息をする お題:足止め 掃きだめ

 空が社会を包む。空は世界の中の何よりも強い。雲よりも強い。空は雲を包含することができるが、雲は空を包含することができない。だから空になりたい。論理はキリンの首のようにまっすぐ通っているはずだ。


 同じ場所にいつも同じ人が集まって、埃みたいにしてよろしくやっている。光が上手に入ってこない教室。ドアもカーテンも薄暗く、冴えない緑色をしている。教室に入ればいつも中学校の図書室を思い出した。教室が冴えないから、私たちは冴えない顔をしている。私たちが冴えないから、この教室が冴えないのでは、決してない。


 掃きだめに人がいることに、一体どれくらいの人間が気づいているのだろうか。差別的な言動が掃きだめの外側からちらつく時、他者が見ているのは私自身ではなく、その背後にあるイメージだけである。それを食らった時のねばつく感情を忘れることはできない。きっと一生できないだろう。今まで沢山の人間をブラックリストに放り込んできたのはそのせいだ。人である以上仕方がないことなんだ、人間は皆、多かれ少なかれきれいじゃない部分を持っているんだ、と思いながら、どうしても息苦しく感じたせいだ。


 光の下であると思いつつも、暗転は一瞬であると気づいている人間がどのくらいいるのだろう。そう思っている自分も、窓から光が指していることを忘れている。


 誰もかれも、分別したがっているだけなんだ。Tシャツの色一つでチームに分かれることができる生き物なのだから、細かなことなんて気にしなければいい、気にしなければいい、。それに、どうせ時間は通り過ぎていくのだから。しゃがんで小さくなっていれば、いずれ熱さも寒さも忘れる。



 感情を表に出すと人に悟られてしまうから、なるべく口を開かないように心がけるようになった。そうすると胸の上の方で、感情が弾けていく音が聞こえる。感情が酸素を供給されずに消えていく。感情の筋肉が誰にも知られず衰えていくのを黙って見過ごしている。


 授業中に時々、好きなのか好きじゃないのか分からない友達のTwitterを見る。後ろの人に見られるのを避けるため、画面は一番暗い設定にしている。後ろの人の名前は知らない。前の人の名前も知らない。左隣の女の子の名前は「あたし」。私の名前は「わたし」。それだけでいい。時間は通り過ぎるから。「あたし」が右を向いた時、「わたし」が左を向く。そういうゲームをしている。授業はとても退屈だけど、授業を聞かないストレスよりも、授業を聞くストレスの方がまだ軽いので、いつもは聞くように心がけている。だからスマホを見ているのは本当に時々だけなのだ。今日は「時々」の日なのだ。大層な調べものをしているような顔をして、画面のスクロールの手が止まらない。


 賢い大学生になりたい。本当の意味で賢いのではなくて、「さかしら」な大学生になりたい。そして世渡り上手な人間に生まれ変わっていこうと思っている。一番後ろの席に座ると印象が悪いから、後ろの中でも真ん中になれる位の場所に座る人間が一番賢い。この教室だと後ろから五列目くらいだ。「賢い」の基準を沢山作って、その線の上から落ちないように歩く。そういう遊びをしているのだ。ノートはPCで取るのがおススメ。あ、「あたし」が左を向いた。偶然を装って右を向く。これは毎回やると作為が強すぎるから、3,4回に一回がおススメだ。


「つまんなくね」

「それ。さっきから同じ話ばっかり」

「わかる」


 「あたし」は、学校から家に帰るために使う駅が違う。それは「あたし」との関係の中で唯一の救いだ。昔のどうしても許せなかった話、許されなかった話、嫌いになってしまった友達の話、自分の好きなところ、嫌いなところ、隠している趣味、家族の悪口、自分の弱さ。そういうものを打ち明けられるくらいの友達ではない。毎日「わたし」は「あたし」と「何を話すのが正解か」を考えている。電車の中でも教室の中でも、話題を吟味し、精査して、発する。息が苦しい。長い話は多分できない。小さな同意を積み重ねていくのが大切だ。彼女とは、砂を一粒ずつ落として、砂浜を作るような、そんな人間関係構築をしている。ただし、上手い話題が見つかれば、多少はましな話ができる。会話は慣れなのだと思う。今までの会話に対する怠慢が今日の自分を苦しめているだけで、自分以外の他者は皆このような動作を日々繰り返していたのだ。私だけが無知だったのだ。だから苦痛にもある程度耐える。


 しかしながら、作為の強い会話を繰り返すたび、自分の「本体」が侵食されているのを感じる。匿名性の強いマスクをつけることを強要されているように感じる。いや、この「強要」という感想すら自分の主観が入り込んでいる。世界の形を作り出すのは、自分の脳みそなのだ。有り体に言えば「全部自分次第」ってやつだ。どんなに過酷な空間にいても、そこにいることが心の芯から楽しければ、埃が溜まった学部棟だって美しく輝いて見えるはずなのだ。「強要」なんて言い方で、自分が被害者であるかのような顔をするのは誤っている。私の努力不足である。自分の「本体」なんてものは本来存在しないに決まっている。存在したとしても、それがどんな姿形をしているかなんてどうでもいいものだ。そしてなにより、人生は心の底から美しいと思えるものでなくてはならない。


 突然、私が「これは自分です」と思っているものが全部無くなって、自分が窓のようになって、社会の通り道になることを想像する。その時、私はどんな感想を抱くのだろうか。社会と同じように風になれるだろうか。そちらの方が「全部自分次第」という発想とは仲良くやれそうな気がする。手始めにこの厄介な脳みそをもう少しダメにしなければいけない。いつも余計なことを考え、いつも「いつも」を考える思考パターンに陥る。気づけばここは教室ではない。しかし、思考に溺れていることに気が付けば、思考の浮上は近い。潜る瞬間は曖昧なのに、海から出ていく瞬間は1ピクセルずつ数えることができるくらい繊細だ。高尚なことを考えていたと思いこんでいる脳みそが、気づいたら理想論しか語らなくなっている。愚かだ、愚かである。人よりも脳みその余計な部分が発達しているに違いない。前の方にあるような気がするその余計な部分は、早くスコップで掬って土に埋めるべきなのだ。愚の花が咲くに違いない。


「全然瞬きしてないけど、もしかして目開けたまま寝れるタイプ?」


 無事帰還することができた。「あたし」との偶然を装った横向きゲームは惨敗してしまったらしかった。人はまばらで、教授は今まさに部屋を後にした。大量に人が動いた後だからか埃っぽい。教室は今日にでも丹念に掃除されるべきだった。


「気づかなかった。そうなのかも」

「学校出るところまで一緒に行こ」

「授業終わったの気づかなかったわ」

「ウケる」

「ほんとそれ」


 カーテンには赤くない夕日がかかっている。透明な糸がそこら中に舞っている。顕微鏡で見た細菌みたいに動いている。淡い光が糸に当たってきらりと光る。頭は後ろから殴られたみたいに痛い。余計なことばかり考えていたからだ。これではちっとも「さかしら」ではない。いや、掃きだめ学部で息をしている時点で、さっぱり「さかしら」なんかじゃないんだ、本当の所は。でも微かに残った矜持に苦しめられているのだ。これだって「さかしら」ではない。どうあがいても私は「さかしら」になれそうもない。


 リュックをしょって、屈託のない笑顔を作り出す。純朴で清潔そうな自分の顔は、こういう時に便利だと思っている。「あたし」も笑う。笑顔を共有して、また砂粒を一つ、何もない空間に落とした。


 何もかもを上手くできなくなっていく過程は別の日にされるべき話だ。なんせ、今日は早く家に帰らないといけない。




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