第9話 仇討ち

 館の自室にいたヴェルエは、窓の外に映る景色が毒々しいほどに赤い霧で満たされているのを見て、「うぇ~っふっふっ」と愉しげに笑う。


「ようやく動きを見せたと思ったら、これかい」


 毒霧に込められた複雑極まる術式を一目で看破したヴェルエは、この毒霧がイルルナの仕業であることも、この一手だけで殺し合いが終わってしまうことも看破していた。


「ギリアムが死んだってのに、いまだにパレアのカスが生き残っていることには苛つかされたけど……どれだけしぶといカスでも、さすがにこれはどうしようもないだろうねぇ」


 再び「うぇ~っふっふっ!」と愉しげに笑う。

 殺し合いの終焉を、イルルナの勝利を、心待ちにしながら。



 ◇ ◇ ◇



 すり鉢の中にある触媒に向かって両掌をかざし、ひたすらに赤光しゃっこうを浴びせかけることで、際限なく毒霧を発生させていたイルルナだったが、


「……ふう。こんなものでいいでしょう」


 毒霧が区域全体を覆い尽くしたことを確信すると、触媒に浴びせていた赤光を止める。

 規模が規模なので、さしものイルルナも余裕というわけにはいかず、体には多少の疲労感が残り、額には汗が滲んでいた。


 汗を流すために、備蓄していた水で今一度顔を洗ってから、心底残念そうにため息をつく。


「まさか生き残っていた子供が、パレアさんとリリンさんの二人だけだったなんて……少々お寝坊さんがすぎたみたいですね」


 先の毒霧は〝毒〟の結界と同様、子供たちが接触した際に、術者であるイルルナに報せるよう設定している。

 生き残った子供を正確に把握することができたのも、それゆえだった。


「もう少し生き残っていてくれたら、みなさんがもがき苦しんだ末に死ぬ様子を堪能できましたのに……」


 心底残念そうに落ち込むも、すぐにかぶりを振って、この状況においては悍ましさしか感じないほどに柔和な笑みを取り戻す。


「まあいいでしょう。その分、パレアさんを目いっぱいでてあげればいいんですから」


 嬉しそうに愉しそうに、パレアにとっては悍ましいことこの上ない宣言をしてから、弾むような足取りで家の外へ出る。


 区域北端にある森にパレアがいることは、毒霧を通じて把握している。

 逃げ遅れるような状況にでも陥ったのか、一瞬毒霧に捉まりかけた場面もあったが、ごく少量の〝毒〟で捉まえきれるほど、彼女は甘くなかった。

 さすがとしか言いようがなかった。


 しかし、それも所詮は無駄な抵抗。

 そうとわかってなお、彼女は最後の最後まで希望を見失うことなく足掻き続け、背中の魔法陣の致死毒が発動しない、区域の端の端まで逃げ続け……最後は、毒霧に捉まってしまった。

 そんな健気な彼女の姿が目に浮かび、たまらないほど愛おしくなる。


 彼女のことだ。

 毒霧によって身動き一つとれず、毒魔術すら使えない状態になっても、必死になって状況を打破する方法を模索しているはず。

 他の子供たちならいざ知らず、彼女に限って言えば、自殺などという選択肢は脳裏にかすめてすらいないだろう。


「わたくしの大好きなパレアさんが、全てを諦めるなんて選択をとるわけがありませんもの」


 その確信が嬉しくて嬉しくて……つい、笑みが吊り上がってしまう。

 この場に他の子供たちがいたならば、揃って慄然していたと断言できるほど邪悪に。


「それはそうと、どういう〝毒〟でパレアさんを愛でて差し上げましょうか」


 今まで何十何百と実験に付き合ってもらったせいか、幻とはいえ肉体的苦痛に対しては、もうたいした反応を見せてくれなくなった。

 となると、痛覚は少なくとも数百倍まで膨れ上がらせる必要がある。


 肉体的苦痛と同時に精神的苦痛を与えるために、〝毒〟が体内に侵入した際は、体の内側から幾億もの虫に食い荒らされるような感触をお届けするのが良いだろう。


 そんな、絶望的なまでの激痛と不快感を長時間味わわせたら、彼女はいったいどんな素敵な顔を見せてくれるだろう?


