第6話 殺し合い

「……っ」


 ベッドで眠りについたばかりのパレアは、突然背中を襲った「冷たさを伴った痛み」に跳ね起きる。


「ついにこの日が来たわね……!」


 寝間着ネグリジェから暗色のローブに手早く着替えながら、歓喜すら滲んだ声音で独りごちる。


 一応、ヴェルエが自分にだけ殺し合いの開始を告げる「冷たさを伴った痛み」を発生させない可能性も想定していたが、どうやらそれは杞憂に終わったようだ。

 今日みたいにパレアを狙い撃ちにするような課題を課すことはあれど、課題そのものを公平に行なうという点は、今も変わらずに一貫していた。


 着替えを終えると、机の下にある収納庫の床扉を開け、ローブよりもさらに暗い色合いをした、数十本ものナイフを仕込んだ外套を取り出し、すぐさま羽織る。

 最後に、机の上に置いていた、触媒の入った小瓶を一つだけ掴み取り、外套のポケットに突っ込んだ。


 これで、殺し合いの準備は完了した。

 だが、パレアにとって最も大事な準備は、まだ完了していなかった。


 床下収納庫から小箱を取り出す。

 蓋を開けて、中に入っていた、フィーリのブローチを摘まみ上げると、


「あくまでも悪くはないというだけで、あたしが気に入るほどじゃない。だからこれは大サービスよ、フィーリ」


 そんな物言いとは裏腹に、愛おしむような手つきで、ブローチをローブの左胸に取りつけた。


 戦闘でブローチが壊される時は、左胸――つまりは心臓をやられる時。

 殺し合う相手全てが〝毒〟の魔術師である以上、直接的に心臓がやられる心配も、ブローチを壊される心配もほぼない。

 これは「最後までフィーリと一緒にいたい」という想いの発露だった。


「だから、そんなんじゃないから」


 例によって、自分でも何が「そんなんじゃない」のかわかっていない言い訳を吐いてから、家を後にする。


 殺し合いの合図となる「冷たさを伴った痛み」が発生してから二四時間以内に、自分以外の子供たちを皆殺しにしなければ、背中の魔法陣から致死毒が流し込まれる。

 時間制限がある以上、さっさとイルルナの家へ向かい、さっさと決着をつけるべきなのかもしれないが、


(他の連中がいたら、イルルナをじっくりと地獄に叩き落とすことができない。だから最初の内は身を隠し、ある程度数が減ったところで残った連中を殺し、最後にイルルナを殺す)


 ゆえに、あらかじめ隠れる場所として目星を付けていた、魔法陣の毒魔術が発動しない区域の北端にある森を目指してひた走った。


 戦闘を避けるという点においては、区域の中心部にあるヴェルエの館周辺の方が有用だが、そういった行動に対してヴェルエが何の対策もしていないとは考えにくい。

 最悪、館周辺での戦闘行為そのものが「ヴェルエに危害を加えた」という判定を下し、魔法陣の致死毒が自動で発動する恐れがある。

 近づかない方が無難というものだ。


 やがて森の手前に拡がる丘に辿り着き、頂上付近まで登ったところで、パレアは唐突に足を止める。


(いるわね。丘の向こうに)


 魔術師らしからぬ気配察知力をもって断定する。


 数は一。

 待ち伏せでもしているつもりなのか、パレアが立ち止まったにもかかわらず姿を見せる気配が全く感じられなかった。


 知らず、深々とため息をついてしまう。


「そこにいるのはわかってるわ。さっさと出てきなさいよ」


 直後、丘の向こうから、舌を打つような音がかすかに聞こえたような気がした。が、丘の頂上に君臨するようにして現れた男を視認した瞬間、その音が気のせいではなかったことを確信する。


