだ誰も殺していないイルルナが万に一つでもこちらを殺すことに躊躇してくれたら、億が一の勝利をもぎ取れるかもしれない。

 というか、それ以外に、イルルナに勝つ方法が思いつかない。


 だから、殺し合いが始まってすぐにイルルナの家へ向かい……あと五〇〇メートルほど歩けば辿り着くというところで、唐突に体の自由が利かなくなり、地面に這いつくばった。


 イルルナの〝毒〟は、魔力が完璧に隠蔽されている上に無色透明で無味無臭――つまりは知覚ができない。

 そのことはリリンも知っていたため、体の自由が奪われたのは、イルルナの〝毒〟にやられたからだということは理解できた。


 理解できなかったのは、一晩経ったにもかかわらず、イルルナが一向に姿を現さないことだった。

 距離が離れている上に、倒れたまま体が動かないものの、視界はしっかりとイルルナの家を収めている。

 こんな状況で眠っていられるほどリリンの神経は太くできていないため、殺し合いが始まって以降、イルルナがいまだ一度も家の外に出ていないことは、自信を持って断言することができる。


 だからこそ、理解できなかった。


(殺し合いが始まって、私がこうして網にかかってるっていうのに、なんでイルルナは家から出てこないのよ!?)



 ◇ ◇ ◇



 鎧窓の隙間から差し込み光に気づき、イルルナはゆっくりと瞼を上げる。


 然う。

 イルルナは眠っていたのだ。


 殺し合いの合図となる、「背中の魔法陣が冷たさを伴った痛みを発した」ことで一度は目が覚めるも、その後すぐにベッドに潜り込んで眠ったのだ。

 だからイルルナは、殺し合いが始まってから一度も、家の外に出ていなかったのだ。


 最早、豪胆などという次元ではない精神性であることはさておき。

 この状況においてなお熟睡できるほどの備えは、しっかりと為されていた。


 〝毒〟の結界。

 自身の周囲を、自然風の影響を受けない、知覚不可能の〝毒〟で満たすことで、何ものをも寄せ付けないイルルナの魔術。


 五年前は半径二〇〇メートルほどだった範囲も、今は五〇〇メートルにまで拡大している。

 人間か魔獣が〝毒の結界に〟接触した場合は、術者であるイルルナに報せるようにしていた設定はより細かな条件をつけられるようになり、今は結界内に足を踏み入れた生物が〝毒〟に耐えられた場合にのみ報せる形にしている。

 リリンが結界に踏み込んだにもかかわらず、イルルナが目を覚まさなかったのは、彼女が〝毒〟に屈する取るに足りない存在だったからに他にならなかった。


 だからイルルナは、この期に及んで急いたりはしない。

 のんびりとベッドを下り、鎧窓を開け、備蓄していた水で顔を洗う。

 寝間着ネグリジェからローブに着替えると、家の外――には向かわず、昨日からかまどでコトコトと煮込み続けていた鍋の様子を確認する。


 蓋を開け、匂いを堪能しつつも、肉と野菜を煮込んだ出汁だし玉杓子レードルで掬って味見する。

 途端、柔和な笑みが華やいだ。

 

「うふふ。我ながら良い出来ですね」


 食器棚からスープ皿を取り出し、玉杓子を使って出汁ごと肉と野菜をそこに移す。

 寝起きなので肉は少なめに留めているが、それではお腹が膨れないので野菜を

多めに盛り付ける。


 鍋の蓋を閉め、スープ皿をテーブルに置き、スプーンを用意したところで椅子に座る。


「いただきます」


 自分一人しかいないのに、律儀に食事始めの挨拶をすると、しばしの間自身の手料理に舌鼓を打った。


「ごちそうさまでした」


 食事終わりの挨拶も律儀にこなしたところで、食器を洗い、丁寧に水滴を拭ってから片づける。

 今この瞬間も、子供たち同士で殺し合っているというのに、イルルナの朝は異常なまでに普段どおりだった。


 とはいえ、朝の支度が終わった後は、さすがにいつもどおりというわけにはいかず、壁の一角にある、数十もの小さな抽斗ひきだしが敷き詰められた棚のもとへ向かう。

 抽斗には、イルルナがこっそりと集めていた秘密の触媒――子供たちの髪の毛と爪の欠片――が入っており、今生き残っている一六人分の触媒を取り出すと、別の棚から取り出したすり鉢の中に放り込んで、すりこぎ棒でゴリゴリとすり潰した。