 涙をたたえながらも、必死にこらえ続けてくれるだろうか?


 それとも堪えきれずに、甘美な悲鳴を上げてくれるだろうか?


 それでもなお、状況を打破する一手を模索してくれるだろうか?


 それとも、心が折れて絶望に満ちた顔を見せてくれるだろうか?


「あぁ……楽しみで楽しみで……堪りませんね……」


 彼女のことを想えば想うほど、下腹部が熱くなってくる。

 今日ここで、彼女を殺してしまわなければならないのは哀しいことだけれど、今日ここで彼女を好きなようになぶり殺せることは、堪らないほどに楽しみだった。


 彼女の死体は、師匠マスターにお願いして綺麗なまま残してもらうとしよう。

 そうすれば、彼女は完全にわたくしのものになる。

 そうすれば、彼女と毎日ことができる。


「ふふ……うふふふ……」


 身の毛のよだつほどに悍ましいことを、夢見る少女のように夢想しながら、スキップするような足取りで歩を進めていく。

 やがて区域北端の森に辿り着き、奥の方へと進んでいくと、


「いましたね」


 草むらの上で倒れ伏すパレアを発見し、声を弾ませた。

 そんな声に負けず劣らず足取りを弾ませながら、パレアのもとへ歩み寄る。


「パレアさん。気分はどうですか?」

「…………最悪よ」


 吐き捨てるような返事すらも愛おしくて、つい笑みを吊り上げてしまう。


「わたくしが来る前に舌を噛み切っていれば、そんな最悪な気分は味わわずに済みましたのにねぇ?」


 露骨に挑発してあげると、足元から露骨な舌打ちが聞こえてきた。


「知らないようだから教えてあげるけど、人間、舌噛み切ったぐらいじゃそうそう死なないわ。そもそもそれ以前に、フィーリの仇であるあんたにだけは、白旗振るなんて死んでもごめんよ!」


 ろくに体が動かないのに、絶体絶命の状況なのに、パレアは気丈に睨み上げてくる。

 そんな彼女の気高さが、イルルナの疼きを加速させる。

 本当に愛で甲斐のある女性ひとだと、あらためて、心の底から思う。


 だけど。


(いまだあなたの口から、あの子の名前が出てくるのは、少々許せませんね)


 その一点に関しては、少しばかりお仕置きが必要だと思ったイルルナは、人差し指の先に紫玉しぎょくの光を灯す。

 まずは、痛覚が数百倍になる〝毒〟を与え、「フィーリ」という単語が脳裏にかすめもしないくらいの痛みを与えよう。


(嬲り殺してあげるのは、それからですね)