「まさか、いきなりを引くなんてなぁ」


 パレアを露骨に見下す言葉とともに現れたのは、ガゼット。

 今日、イルルナの実験後に、マーリアと一緒にパレアに絡んできた男だった。


 ゆえにパレアは、その時と同じ言葉を彼に返してあげた。


「そういう、あんたは誰? 正直、当たりなのか外れなのかわからないくらい、記憶にないんだけど」

「てめぇ……! ぜってぇわざと言ってるだろ……!」


 わかってるじゃない――などと、相手が少しでも喜ぶような言葉を返す気がなかったパレアは、これ見よがしに嘲笑を浮かべながら嘲弄を返した。


「あんたこそ、わざとあたしの記憶に残らないような顔してるじゃない」

「こ……! い……! つ……!」


 夜闇で視界が悪いためさすがに視認できないが、おそらく今、ガゼットのこめかみには青筋が浮かんでいるだろうとパレアは思う。


「……まあ、いい。てめぇのむかつく顔を見るのも、今日で最後だ」


 そう言って、ガゼットは両手を横に拡げる。


「今からここら一帯を毒霧まみれにしてやる! 逃げれるもんなら逃げ――……」


 不意に、ガゼットの言葉が途切れる。

 パレアが手が霞むほどの速さで外套の下から抜き取り、投擲したナイフが首筋をかすめていったがゆえに。


 ガゼットは、首筋に滲んだ血を指で掬い、数瞬見つめてから鼻で笑う。


「おいおいおい。毒魔術の才能がねぇからって、さすがにこれはねぇだろ。しかも微妙に外してんじゃねぇか。まさか、こんなんで俺に勝てるとか思ってんのか? マジもんのバカなのか?」

「バカにバカ扱いされるのは、さすがに心外ね」

「もういい、もういい。さすがにここまで哀れだと、怒る気も失せ――……」


 再び、ガゼットの言葉が途切れる。

 今度は、力なく地面に倒れてしまったがゆえに。


「あ……が……っ……」


 喉を掻き毟り始めたのを契機、地を転げ回るようにして苦しみだす。


「確かにあたしは、〝毒〟の魔術師としての才能はないけど、毒魔術を使えないわけじゃないわ。それなのに、ナイフをただのナイフと認識するなんて、おめでたいにも程があるわよ」