 そうして渾然一体となった毛と爪に、高樹齢の木から取った樹液を混ぜ込み完成させる。

 現在進行形で行なわれている殺し合いを、たった一手で終わらせる毒魔術に使用する、とっておきの触媒を。


 然う。

 イルルナは、ヴェルエが最終課題として用意した殺し合いを、


 なぜなら、自分がその気になれば、毒魔術を一度発動するだけで全てが終わるからだ。

 ギリアムだろうが何だろうが、ことができない時点でイルルナの敵ではなかった。


 とはいえ、ただ毒殺するだけではつまらない。

 子供たち一人一人に合った〝毒〟を見繕うくらいの遊びがないと、それこそただの虐殺になってしまう。

 そんな蛮行は、自分には似つかわしくない。


師匠マスターを避けるのは当然として……パレアさんは時間の許す限りでて差し上げたいから、肉体と魔力の自由を奪う〝毒〟に留めておきましょう。あとの方たちは……そうですね……各々が最も嫌がる苦痛を与えながらも、ゆっくりと死に至る〝毒〟をプレゼントして差し上げるのがいいですね」


〝毒〟の効果が決まったところで、すり鉢の中にある触媒に向かって両手をかざす。が、ふと思いついたように、横目で外を――ここからは見えないリリンが倒れ伏している方角を見やる。


「これから自分が殺される〝毒〟を知覚できないというのは、少々可哀想かもしれませんね。だから…………そうだ! みなさんにもわかりやすいよう、〝毒〟には真っ赤な色をつけて発動して差し上げるとしましょう」


 さも名案が思い浮かんだように声を弾ませると、両掌から具象した、血のように毒々しい赤光しゃっこうを触媒に浴びせかけた。



 ◇ ◇ ◇



 相も変わらず地に這いつくばっていたリリンは、イルルナの家の方角から流れてきた美味しそうな匂いに、ますます絶望的な気分になる。


(このタイミングで、なにのんびり朝ごはんなんて食べてんのよ!? ほんと何なの、あいつ!?)


 距離的にはそうそう匂いなんて届かないはずがないのに、微風がリリンの方へと流れてきているせいで、否応なしに空腹を刺激される匂いを嗅がされてしまう。

 自分が今そんな状況に置かれていることに、惨めを通り越して恐怖すら抱いていた。

 以前からイルルナことは普通じゃないと思っていたが、その認識が甘かったことを否応なしに思い知らされる。


(……もういっそ、さっさと殺してよ……もう……限界よ……)