 そんなことを考えながらも、紫玉の光に込められた〝毒〟を、パレアに注入するために腰を落とした――その時だった。


 眼前のパレアが霞んで見えたのは束の間、


 紫光を灯していた指先の感覚が、唐突に消え失せた。


 遅れて、感覚が消えた指が、灼熱の如き激痛を訴えてくる。

 いったい何が起きたのかと思い、人差し指を見やると、



 第一関節と第二関節の中程で切断され、血を噴き出す人差し指が視界に映った。



「……はい?」


 そんな間の抜けた言葉を最後に、突然体の自由が利かなくなり、力なく地面に横たわる。

 体内の魔力の流れも変調をきたしており、とてもじゃないが魔術なんて使える状態ではなかった。


「これは、まさか……わたくしが、パレアさんにかけた〝毒〟と同じ?」



「そのとおりよ」



 からパレアの声が聞こえてきたので、ろくに動いてくれない首の代わりに瞳を動かして見上げると、そこにはパレアの姿があった。


「あんたがあたしにかけた〝毒〟、そっくりそのまま返してあげたわ」


 言いながら、パレアはいつの間にやらその手に持っていたナイフを、外套の下に仕舞う。

 それを見て、イルルナは得心する。

 パレアが草むらに倒れ伏していた時点で、すでにナイフをこちらから隠す形で握り込んでいたことを。

 こちらが腰を落とすのに合わせて、目にも止まらぬ速さでナイフを振るい、紫光を灯した人差し指を切断したことを。


 その一方で、どうしても得心できないことがあった。


「パレアさんは、間違いなくわたくしの〝毒〟にかかったはず。なのに、どうしてなんともないのですか?」


 答えようかどうか迷ったのか、パレアはわずかな沈黙を挟んでから答えた。


「……この五年間ずっと研究していた、『毒を殺す毒』を使ってあんたの〝毒〟を殺した。それが答えよ」


 思わず、イルルナは目を見開いてしまう。


「『毒を殺す毒』……ですか。なるほど。その発想はありませんでしたね。一応わたくしも、他者の毒魔術を解毒する方法を模索したことがありましたが、得られた結論は、所詮わたくしたちは〝毒〟しか創れないということと、結局は〝治癒〟系の魔術師以外に毒魔術を解毒することなんて不可能ということ。ですが……」


 言葉を切り、見開いた目に敬愛の念を込めながら、いまい一度愛しい人パレアを見上げた。


「〝毒〟を治すのではなく、〝毒〟を殺すという発想ならば、わたくしたち〝毒〟の魔術師でも、他者の毒魔術を解毒することができる。そこに目をつけるなんて……これはもう、素直に負けを認めるしかありませんね」


 正直、負けるとは微塵も思っていなかった。

 けれど、他ならぬパレアが相手ならば、敗北を受け入れることに何の躊躇もなかった。

 むしろ、さすがはわたくしの愛しい人ですと、賛辞を送りたいくらいだった。


 そんな満ち足りた気分になっているイルルナにとって、この後パレアが口にした言葉の内容は、まさしく〝毒〟そのものだった。


「……イルルナ。勘違いしているようだから言ってあげるけど、『毒を殺す毒』を思いついたのは、あたしじゃないわ」


 そして、彼女は勿体ぶるように沈黙を挟んでから、今一番聞きたくなかった名前を言った。


「『毒を殺すための毒』を思いついたのは、フィーリよ」


「…………………………は?」


 意識を介さずに漏れた声は、自分のものとは思えないほどに濁っていた。



 ◇ ◇ ◇



 イルルナの口から漏れたドス黒い声を聞いて、パレアは確信する。

 この女に苦痛を味わわせるのに最も最適な方法は、ことだと。


「少し考えればわかることでしょ。あたしはどうしようもないくらいに、〝毒〟の魔術師としての才能がない。そんなあたしが『毒を殺すための毒』なんて、思いつけるわけがないじゃない」

「……ふざけないでください。『毒を殺す毒』を思いつき、わたくしに勝ったのはパレアさんでしょう? わざわざ嘘をついてまで、フィーリさんの名前なんて出さなくてもいいでしょう!?」

「嘘なんて一つもついてないわ。『毒を殺すための毒』を思いついたのは、フィーリ。これは、変えようのない真実よ」

「ていうか、さっきから『ための』って何ですか!? さっきまでパレアさんも『毒を殺す毒』って言っていましたよね!? どうして急にそんな無駄に長ったらしい言い回しをするんですか!?」


『毒を殺すための毒』という発想は、あくまでもフィーリのものであり、彼女の功績を尊重したいという思いから、自分が形にしたものは『毒を殺す毒』と呼び分けるようにしていた。

 そんな些細なことに、イルルナが食いついてきたのは正直意外だったが、


(これは、使わね)


 そう判断するや否や、これ見よがしな言葉を足元のイルルナにぶつけた。


「それは勿論、フィーリがそう言っていたからよ」

「~~~~~~~~~~っっ!!!!」


 らしくもない罵詈雑言でも吐きそうになったのか、イルルナは顔を真っ赤にしながらも、怒りの吐息を吐き出す。

〝使える〟どころの騒ぎではない。

 効果は覿面てきめんだった。


「だから、あんたが負けた相手はあたしじゃない。あんたはフィーリに負けたのよ」

「ん……んっ……ん~~っ!! 認めませんっ!! わたくしが負けたのはパレアさんっ!! まかり間違っても、あんな間女まおんなではありませんっ!!」

「間女って……」


 どこからツッコめばいいのかわからない言葉に、パレアは呆れた吐息をついてしまう。


(これ以上追い詰めたら、フィーリの悪口とか言い出しそうね……)