 蔑むような言葉に耳を傾ける余裕がないのか、ガゼットはただただ喉を掻き毟り、ただただ悶絶するばかりだった。

 そんな有り様になってなお、ガゼットが必死の思いで絞り出した言葉は、


「たす……けて……。ぐッ……がはッ……。し……死に……たく……ない……ッ」


 命乞いだった。

 そんな彼から目を背けるように、パレアは片掌で半顔を隠し、舌打ちする。


「あたしを殺す気でいたくせに、都合の良いこと言ってんじゃないわよ……!」


 それこそ、ガゼットよりも必死の思いで言葉を絞り出してから、当初の予定どおり区域北端の森を目指して歩き出す。

 ほっといても、こいつは死ぬ。

 だからもう、ここに用はないと言わんばかりに。


「い……行かな……いで……たず……げ……あ……ぁ……ぁぁああ……!」


 いよいよ本格的に苦しみだし、言葉の代わりに苦悶を喚き散らしながらのたうち回る。


 いくら才能がないと言っても、この五年間でパレアの毒魔術はそれなりに進歩した。

 ナイフがかすめた程度でも、相手を死に至らしめることができるほどに。


 誤算だったのは、死に至るまでの時間だった。

 ナイフがかすめてからすでに一分近く経っているというのに、ガゼットはいまだ死に至っていない。

 そのせいで、彼をあんなにも苦しめることになるとは思っていなかった。


 とどめの〝毒〟をくらわせるか、いっそナイフで直接刺し殺せば、彼を苦しみから解放してやることができる。

 しかし、そうしてやる勇気すらすぐには捻り出せなかったことも、誤算だった。


 やがて、背後から聞こえてきた苦悶の声が途絶える。

 ようやく死んだのだ。ガゼットが。

 あたしが、殺したのだ。


 その事実を認識した瞬間、胃の底から込み上げてくるものを感じ、口元を掌で覆う。

 嘔吐はなんとか堪えきったが、胃酸によって口内が不快な酸味で満たされ、思わず唾を吐き捨てる。


「殺す殺すって息巻いてたくせに、一人殺しただけでなんてザマよ……!」


 ほら、やっぱりパレアちゃんは〝まとも〟だ――そんなフィーリの幻聴が、聞こえてくるようだった。


「違う……あたしは……〝まとも〟なんかじゃない……!」


 いつしかと同じように否定する。

 他ならぬ、フィーリのために。

 フィーリが味わった痛みを、苦しみを、に味わわせるには、〝まとも〟でなんていてられない。


「……方針を変える必要があるわね」


 子供たちの数が減るまで待つのはやめだ。

 ヴェルエとイルルナを地獄に叩き落とすには、人の苦悶に慣れる必要がある。

 苦悶を聞き届けた上で殺すことに慣れる必要がある。


 方法としては、今生き残っている子供たちを、可能な限りこの手で殺すことで経験を積む。それしかない。

 心身に相当な苦痛を強いることになるが、生きながらにして食い殺されたフィーリの苦痛に比べれば、これくらいたいしたことではない。


 決意と覚悟を固めたところで、踵を返す。

 向かう先は、ヴェルエの館の西側にある、区域内においては最大の面積を誇る大森林。


 待ち伏せるにしろ罠を張るにしろ、大森林そこ以上に最適な環境はなく、いち早く大森林に入り、自分にとって有利なフィールドを形成しようと考える者も少なくないだろう。

 そういった連中を狩るために、虎穴とわかっていながら、あえて大森林に足を踏み入れる好戦的な者も少なからずいるだろう。


 だからこそ人殺しの経験を積むには打ってつけ――そう判断したパレアの足取りに迷いはなかった。

 けれどその足取りは、本人でも気づかないほどにわずかな重苦しさを孕んでいた。



 ◇ ◇ ◇



 大森林の中では、パレアの見立てどおりに子供たちが殺し合っていた。

 

「ちぃ……どこに消えたのよマーリアの奴!」


 子供たちの一人――アリスは周囲を見回し、苛立たしげに地面を蹴りつける。

 マーリアが、自分よりも〝下〟のパレアを何かと見下していたことは、アリスも知っている。

 その上で言わせてもらうと、アリスからしたら、マーリアもパレアも大差ないだった。


 アリスの〝毒〟の魔術師としての才能は、生き残った一六人の中では五、六番目くらいに位置している。

 真っ向から戦えば、マーリア如きに敗れる要素はない。


 如何ともしがたい実力差はマーリアもわかっているらしく、先程ばったりと遭遇した際は、彼女は一も二もなく逃げ出し、身を隠した。

 その行為自体は見ていて愉快なくらいだったから全然構わないが、夜の森という視界の悪さのせいで一向にマーリア見つけられないことには、苛立ちを募らせずにはいられなかった。


「どうせ、お得意の魔法陣トラップでも仕掛けてるんでしょうけど……甘いわよ!」


 もうこれ以上は付き合っていられないとばかりに、アリスはその場で片膝をつき、地面に掌を添える。


「トラップごと沈めてあげるわ!」


 直後、掌を起点に地面がドス黒い沼に変化する。

 沼はアリスを中心にジワジワと周囲に拡がっていき、術者である彼女を除いた全てを腐らせていく。


 超自然的な毒沼を発生させる――それこそが、アリスが得意とする毒魔術だった。


「ほらほら! さっさと出てこないと、ご自慢の罠ごと腐っちゃうよ?」


 半径五メートル程度だった毒沼が、一〇メートル、二〇メートルと拡がっていく。

 飲み込まれた草木は瞬く間に腐れ果て、底があるのかもわからない毒沼の下へと沈んでいく。


「それともなに? もしかして逃げちゃった? だったらごめんね~、つい大人げなく本気を出――っ!?」


 突然、アリスの目から、耳から、鼻から、口から――顔中の穴という穴から、ドロリと血が溢れ出す。


「……え? ぁ……げふぅっ!?」


 何が起こったのかわからないまま吐血し、毒沼に倒れ伏す。

 呼吸は浅く、か細く……それすらも完全に止まったところで、彼女が発生させた毒沼は、初めから存在していなかったと思えるほどに忽然と消失する。

 半端に毒沼に沈んでいた、腐れ果てた木々が、次々と地面に倒れ伏した。


 その様子を遠くの木陰から窺っていた女――マーリアは、今にも声を上げて笑い出しそうになる口を両手で押さえつけていた。


(あらあら~? あんなに私のこと見下してたくせに、随分あっさりとに引っかかってくれたわね~?)