 そんな願いは、考え得る最悪の形で実現することとなる。


 突然、イルルナの家から煙のようなものが立ち込め始めるのを見て、リリンは片眉を上げた。

 毒毒しいまでに真っ赤な煙は、微風の影響を受けることなく、イルルナの家を中心にして拡がっていく。


「やっと、やる気になったみたいね。けど……」


 ふと思う。

 イルルナは何を思って、こんなところで毒霧を発生させたのだろう――と。


 今、彼女の家の近くにいるのは、リリンただ一人のみ。

 しかも〝毒〟にやられたせいで、身動きもとれなければ、毒魔術も使えないときている。

 最早害にすらならない魔術師一人を殺すには、この毒霧の拡がりようは少々過剰に思える。


「まさか、私たちが行動を許されている区域全体に、毒霧を撒き散らすつもりとか?」


 思わず「ははっ」と笑ってしまう。

 それは、いくらなんでもあり得ない。


 リリンが全魔力を費やして毒霧を発生させても、今イルルナの家の周囲を覆っている〝毒〟と同程度の範囲――半径五〇〇メートルくらいが精々だ。

 区域全体に行き渡らせるとなると、その何十倍――下手をすると何百倍もの毒霧を散布しなければならない。

 そんな真似ができる人間は、それこそ師匠マスターくらいのものだろう。


「……まあ、どうでもいいか。どうせもうすぐ死ぬし」


 子供が小走りするような速度で迫り来る毒霧を前に、あっさりと諦める。

 今日こんにちまで生き残っただけあって、リリンもまた〝まとも〟とは言い難い人間だった。


 だが。


 イルルナの〝毒〟は、そんな人間の精神すらもグチャグチャに踏みにじるほどに、凶悪で醜悪で最悪だった。


 真っ赤な毒霧が、リリンを包み込んだのも束の間、


「え? なっ!? いや……いやぁああぁあぁああぁああぁッ!?」


 何億もの蟻が一斉にして全身に齧り付いたかのような激痛に襲われ、リリンは狂ったように絶叫する。


 ただ殺されるだけなら、簡単に受け入れられる。


 その際に多少の苦痛が伴っても、まだ我慢はできる。


 けど、は駄目だ。


〝毒〟でその身が朽ちる前に、精神を蝕み殺すことを主眼に置いたとしか思えない、この〝毒〟は駄目だ。


〝まとも〟ではない精神の持ち主ですらも、到底耐えられない狂毒だった。


「ひぎゃぁぁああぁああぁぁあッ!! やめてぇぇえええぇええぇええぇッ!! 助けてぇええぇえええぇえぇぇぇええぇぇぇッ!!」


 身も、心も、魂さえも踏みにじる、邪赤じゃあかの毒霧。

 手始めにリリンを蹂躙したその〝毒〟が、全てを蝕み尽くさんばかりの勢いで拡がっていく。



 ◇ ◇ ◇



 岩場に身を隠し、束の間の休憩をとっていた、子供たちの一人――エリオは、この殺し合いにおいて確かな手応えを感じていた。


「二人だ……二人もってやったぞ……!」


 興奮を吐き出しながらも、非常食として携帯していた干し肉を噛みちぎる。

 その言葉どおり、エリオは殺し合いが始まってからすでに、二人の子供を毒殺していた。


 蚊を媒介とし、気づかれることなく狙った相手に〝毒〟を注入する――その毒魔術は、師匠マスターからは一定以上の評価を得られたものの、子供たちの間ではあまり高い評価を得られなかった。