 たとえ悪口程度でも、これ以上フィーリが傷つくようなことは避けたかったので、イルルナに精神的苦痛を与えるのはこれくらいにして、仕上げにかかることにする。


「そこまで言うなら、見せてもらおうじゃない。あんたが、フィーリに負けてないってところを」


 そう言って、懐から小瓶を取り出し、イルルナに見せつける。


「今からこの小瓶の中に入っている触媒を使って、フィーリが味わったものと同じ苦しみを、あんたにも味わってもらう。それを乗り切ることができたら、フィーリに負けてないってことを認めてあげるわ」


 イルルナは、これ見よがしに鼻で笑ってみせる。


「そんな簡単なことでいいのなら」


 その表情は、その言葉は、明らかにフィーリのことを見下したものだった。

 だからこそパレアは、これからやることがまるで趣味ではないことを自覚してなお、躊躇なく踏み切ることができた。


「その言葉、ちゃんと覚えてなさいよ」


 小瓶の蓋を開け、中に入っていた触媒の液体をイルルナに浴びせる。


 そして、発動する。


 フィーリがマンイーターに、生きながらにして四肢とはらわたを喰われた痛みを再現した、ただただ対象に苦痛を与える効果を宿した毒魔術を。


〝毒〟が、イルルナの体中に染み渡った刹那、「ひゅっ」と、引きつるような呼気が、彼女の口から漏れる。


 直後――


「ぎぃやぁああぁぁあぁぁああぁあぁッ!!」


 普段の彼女からは想像もつかない、獣じみた悲鳴が喉を裂いた。


「痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛いッ!!」


 最初に受けた〝毒〟のせいで、身じろぎ程度しか動けないまま悶え苦しむ。


「やめてやめてやめてやめてやめてやめてやめてやめてやめてやめてぇッ!!」


 顔の穴という穴から液体を撒き散らしながら絶叫する。


「わかったからッ!! 負けでいいからッ!! もうやめてぇえぇええぇえぇえッ!!」


 恥も外聞もなく、醜態を晒してまで懇願するイルルナに、パレアは舌打ちを漏らした。


(これを見て、スカッとしたとか、いい気味だとか思えたら、どんなに楽だったか……)


 自虐とも自嘲ともとれる独白を呑み込みながら、外套から一本のナイフを取り出す。

 ただの幻聴だろうけど、フィーリの声で「その方、パレアちゃんらしいよ」と聞こえたような気がした。


「助けてぇええぇえぇええッ!! お願いだから助けてぇえぇえぇええええぇッ!!」


 おそらくは彼女自身、一度も聞き入れたことはないであろう言葉を叫び続ける。

 そんなイルルナに、もう一度だけ舌打ちを漏らすと、


「助けてなんかやらないわよ」


 冷たく言い放ち、イルルナの体を蹴って仰向けにさせてから、彼女の心臓にナイフを突き立てた。

 その行為が、彼女を苦痛から〝助ける〟ものであることを承知した上で。


 イルルナが完全に沈黙したところで、力が抜けたようにその場にへたり込む。

 最早、限界寸前だった。

 同じ師のもと、一七年ともに過ごしてきた子供たちと殺し合いをしたことで、これ以上ないほどにまで擦り切れていた心も。

 深夜、寝ているところを強制的に起こされ、今に至るまで殺し合いをしたことで、鉛のように重い体も。

 限界寸前にまで疲弊しきっていた。

 仇の一人を地獄に叩き落とせた――そんな感慨に浸る余裕すらもないほどに。


 もう戦う力なんて、しか残っていない。

 今、他の子供に襲われようものなら、抗いきれる気はしなかった。


(けど……子供たちはもう、あたし以外は生き残っていないはず……)


 それは、確信だった。


 パレアの『毒を殺す毒』の発動を成功させるには、対象となる毒を完璧に理解する必要がある。

 こうして生きていることからもわかるとおり、パレアはイルルナの毒霧を完璧に理解してみせた。

 何十何百と、彼女の実験台になったことで、誰よりも彼女の〝毒〟の性質や性格を知っていたがゆえに。

〝毒〟の魔術師として落ちこぼれだったがために、常日頃からイルルナの実験に付き合わされていたことが、結果的に勝利の決め手の一助になったのは皮肉としか言いようがなかった。