 下手に声を出したら、この大森林のどこかにいるかもしれない子供たちに自分の居場所がバレるかもしれないので、心の中だけでアリスを馬鹿にする。

 彼女が言っていたとおり、マーリアは魔法陣を用いた〝毒〟の罠を張ることを得意としている。

 基本は地面に指先ほどに小さい魔法陣を描き、生物が魔法陣を踏んだ瞬間に、針のように鋭い〝毒〟の波動が衝き上がるよう設定している。

 当然、魔法陣そこに込められた魔力の隠蔽に手抜かりはない。


 今回はその魔法陣トラップを、毒沼に触れた瞬間に発動し、沼に〝毒〟を流し込むよう設定した上で、地面のそこかしこに仕込んだ。


 自らが魔術によって創り出した〝毒〟は、自分には効かない――それは〝毒〟の魔術師にとっては当たり前のことであり、だからこその盲点でもあった。


 己を中心に毒沼を発生させる以上、術者であるアリス自身の体が毒沼に触れるのは道理。

 その状況を利用して、沼に皮膚から浸透するタイプの〝毒〟を混入させたことで、マーリアは格上から勝利をもぎ取ったのだ。


(やれる……やれるわ!)


 パレアとは違い、初めて人を殺したことに嫌悪感を抱くどころか歓喜を抱く、マーリア。

 やはりというべきか、だからこそ今日こんにちまで生き延びられたとも言うべきか、彼女の精神性は〝まとも〟からは程遠かった。


(どうせならパレアを殺したいわね。いい加減あの女には、自分がどれだけ落ちこぼれかってことを、骨の髄まで思い知らせたいと思ってたし。まあ、落ちこぼれだからとっくに殺されてるかもしれないけど)


 そんなことを考えながら、マーリアは一人楽しげに笑いをこらえた。



 ◇ ◇ ◇



 一人草原を駆けていたパレアは、唐突に感じた背筋の寒気に身震いする。


「ちょっと、冷えてきたわね」


 大森林に到着してからが本番である以上、余力は充分に残す必要があるため、汗だくになるようなペースで走ったりはしていない。

 そのため、多少冷えてきたところで寒気など覚えるはずもないのだが。

 他の原因を考えると、どうしてもイルルナの顔が思い浮かんでしまうので、あくまでも夜の冷たさのせいにするパレアだった。


 それからも草原を駆け続け……今夜になって何体見たのかもわからない、魔獣の死体を横目で見送りながら、ふと気づく。

 殺し合いが始まって以降、目につく魔獣が全て死体であることに。


 パレアも含めて、普段から子供たちが実戦経験を積むために魔獣を駆除しているため、その死体が転がっていること自体は珍しくはない。

 だが、殺し合いが始まって以降、生きた魔獣を一体も見ないのは、珍しいを通り越して異常だと言わざるを得ない。


(もしかしたらだけど、クソババアが、あくまでもあたしたちで殺し合わせるために、区域内全域に魔獣のみを殺す〝毒〟をばらまいたのかもしれないわね)


 それも、こちらに一切気取らせることなく。

 わかりきっていたことだが、ヴェルエ・ヴェルヒッフという老婆が、〝毒〟の魔術師として如何に化け物じみているのかを改めて思い知る。


(とはいえ、歩くのに杖が必要な程度には衰えてるし、このタイミングで殺し合いを始めたということはだから、同じ毒魔術ステージで戦わなければ勝機は充分にあるはず)


 そこまで考えたところで、かぶりを振る。

 今は殺し合いに集中すべきだと、自分に言い聞かせる。

 殺し合いを勝ち抜かなければ、ヴェルエと対峙することすら叶わないのだから。


 そうこうしている内に、大森林が見えてくる。

 さすがに大森林そこにいる人間全ての気配を感じ取るなんて真似はできないが、大森林そこから醸し出される殺伐極まる空気が、すでにもう何人かの子供たちが殺し合っていることを、パレアに確信させた。


 大森林の中に足を踏み入れると、走るのはやめて慎重に歩を進めることにする。

 すでに殺し合いが始まっている以上、次の瞬間にはもう毒魔術が飛んできても何ら不思議ではない。

 慎重に慎重を重ねなければ、殺しの経験を積む以前に、生きて大森林から出ることすら叶わない。


 ゆえに普段よりも歩速を落とし、息を殺して大森林の中を突き進んでいく。

 殺すために、殺されないために、集中して気配を探っていく。


 そうして神経を尖らせていたからこそ、気づくことができた。


 今まさに足を下ろそうとしている草むらの下に、巧妙に隠蔽された魔力が存在していることに。


「ち……っ」


 舌打ちを漏らしながらも、を踏みかける寸前で足を止める。

 その足を後ろに下げてから屈み込み、に触れないよう慎重に草むらをかき分け……見つけた。


 枝葉の隙間から差し込む月明かり程度では確認することすら難しい、地面に描かれた、指先ほどの大きさしかない極小の魔法陣トラップを。


(まちがいない、これはマーリアの……!)