 その毒魔術を特に馬鹿にしていたのが、エリオが葬った二人だったが、


「まさか、こうも簡単に殺れるとはな……所詮は僕の魔術の素晴らしさがわからない、カスだったというわけか」


 師匠マスターの口癖を真似しながら悦に入る。


 この魔術ならば、誰が相手だろうが気づかれることなく〝毒〟を注入し、殺すことができる。

 たとえそれが、イルルナやギリアムであっても。


 そんなことを夢想していたエリオだったが。

 ふと視界の端に映る景色が不自然に赤くなっていることに気づき、そちらに視線を向け……思わず、その手に持っていた干し肉を取り落としてしまう。


〝赤〟が、迫っていた。


 霧と呼ぶにはあまりにも存在感が強すぎる、事実風の影響を全く受けない〝赤〟が、世界そのものを覆い尽くさんばかりの勢いで迫っていた。


「は……はは……」


 引きつったように、笑う。


 この〝赤〟は、おそらくイルルナの仕業だ。

 師匠マスター以外でこんな真似ができる人間がいるとしたら、彼女以外に考えられない。


 同時に、悟る。

 イルルナを殺せるなどと一瞬でも思ってしまったことが、どれほど傲慢な考えであったのかを。


 エリオは、腰に下げていた壺の蓋を開き、その中に休ませていた蚊に命令を下す。

 僕を刺せ――と。


 イルルナの嗜虐的サディスティックな性格は知っている。

 その彼女の〝毒〟が、ただ対象を殺すだけの代物ではないことくらい、エリオにはわかっていた。

 そして、今なお迫りつつある〝赤〟が、確実に区域全体を覆い尽くすことも。


 ゆえに、苦しむことなく自殺できる〝毒〟を蚊に宿し、刺させるという、苦痛のない敗北を選ぶことに何の躊躇もなかった。



 ◇ ◇ ◇



 リリンが苦痛の末に、エリオが苦痛なく死に絶えた頃。

 二人と違って迷うことなく抗う道を選んだパレアは、鯨波げいはの如く押し寄せてくる邪赤じゃあかの毒霧に対し、付かず離れずの距離を維持しながら逃げ続けていた。


 パレアが毒霧に気づいたのは、自分の家に戻ってナイフを補充し、周囲を警戒しつつも一休みしていた時。

 一目見て、毒霧がイルルナの仕業であることを、彼女が区域内の全てを毒霧で覆い尽くす気でいることを看破したパレアは、即座に家を飛び出し、付かず離れずの距離を維持できる速度で走りながら、毒霧の観察を開始した。


 この毒霧を乗り越えて、フィーリの仇を討つために。

 フィーリが味わった苦痛を、イルルナに味わわせるために。


(〝上〟に逃げるのは……無理そうね)


 毒霧の高さが、周囲の山々をも越えているのを見て嘆息する。


(それなら〝下〟……穴を掘って地面に隠れるとか、水の中に潜り込んで毒霧をやり過ごすとかは?)


 その検証をするために、ここから程近いところにある湖へと向かう。

 逃げながらも、湖に迫る毒霧を注視するも……自然風はおろか、水や地面の干渉さえも受けないと言わんばかりに、毒霧が湖底まで浸透していく様を見て、逃げることは勿論、やり過ごすことも不可能であることを思い知る。

 知らず、舌打ちを漏らしてしまう。


(それにしても、こうもわかりやすく赤くしてるのは、「知覚できないのは可哀想」とか、わけのわからない慈悲を発揮した結果じゃないわよね?)


 まさしくその通りだと知ったら、パレアがどれほど嫌そうな顔をするのかはさておき。

 イルルナの歪んだ慈悲が、結果的に余計な恐怖を煽っているのを身を以て体感している今のパレアも、大概に嫌そうな顔をしていた。


 走りながらも毒霧を注視し続ける。

 少なくとも視覚や嗅覚から得られる情報では、攻略の糸口どころか、〝毒〟の効果すらも見極められそうになかった。


 ただ、〝毒〟の結界とは違って魔力を隠蔽する気がまるでないおかげもあって、毒霧に込められた魔力の途轍もなさは見極めることができた。


(仮にあたしが一〇〇〇人いたとしても、これほどの毒霧を創り出すのは不可能ね)


 つくづく思い知らされる。

 自分とイルルナの、絶望的なまでの才能の差を。


 同時に、こうも思う。


(才能がないくせに、イルルナの〝毒〟を見極めようってのが、虫が良すぎたわね)


 一瞬よりもさらに短い刹那、毒霧に触れることで〝毒〟の効果を見極める。

 イルルナのことだから、毒霧にはまず間違いなく皮膚から浸透する性質を付与している。

 そのため、直接毒霧に触れるのは相当な危険が伴うが、


(そうする以外に道がない以上はやるしかない……!)