 兎にも角にも、パレアはイルルナの毒霧を完璧に理解したからこそ、他の子供たちが一人もことを確信していた。

 なぜならイルルナの毒霧は、パレア以外の子供を、狂っているとしか思えないほどに多彩な効果をもって嬲り殺しにする代物だったから。


(だから、もう生き残りはいないはずなんだけど……背中の魔法陣に、何か変化が起きたって感じはしな――……)


 噂をすれば言うべきか。

 不意に背中が熱を帯び始め、思考が途切れる。

 その熱が、体の内側を通り越して、魂にまで染み込んでくるような感覚に襲われる。

 最早へたり込むことすらままならず、地面に両手をついてなんとか上体を支えた。


「これ……は……!?」


 魂に、流れ込んでくる。

 膨大な毒魔術の知識が激流さながらに流れ込み、魂の髄に刻み込まれていく。


 ヴェルエは、子供たちの背中に刻んだ魔法陣を、呪いであると同時に福音だと言っていた。

 最後まで生き残った子供の魔法陣は、消滅すると同時に「ワタシの全てを手に入れる」とも言っていた。


 全てとは、ヴェルエがこれまで培ってきた毒魔術の知識を指した言葉だった。


 あまりにも膨大で、あまりにも強烈な知識の激流を前に、今にも飛びそうになる意識を気力だけで繋ぎ止める。

 そんな健気な努力を一顧だにすることなく、知識の激流は容赦なくパレアの魂に流れ込んでいく。


 激流が止まったのは、時間にして五分が経とうとした頃だった。

 限界寸前だった心身にさらなる負荷をかけられたせいか、地面についた手には最早上体を支えるほどの力はなく、くずおれるように倒れてしまう。


「はぁ……はぁ……はぁ……。あの……クソババア……!」


 福音を受けて最初に出てきた言葉は、ヴェルエへの悪態だった。

 ヴェルエの毒魔術の知識を得たことで、完璧に理解できてしまったのだ。


 フィーリが死んだあの夜、どうやってマンイーターを子供たちにけしかけたのかを。

 イルルナが、自分を襲ったマンイーターをどうやってフィーリにけしかけたのかを。


「幻覚作用をもたらす〝毒〟で、マンイーターに特定の人物を極上のご馳走だと錯覚させる……マンイーターの習性と嗅覚を利用した、クソみたいなやり方のせいでフィーリは……!」


 もう一人の仇である、ヴェルエへの憎悪を募らせる。

 募らせてなお、あのクソババアに関してはが、腹立たしくて仕方なかった。


 つい今し方得た、ヴェルエの毒魔術の知識。

 その秘奥の一つに、こんなものがあった。


『毒を支配する毒』。


 毒魔術によって創り出された〝毒〟を、莫大な魔力をもって強制的に、その性質を自分の好きなように変化させることができる毒魔術。


 自身の体に混入した毒を、無毒化できることは言わずもがな。

 通常ならば毒霧タイプの毒魔術は、術者本人には全く影響はない。が、『毒を支配する毒』で性質を変化させることによって、術者本人も毒霧が効くようにできる――つまりは自滅させることができる、秘奥と呼ぶにふさわしい毒魔術だった。

 その秘奥がある以上、ヴェルエにはどう足掻いても〝毒〟が効かない。


 イルルナよりも苦痛を味わわせたい相手なのに。

 イルルナよりも地獄に叩き落としたい相手なのに。

〝毒〟が効かないせいで。

 誰よりも強力な〝毒〟を使えるせいで。

 即死という、何の苦痛もない方法でしか、ヴェルエは殺せない。

 その事実が、腹立たしくて腹立たしくて仕方なかった。


 一方で、相手を嬲らずに済む理由ができたことで、心のどこかで安堵している自分がいる事実が、腹立たしくて腹立たしくて仕方なかった。


 そして、それら以外にも、少しばかり腹立たしいことがもう一つ。


「この『毒を支配する毒』……あたしには何の役にも立たないわね」


 一見『毒を支配する毒』は、フィーリの『毒を殺すための毒』の完成形のように見える。

 しかし『毒を殺すための毒』は、パレアやフィーリのような魔力の乏しい人間でも扱えることを目指した魔術であるのに対し、『毒を支配する毒』は世界最高峰クラスの魔力がなければ扱えない魔術だった。