 周囲に視線を巡らせながらも、気配を探る。

 ほどなくして、何者かの気配を掴むも、息を殺しているからか、気配の感触が希薄なせいで、マーリアだという確信が持てなかった。


 気配をはっきりさせるために、揺さぶりをかけることに決めたパレアは、気配を掴んだ方角を注視することで牽制を試みる。

 直後、気配が揺らぐのを感じ、パレアは駄目押しとばかりに挑発するような笑みを浮かべた。


 気配が、さらに揺らぐ。

 先の揺らぎが動揺によるものならば、今の揺らぎは怒りによるもののようだ。

 つい先程まで希薄だった気配が、今は激流を思わせるほどに荒々しいものになっている。

 上等よ。受けて立ってやる。そんな言葉が聞こえてきそうなほどに。


 その反応を受けて、気配の主がマーリアであることを確信する。

 今のように格下に挑発されて激昂する様は、パレアの知るマーリアの反応そのままだった。


(本当にバカね。挑発に乗らずに、逃げ隠れしながら罠を仕掛けられた方がよっぽど厄介だったのに。まあ、その罠も、問題ないけど)


 そんな内心が、知らず知らずの内に表に出たのか。

 パレアの双眸は、狩人を思わせるほどに鋭くなっていた。



 ◇ ◇ ◇



(なによ、あの女! 落ちこぼれのくせに私のこと笑って!)


 木陰に隠れてパレアの様子を窺っていたマーリアは、挑発的な笑みを向けられたことに心の内だけで激昂する。

 罠使いゆえに隠れている状況で怒りを露わにする愚は犯さないが、パレアに露骨に敵意を向けたことで、己が気配を相手に報せてしまうという愚を犯したことには全く気づいていなかった。


(……ふん! まあ、いいわ。本当にパレアの方から来てくれたのは好都合だし、アリスと戦った時に仕込んだものも含めて、私の周囲は罠だらけになってる。あとはあの女が、間抜けにも罠にかかったところを笑うだけで――……え?)


 ちょっと自分の世界に入っている隙に、いつの間にかパレアが姿を消していることに気づき、瞠目する。


(いったいどこに……!?)


 周囲に視線を巡らせるも、パレアの影すら見当たらない。

 その事実が焦燥という名の緩火ぬるびを生み、ジリジリとマーリアの心を焦がしていく。


(お、落ち着きなさい、私。今、私の周りは罠だらけになってる。パレア如きが私の罠を掻い潜るなんて、できるわけがないじゃない)


 それに、姿が見えなくなったのは、こちらの罠に恐れを為して逃げ出したという線もある。

 その場合、あの女は尻尾を巻いたくせに、私に向かって挑発的な笑みを向けてきたことになる。


(ふふふ……なんて惨めな女なのかしら)


 そんな都合の良すぎる解釈で、焦燥の緩火を完全に消し去った、その時だった。



「動かないで」



 背後からパレアの声が聞こえてきたことに、これ以上ないほどに瞠目する。

 またしても、いつの間にかだった。

 足音もなく、罠に引っかかりすらせずに、いつの間にかパレアはこちらの背後まで接近していた。


「あなた、どうやってここまで来――ひっ!?」


 半顔だけ振り返ろうとするも、これ見よがしにナイフの切っ先を突きつけられ、すぐさま顔を正面に戻す。


「ま、まさかとは思うけど、そのナイフ……触媒を塗り込んでるの?」

「そのとおりよ。ガゼットの奴は、〝毒〟に冒されるまで気づかなかったけど」

「!? あなたまさか、ガゼットを!?」

「ええ。殺したわ」


 事もなげな言葉は、マーリアにショックを与えるには充分すぎるものだった。


 別にガゼットのことは好きでも嫌いでもないが、落ちこぼれのくせに態度のでかいパレアのことが気に入らないという一点においては同じ気持ちだったので、仲間意識にも似た感情を抱いていた。

