『二人→一人』 お題:落ち着きを取り戻す、大きな声で歌う
バドミントンサークルの飲み会を終えたとき、既に日付は午前0時を過ぎていた。お酒と大騒ぎをこよなく愛する人たちは二次会に行く。カラオケで朝まで飲むのがお決まりのパターンだ。私はそれを、繊細みたいな顔をしてお断りした。飲めないわけではないし、夜更かしが苦手なわけでもない。チューハイやカシオレも、日本酒も焼酎もおいしい飲み物だ。人が騒いでいるのを見るのも楽しい。宴会で得られる足が地面から3㎝浮いたような感覚は、他の何物にも代えがたい。ここまで飲み会好きな性質が揃っておきながらもお断りした。明日の深夜までに提出しないとならない課題があるからだ。提出する前に読み返して、細かく修正を加えておきたい。明日は一週間後のドイツ語のテストの勉強をする予定もある。オールした次の日は大体一日動けないから、二次会に行ってしまった場合、それらの予定はキャンセルになるだろう。それは避けたい。
いつでも未来のことを考えている。将棋を指すのと同じに。それも、王将がどれだか分からないままの将棋だ。そして盤上に立ち続けることで健全な人間でいようとする。それなのに未来のことに胃をひりつかせている。却って不健康である。
*
先に帰らせてもらったのは私だけではない。隣の永井も同じだ。つまり、永井と私以外は心の底から、お酒と大騒ぎが大好きである、と解釈していいことになる。それは他者との付き合い、という要素を見ないふりしたときに限るが。
永井の身体は全体的に赤くなっている。出来上がった酔っ払いだ。二年生で同学年だが年齢は一個上で、身長は少なくとも180ある。赤茶色の髪と丸眼鏡がとてもよく似合っており、鎌倉で雑貨屋を経営している、と言われたら誰しも納得してしまうだろう。その日は襟がなく、首が締まった綿の白シャツを着ていた。彼の服装は、彼の容姿に対するこだわりの強さを強調している。
「永井君のことよろしくね」とお酒と大騒ぎが大好きな人たちは言った。含みを持った下品な笑い。そういうノリだ。私がヘラヘラと笑い返せば、彼ら/彼女らはヘラヘラと笑い返してカラオケへ体を引きずっていった。「疲れたら寝るから、そんなに大変じゃないんだよ」。先輩の二次会誘い文句を思い出す。
ようやっと一息つける。あとは永井を駅まで送り届ければよい。乗る電車が逆なのは、彼への心配に繋がる。しかし、「電車に乗った後のことはよくわかりません」という言い訳が効くことに、正直ほっとしていた。テンポを永井に合わせながら駅へと向かう。
「水とかちゃんと飲んだの」
「そういうのは大丈夫。酔っているように見えるかもしれないけど、意外と足取りもきちんとしているだろ。肌が白いから、すぐ赤くなって見えるだけなんだ」
舌は上手に回っていない。「そうは言っても」という感じだ。彼ら/彼女ら(以下、お酒と大騒ぎが大好きな人たちのことを略してこう呼ぶことにする。男女比は6:4)が二次会に連れて行かないということは、それなりの理由があるのだ。前回酷い酔い方をして、宴会が葬式のような雰囲気にしたとか。具体的な話は知らない。
夜の街には他にも大学生の形をした酔っ払いが沢山いる。肩を貸した人がゲロをふっかけられている光景や、道の端で眠っている男がいる。それらに比べれば永井は相当マシなように見えた。
「僕、このサークルに入る前にどのサークルに入っていたか、知ってるかい」
「あんまり興味がない」
突拍子もない話題だった。しかし、永井はずっと前から誰かに言いたくて言いたくて仕方ないみたいな顔をしていた。相手は誰でもよかったのだと思う。彼は、間髪入れずに歌いだした。透き通った『ベース』の声は高らかに響き渡る。低い声と「透き通った」という形容詞の親和性は自分でも疑問だが、言葉の親和性を超えて、永井の声は透き通っていた。周りの酔っ払いたちが一斉にこちらを向く。怪訝な顔が私と永井に集中する。永井の『ツレ』になっている今の状況ではキツすぎる。歌詞の壮大さと、知らない固有名詞の連呼から見るに、知らない大学の校歌らしかった。酔っているとは思えないほどの明瞭な発音だ。喋る時の舌と歌う時の舌は全く別物らしい。いつ付け替えたのだろうか。
「合唱サークル?らしくないね」
「茶髪だからかな」
「混声?男声?」
「よく知ってるね。混声だ」
合唱に詳しいのは、通っていた高校の影響だ。公立高校だが、合唱の強いところだった。部員は百人は超えていたと思う。吹奏楽部でその位の大所帯なのはまだ分かる。演奏には沢山の種類の楽器が必要だ。でも四パートが基本の合唱でその人数だ。高校合唱祭での層の厚い演奏は高校の名物だった。
「どうして今、おふざけバドミントンをやってるの」
「歌っているとね、自分と他人の境界が溶けて来るんだ。確かに、自分の頭で考えて、『ここはもっと≪甘く≫歌うべきだった』とか、『もっと時間を捻出できれば、更に曲を作り込めたのに』、とか考えたりする。でもそれとは別に、自分が合唱団という巨大な共同体に呑み込まれていくのが分かる。高校三年間と、大学一年生まではそれでよかった―そう、高校生の時も僕は混声合唱団に入っていたんだけど」
「そんな経験はしたことがないな。私はずっと一人でできるスポーツばかりしてきたから」
「歌えばわかるよ。試しに『となりのトトロ』を歌ってみて。なるべく大きな声で」
できればお断りさせていただきたかった。しかし、彼の目は真剣だった。酔っ払って潤んだ眼がそう見えただけかもしれない。メガネの反射かもしれない。目を逸らしきれなかった。とにかく歌わざる得ない状況に追い込まれた。最初は小さい声から始める。他の人の目は既にこちらなんかみていない。歌うタイプの酔っ払いだと思われただけだ。もう、それぞれがそれぞれの集団の秩序を維持することに一生懸命になっていた。水買ってくるからここ動くんじゃないよ。今日は楽しかったね。歌うたい
は、もう話のタネにもならない。
ピッチも音程もめちゃめちゃな私の『トトロ』に、永井が適切にハーモニーを割り振っていく。汚い和音は一切鳴らさず、美しさに徹している。ふっと気が抜けて、私の主旋律が『落ち』そうになる。しかし私の声は止まることはなく、永井の大きな『手』に包まれて勝手に進んでいく。私の身体は致命的なミスを恐れて強張っているというのに、脳みその芯が音の重なりを喜んでいるのが分かった。最後の一音が終わる。車の音も人の声も一瞬鎮まるような気がする。いつ話し始めていいのか分からない。
「ね。これが沢山いると、ハイになっちゃうんだよ。有り体にいうとね」
どの言葉が適切かを選ぶ。「外で歌うなんて馬鹿みたいだ」、「久々にトトロ歌ったから懐かしいな」「そろそろ駅つくよ」……どれも適切ではない。
「こんなに上手いのに辞めたのはなんで」
「みんなの中の一人じゃなくて、一人が集まったみんなという集団の中の一人になりたかったからだ」
「分からない。こんなに素敵なのに」
「もしかして酔ってるんじゃないか。早く帰ろうか」
違うと言うことを言葉で示すことは容易であったはずだ。しかし、音は言葉を超えていた。私は経験が鈍化することを恐れ、何も話さず、ただ音の波が引いていくのを待った。何も知らない頃には戻れなかった。
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