 莫大な魔力をもって相手の〝毒〟をねじ伏せ、支配する、究極の力業。

 ゆえに『毒を支配する毒』は、方向性からして『毒を殺すための毒』とは真逆であり、術式を完璧に理解したところで、パレアのような非才では一生かかっても会得できない代物だった。


 ……いや。『毒を支配する毒』だけではない。

 ヴェルエが開発した毒魔術の秘奥は、どれをとっても莫大な魔力を必要とする。

 それらもまた、パレアでは一生かかっても会得できない代物だった。


「……待って。それってつまり……」


 ヴェルエが死ねば、彼女が後世に残したがっている毒魔術の秘奥が一つも伝わらないことを意味している。

 となると、


「やっぱり、あたしのようなカスが勝ち残ったという事実だけでも、クソババアに地獄を見せてやることができそうね」


 ならば、できる。

 クソババアに苦痛を与えることができる!


 そうとわかるや否や、パレアは限界寸前だった体を立ち上がらせた。

 同じく限界寸前だった心は、ヴェルエに最大級の苦痛を与え、地獄に叩き落とす算段がついたおかげで、かつてないほどに充実していた。


 その心をもって、鉛のように重い足を無理矢理前へ送り、歩き出す。

 もう一人の仇であり、あたしの……いや、あたし全員の人生を無茶苦茶にした元凶――ヴェルエのもとを目指して。



 ◇ ◇ ◇



「あり得ん……」


 館の自室にいたヴェルエは、赤い霧が晴れた空を窓から眺めながらポツリと呟き、


「あり得んあり得んあり得んあり得んあり得んッ!!」


 発狂したように、同じ言葉を繰り返し吐き散らした。


 ヴェルエは子供たちの背中に刻んだ魔法陣で、子供たちの状態を――つまりは子供たちの生死を把握することができる。

 だからこそ、パレアが殺し合いを勝ち抜いたことを、イルルナがパレアに敗北して死んでしまったことを把握していた。


 パレアの背中に刻んだ魔法陣は、イルルナが死んでからほどなくして福音が発動し、ヴェルエの毒魔術の全てをパレアの魂に刻み終えたところで、完全に消滅した。

 だからもうヴェルエは、パレアの状態を把握することができず、今どこにいるのかもわからない状況になっていた。


「こんなの何かの間違い……そうさ! そうさね! 何かの間違いさね!」


 距離が離れていたせいで、イルルナの魔法陣とパレアの魔法陣を誤認した。

 だから結果は今把握したものとは真逆で、イルルナが勝利して、パレアが惨めったらしく敗北している。

 そうだ。そうに違いない――などと、あまりにも都合の良いことを夢想し始める。

 それほどまでに、パレアカスが後継者になったという現実は、ヴェルエにとって受け入れがたいものだった。


「イルルナが勝ったのなら、その報告のために館に来るはず。今回ばかりは、ワタシの方からしっかりと出迎えてやらないとねぇ」


 頭の片隅では自分がおかしなことを口走っていることを自覚しながらも、おかしなことどおりに館の玄関広間エントランスへ向かい、来るはずもないイルルナの到着を待つ。

 イルルナとパレアが最後にいた場所が区域の北端である以上、到着までまだしばらく時間を要するにもかかわらず。


 無駄にだだっ広い玄関広間の隅で、玄関扉を睨み続けること二時間。

 遂に扉が開き、


 柔和な笑みが特徴的な金髪の美少女――ではなく、


 睨んでいるようにしか見えない紫紺の瞳が特徴的な黒髪のカスが、館に入ってきた。


「待たせたわね、クソババア」


 開口一番、クソ生意気な口を聞く、パレア。

 十数メートル向こうに見える嘲笑混じりの表情は、ヴェルエの衰えた視力でも鮮明に確認することができた。

 できたから、ヴェルエの怒髪が天を衝いた。


「なんでアンタみたいなカスが生き残ってんだいッ!!」

「さあ? あんたの育て方が悪かったおかげじゃない?」