 そのガゼットが、他ならぬパレアに殺してしまったことが、マーリア自身が思っている以上にショックだった。


「……私も、殺すつもり?」

「逆に聞くけど、立場が逆だったら、あんたはあたしを見逃してくれるの?」

「……見逃さないわね」


 などと会話をしながらも、マーリアは逆転の一手を打つタイミングを、虎視眈々と狙っていた。


 毒罠トラップを仕掛けるのが得意というだけで、他の毒魔術が使えないというわけではない。

 ガゼットほど広範囲ではないしても毒霧くらいは余裕でばらまけるし、他の子供ほどではないにしろ、魔弾という形で〝毒〟を相手にぶつける魔術も使える。


(とりあえず今は、会話を続けることでパレアの気を逸らし、隙を突いて即座に生成した魔弾を振り向きざまにぶち当てる! これしかないわ!)


 そんな内心を表に出さないよう気をつけながら、隙をつくるために、パレアに「マーリアならば、最期にこんなことを訊いてきてもおかしくない」と思わせる質問を投げかける。


「……聞かせてよ。あなた、どうやってここまで来たの? 言わなくてもわかってるんでしょうけど、周りは私が仕掛けた罠でいっぱいなのよ?」

「簡単よ。気配を殺した上で、罠を避けてきただけよ」

「だから、どうやって罠を避けて――って、気配を殺す!?」


 思わず、素っ頓狂な声を上げてしまう。

 気配を殺すという言葉自体、本で得た知識と、野生動物がそうしているのを直に体感しているため理解はしている。


 しかし、武術の達人とかならともかく、生まれてこの方〝毒〟の魔術以外はろくに教わっていない人間が、気配を殺すなんて芸当を実際にやってみせたことに驚きを隠せなかった。


「クソババアが人間を喰らう魔獣ばかり用意してくれたおかげで、練習台には困らなかった。それだけよ」


 練習したからできた――などと言われても、到底納得できるものではないが、今は納得するしかなかった。


「……罠は、どうやって避けたのよ?」

「あんた、罠を仕掛けた際に魔法陣を草むらで隠すとか小賢しいことしてるけど、それがかえって地面を不自然にしてるのよ。初めから草むらがある場所に仕掛けた場合でも、その周囲にある草木の枝が不自然に折れたり曲がったりしてるしね。そこまで当たりをつけることができたら、には隠蔽しきれていない魔法陣の魔力を感知することくらい、あたしでもできるわ」


 どこの野生児よ――という言葉は飲み込みながらも、罠の位置がバレていた理由を納得する。

 と同時に、パレアの分際で得意げに講釈している今が、油断を突く最大の好機だと確信する。


「まあ、クソババアの魔法陣みたいに隠蔽しているどころか、魔力そのものが感じないなんて真似をされてたら、もう少し手こずったかもしれな――」


(今よっ!!)


 右掌に、〝毒〟の魔力を球状に凝縮した魔弾を瞬時に生成する。

 当たりをつけていたとはいえ、隠蔽していた魔法陣トラップの魔力を感知できる以上、毒魔弾を生成した際に生じた魔力は、向こうも気づいているだろうが、


(油断を突いた分、私の方が早い!)


 振り返りながらも、右手の毒魔弾を放――



「無駄よ」



 いやに冷たいパレアの言葉が耳朶じだに触れたのも束の間、毒魔弾を放つために半ばまで振り抜いていた右の手首に激痛が走る。

 あまりの痛みに動きを止めたマーリアは、反射的に右手首を見やると、



 そこには、パレアのナイフが突き刺さっていた。



(え? このナイフって、パレアの触媒を塗り込――っ!?)


 突然、息苦しさとともに、喉が灼けるような痛みを訴えてくる。

 呼吸困難と激痛の二重苦が、思考を介することなく両手を動かし、喉を掻き毟らせる。

 臓腑という臓腑が、急速に活動を停止していくのが手に取るようにわかる。

 全身に力が入らなくなり、力なく地面に這いつくばってしまう。


 避けようのない死が、すぐそこまで迫っている。


(いや……死にたくない……)


 そんな言葉すら発する力はなく。

 背後にいるパレアに助けを乞うように。

 マーリアは残る力を振り絞って、虚空に手を差し伸ばした。

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