 外套の襟で口元を覆い、ゆっくりと、少しずつ、走る速度を落としていく。

 そうして、ゆっくりと、少しずつ、毒霧との距離を詰めていく。


 霧である以上、先端だと判断する指標が存在しないため、パレアは走る速度を落とし続けながらも、毒霧に向かってできる限り手を伸ばす。


 指先と毒霧との距離が、ゆっくりと、少しずつ、詰まっていき……


「――――っ!!」


 指先から〝何か〟が入り込むような感覚を覚えた刹那、パレアは思考するよりも早くに伸ばしていた手を引っ込めた。


 直後、全身はおろか、その身に流れる魔力すらも痺れるような感覚に襲われ、足がもつれて転んでしまう。


(まっずい……!!)


 地面を転がることで距離を稼ぎながらも、いまだ痺れの残る体を立ち上がらせる。

 無理矢理にでも走り出すも、両脚に力が入らず、生まれたての子鹿のようにふらついてしまう。

 それでもなお、必死に足を前へ前へと送り出す。


 振り返れば毒霧がすぐそこまで迫ってきているだろうが、今は首を後ろに向ける一瞬すらも惜しい。

 ただ必死に、ただただ必死に、思うように動いてくれてない体に鞭を打って、子供が小走りするような速さで走り続ける。


 ふらつきながらも走って、走って、走り続け……摂取した〝毒〟がごく少量だったか、はたまた走り続けたことで、汗と一緒に〝毒〟が外に出てくれたのか。

 少しずつ痺れが抜けていき、子供の全速力程度の速さで走れるほどにまで回復したところで、パレアはようやく後ろを振り返り……安堵する。

 毒霧が、想像していたよりもずっと後方にあったことに。


 もう少しだけ走ることに専念し、痺れがほとんど取れたところで、毒霧の効果についての考察を開始した。


(〝毒〟の効果は、体の自由を奪うどころか、魔力の流れさえも阻害して魔術すらも使えないようにする代物だったわね。けど……)


 触れた感触は、なんというか、今出した結論ほど単純な代物でもなかったように思える。

 もっと様々な効果が潜んでいるような、もっと危険な〝毒〟が内包されているような、そんな感触だった。


(くらった人間によって効果が変化する〝毒〟……とか?)


 そこまで思考を巡らせたところで、かぶりを振る。


 毒霧について考察するといっても、必要なのはあくまでも攻略の糸口となる情報のみ。

 逃げ続けるにしても、毒霧が区域全体を覆い尽くすまでという限界がある以上、思考にしろ時間にしろ、余計なことに費やしていられる状況ではない。


 必要な情報は、毒霧には体の自由を奪い、魔術の使用を妨げる効果があること。

 ほんの一瞬、指先で触れただけでも体が思うように動かせなくなるような猛毒であること。

 この二つのみだ。


(あそこまで強烈な〝毒〟だと、わざとくらって動けないフリをして、近づいてきたイルルナの不意を突くっていう手は使えそうにないわね。あのド変態の実験を何百回も受けてきたおかげで、多少は耐性がついてきたと思ったけど、考えが甘――……)


 不意に、気づく。

 

 自分が、イルルナの〝毒〟について、下手をすると


(いける……かもしれないわね。〝アレ〟が)


 となると、向き合わなければならない。

 つい今し方、余計なものと切って捨てたものと。


(成功する確率は低いかもしれないけど……逃げ切ることもやり過ごすことも耐えきることもできない以上、〝アレ〟以外にイルルナの〝毒〟を打ち破る手はない。だから……)


 左胸につけていたフィーリのブローチに手を添えるも、すぐさま我に返ったように手を離す。


「……別に、そんなんじゃないから」


 例によって、自分でも何が「そんなんじゃない」のかわかっていない言い訳を吐くも、


「……いえ。違うわね。そんなんじゃ……あるわね」


 諦めたように。


 あるいは観念したように。


 もう一度ブローチに手を添え、優しく握り締める。


 そして、


「あたし一人じゃ、たぶん成功しないと思う。だから……」


 先程は誤魔化ごまかした想いを、今度こそはっきりと言の葉に乗せた。


「あたしに力を貸して! フィーリ!」

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る