「こ……ッ……の……ッ」


 怒りに呼応するように、体内の魔力が高まる。

 それが〝圧〟となって館が軋み始めるも、相対するパレアはどこまでも冷静だった。


「へぇ? 殺すんだ? 一七年かけて、ようやく決まった後継者を」


 一七年――その数字の重さに、ヴェルエは今まさに発動していた毒魔術を、ギリギリのところで中断させた。


「あんたが言っていた、福音の意味がわかったわ。イルルナを殺してすぐに、あんたがこれまで培ってきた毒魔術の知識が、背中の魔法陣から流れ込んできたことでね」

「その口振り……本当に、あんたがイルルナを殺したっていうのかい?」

「ええ。『毒を殺す毒』を使って、あいつの〝毒〟を無効化してね」


『毒を殺す毒』という言葉に、ヴェルエは片眉を上げる。

 自分が使っている『毒を支配する毒』の劣化版ではあるものの、カスだと思っていたパレアが、イルルナですら辿り着くことができなかった発想を、実戦レベルで使えるほどにまで形にしていたことに、少なからず感心を覚えた。


「あんたがこれまで開発してきた毒魔術を知って……まあ……こんなことを言うのは癪だけど、あんたがどれほど凄い魔術師かってことが身に染みてわかったわ」


 殊勝なことを言い始めるパレアに、今度は目を丸くする。

 言葉だけではなく、態度でも歩み寄っていることを示すように、ゆっくりとこちらに近づいてくる。


 まさか、ワタシの偉大な毒魔術に触れたことで人生観が変わった?――などという、都合の良い発想が脳裏をよぎる。


「……アンタはカスだが、殺し合いを勝ち抜き、『毒を殺す毒』なんてものが使える程度の発想力がある以上、ワタシが思ってたよりはということはわかった。だから……」


 続く言葉は、屈辱的すぎて、すぐには口に出すことができなかった。

 しかし、一七年間の苦労が無駄になるよりはという思いと、最早あとどのくらい生きられるかもわからない身である事実が、屈辱を上回った。


「アンタを……ワタシの後継者として認めてやる……。アンタが世界最高の〝毒〟の魔術師になれるよう、ワタシが命を賭けて指導してやる……」

「……いいの? あたしで?」


 あのクソ生意気なパレアが、珍しくも恐る恐る訊ねてくる。

 歩み寄る歩調すらも、恐縮しているように見えた。


 その様子を見て、なぜか、少し救われた気持ちになったヴェルエは、いつもよりも少しだけ声音を優しくして答える。


「ああ。アンタでいいんだよ」

「……本当に?」

「本当だとも」


 その返事を聞いた途端、パレアはこちらに歩み寄っていた足を止めた。

 距離にして三メートル。

 それが、永遠に埋まらない溝だと言わんばかりに、パレアは冷ややかに言う。



「あたしじゃ、一生かかったってあんたの毒魔術の秘奥が使えないって言っても?」



 その声音は、先程までの殊勝さが嘘のように、こちらを小馬鹿にしようという意思に充ち満ちていた。

 

「使えないって……そりゃどういう意味だい?」

「言葉どおりよ。どうやらあたしは、あんたが思っていた以上に魔術師としてカスだったみたい。あんたの毒魔術の秘奥……どれ一つとっても、あたしのしょぼい魔力じゃどう足掻いたって使うことなんてできないわ」


 肩をすくめると、「けどまあ」と前置きしてから、許されざる言葉を付け加える。


「あんたのクソみたいな毒魔術の秘奥なんて、使いたいとも思わなければ、後世に残したいとも思わないけど」

「このカスがぁあぁああぁあぁああぁッ!!」


 再び体内の魔力を高める。


「よくもワタシを弄んでくれたねぇッ!?」

「あれ? 弄ばれてたんだ? 我ながらお芝居が下手くそすぎて、とうの昔に見抜かれてるものだとばかり思ってたけど……まさかあんたが、そこまで耄碌してたとは思わなかったわ」

「耄碌……!?」


 怒りのあまり、いよいよ顔が紅潮していくヴェルエとは対照的に、パレアは怖気を振るうほどに冷ややかな視線を向けてくる。


「そもそもあんたの口から、弄ばれたとかどうかと出てくるのが驚きよ。あたしたちの人生を、散々弄んでくれたくせに」

「アンタたちカスの人生なんてどうだっていいんだよ!! ワタシの指導を受けられたことに感謝される覚えはあっても!! 文句を言われる筋合いなんて一つもないさね!!」

「その言い方、まるであんたの指導が、とんでもなく高尚なもののように聞こえるのは気のせい?」

「気のせいなものかい!! そんなことす――ごふっ!? げふっ!?」


 怒鳴りすぎたせいか、思わず咳き込んでしまい、掌で口元を覆う。

 掌にはべっとりと血糊がついていたが、目の前のカスに弱みを見せることはヴェルエのプライドが許さなかったので、それこそ血を吐くような勢いで先程言おうとしていた言葉を言い直した。


「そんなことすらわからないから、あんたはカスなんだよ!!」


 そんな決死の罵倒に対して、パレアは、


「ただ一七年という年月をドブに捨てただけのドブ以下の指導を、そこまでご大層に思えるあんたのカスさ加減には負けるわ」


 鼻で笑いながら、肩をすくめた。

 その言葉に、その声音に、その仕草に、逆鱗をこれでもかと踏みにじられたヴェルエは、


「もういいッ!! アンタにはッ!! 毒魔術の真髄ってやつを味わわせてから殺して――」



 トスッ……



 と、ひどく軽く、ひどく不吉な音が、額から聞こえたような気がした。

 何が起きたのかと思い、視線を上げてみると、



 額には、一本のナイフが突き刺さっていた。



「……へ?」


 間の抜けた吐息を漏らすと同時に、ぐるんと白目を剥く。

 視界が暗転し、意識が完全に途絶えたところで、盛大に床に仰臥した。


「バカね」


 一投のもとにヴェルエを瞬殺したパレアは、何の感情もこもらない目で老婆の死体を見下ろしながら言葉をつぐ。


「耄碌したあんたが、この距離であたしに勝てるわけないでしょ」


 とは言いながらも、そうなるように仕向けたのは他ならぬパレアだった。

 初めから殺意をもってヴェルエと相対したならば、必殺必中の間合いはおろか、ナイフの投擲が届く間合いに入る前に毒魔術を使われ、殺されていたところだろう。


〝毒〟の魔術師の頂点たるヴェルエならば、イルルナ以上の広範囲を、瞬く間に〝毒〟で満たすことくらい造作もない。

 殺し合いを勝ち抜いたことで、ヴェルエの知識の全てを得たため、彼女の〝毒〟の性質は完璧に理解できたが、までは理解できていないため、『毒を殺す毒』で無効化することも難しい。


 ヴェルエに苦痛を味わわせる以前に、ヴェルエに勝つためには、戦う意志がないと誤認させた上で、彼女の毒魔術よりも先にナイフが刺さる間合いに入らなければならない。

 とはいえ、初めから下手したてに出すぎると、かえって怪しまれる恐れがあったため、ある程度は〝いつもどおり〟に振る舞う必要があった。

 その間にヴェルエに毒魔術の使用を踏み切らせないようにするのは、実のところ賭けに等しかった。


「本当なら、もっと苦痛を味わわせたかったところだけど……あんたの怒りっぷりが、あんまりにもみっともなかったから、それで許してあげるわ」


 そんな言葉を最後に、目を見開いたまま絶命しているヴェルエから視線を外し、深々と息をつく。


 全て終わった。

 その事実に、高揚感を覚えないと言えば嘘になる。

 けれど、剣呑な間柄だったとはいえ、一七年ともに切磋琢磨してきた子供たちをこの手で殺したことに、全く罪悪感を抱いていないわけではないので、殊更ことさら声に出して喜ぶ気にはなれなかった。


「……ったく。我ながら損な性分ね」


 自分で自分に呆れながらも、鏡のある部屋を目指して歩き出す。

 今の今まで確認する余裕がなかった背中の魔法陣が、本当に消えているかどうかをこの目で確かめるために。


「ちゃんと確認してからでないと、フィーリが心配しそうだしね」


 彼女の名前を口にしたせいか。


 彼女に最高の報告ができるせいか。


 疲弊しきっていたはずのパレアの足取りは、知らず知らずの内に軽いものになっていた。

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