ワンライ
おかお
お題:MVP、GG、殴り倒す
嫌な夢を見たから寝坊した。夢は大きく現実に依拠したものだった。普段なら眠りの中に置いて起きてこられるような夢だったが、今日は寝ざめが悪かったからだろう、脳味噌が斜めに刈り取られて、記憶の断面がはみ出ている。生々しい夢の残滓が顔を伝って布団に落ちた。昨日の今日で『きまま』ちゃんに会うのが憂鬱なことだということは、自分の心の底から思っていることらしかった。
彼女の『きまま』というのは本名だ。名前の由来も推して知るべしである。
―ひらがなできままと書きます。覚えてもらいやすい名前なので、自分は結構この名前が好きです。絵を描くのが好きです。仲良くしてください。よろしくお願いします。―
人懐っこい八重歯と笑顔が特徴的で、名前通りの女の子だ。女の人でも女でもなく、『女の子』と呼ぶのが一番似合う。俯いても髪の毛が脇から垂れ下がってこないように、両耳の横に一つづつ飴色の大きなピン留めをつけている。私と同じく美術部に所属しており、手のひらにはいつも色んな色がついている。悪い時には頬にも色が乗っていた。スモッグを着ていなければ制服は今頃パレットだっただろう。学年で彼女は美術部の象徴になった。根明でクラスとすぐに打ち解けたし、全校集会で表彰されることが多かったからだ。そして部活では部長になった。私は三年間きままちゃんとずっと同じクラスだった。
私は暗い美術部員だ。そもそも美術部の人間で『陽』な人間の方が珍しいはずなのだが(これは偏見かもしれない)、きままちゃんに引っ張られるようにして数人の美術部員は運動部にも負けない『陽』の雰囲気を醸し出していた。
毎日きままちゃんと横並びになって教室を出たり入ったりするのが憂鬱だった。(出たり入ったり、という表現になるのは移動教室があるからではない。私たちが共に昼休みの美術室開放に参加しているからだ。)同じ部活だからといってまるきり似た人間であるはずはないのに、自分のみすぼらしさを呪った。きままちゃんの横の自分を、『陽』の人間が物珍しそうに眺めてくる。博物館の標本をのぞき込むような眼だった。昨日だってもちろんそうだ。何度見てもその異様さは色あせないようだった。
美術室に着くとすぐに鉛筆を細く長く削る。それは制作の段階にもよる、昨日がたまたま描き始めだったというだけで、それをルーティンにしているわけではない。きままちゃんは三十分くらい書きかけの絵の前に座ってぼんやりしている。その間に私の制作が始まる。他のクラスの部員が集まってくる。私ときままちゃんのクラスは美術室から一番近い。だから私たちは一番に美術室について、教室に電気をつける。美術室に会話が満ちる。対して、早くに作品に向き合う人間の間には透き通った沈黙が流れる。舞台に立つ人間の間には、本番前によく喋るタイプと黙りこくるタイプの人間がいると聞く。それと同じように、作品への向き合い方も個人差がある。
大きなカンバスに絵を描こうとすると、冷や汗が止まらなくなる。大胆で安定した線を引けない。エスキースを何倍かにすれば必ずいいようになると頭の中では思っているのに、それができない。大きな白紙の前で目が泳ぐ。萎縮した下書きから始まる絵がろくなものになるはずがない。廊下を駆け巡る金管楽器の音に怯えている。一つ下の階の音楽室から聞こえる、均整の取れた歌声に怯える。笑い声が廊下を跳ね返ってくるたびに心臓が上に上がってくる感じがする。もっと絵と絵の間の空白を埋めなきゃいけないし、もっと色を乗せなきゃいけない。
きままちゃんのイーゼルの後ろには均整のとれた絵が並んでいる。全部きままちゃんの描いたもの。紫の線が目立つように描かれ、浮世絵を油絵に落とし込んだ、昔の西洋人が描いたみたいなあじさい、水彩画の五重塔、本物よりも本物らしいチョココロネ。そして大きな人の顔が、今まさに命を吹き込まれようとしている。弟の顔らしい。後ろの作品は全て入賞している。先輩からの嫉妬、後輩からの熱望、そして同輩の絶望を見やることもなく、彼女はただ絵を描き続ける。そして全校生徒の前で人懐っこく笑う。きっと今度もそうだろう。
「すみちゃんの絵は今日も右下が一番キレイだね」
気づかないうちにカンバスに没入していたはずのきままちゃんが私の後ろに立っていた。
「明日は左に進んでいきたいと思う」
「すみちゃんは大きな白い紙に絵を描いて、最後に右下だけ切り取ったらいいんじゃないかな」
「それだと全体像が見えてこない感じがする。エスキース通りの絵が描きたいよ」
「そりゃそうだよね。でもそんなことばっかり言ってられないよね。展覧会はもう迫ってきてるんだもん。私はすみちゃんの完成した絵が見たい」
自分のイーゼルの後ろには、自分の作品がある。きままちゃんのイーゼルの後ろにあるのが様々なテイストの傑作たちである一方で、私のイーゼルの後ろにあるのは、同じものをモチーフにした未完成作品ばかりなのだった。私は完璧に完成させることの意義深さについて語りだそうとしたが、語り口がいつまでたっても見つけられなかった。きままちゃんの足取りは軽い。口がよく回る。よく通る声は他の美術部員にも届く。
「でもね、きままちゃんはいつまで経っても作品を完成させることはできないと思う。展覧会という締め切りに追われていなくても。でも、だからこそすみちゃんの絵はすみちゃんだけのもの、という感じがして、それに凄く憧れるし惹かれるよ」
「きままちゃんはきままでいいね。あなたの手は効率的によく動く手。羨ましくて羨ましくてしょうがない。だけどそんなに軽い皮肉みたいな言葉ばかり口から出てしまうのなら、あなたになりたいと一度でも思った自分がばかみたい。きっとあなたの絵が物事の本質を掴むことは今後一切ない。表面だけの技術をなぞって賞を獲るだけの絵を一生描いていればいいと思う。それはたくさんの人に褒められる、とても素敵なあなただけの仕事だと思う」
重い腰を一度上げると、重い腰を下ろすのに時間がかかるように思う。きままちゃんは、当然だ、傷ついた顔をしたし、美術部の部員の大半はきままちゃんの味方になった。人間関係を失敗させるのでももっとましな方法はあっただろうに。私はそのまま教室を逃げ出した。リュックサックにそのまま鉛筆を詰め込んだから、家に帰った時には丹精込めて削った鉛筆がボキボキに折れていた。
お腹が痛いというだけで学校を休ませてくれるほど、私の親はわが子をかわいいと思っていない。皆の共通の敵になって学校へ行く。しかし、予想外に教室の人間は無反応だった。きままちゃんと『陽』たちが何も言わなかったことで話が広がらなかったのか、噂が自分の頭上を通り抜けていったかのどちらかだった。きままちゃんの席は空っぽだった。きままちゃんがいないことで教室全体がワントーン暗くなったように思えた。
昼休みには一人で教室を出た。美術室には誰もいない。当たり前だった。しかし、きままちゃんの絵の右下には、全てを壊してしまうような深い青が塗りこめられていた。遠目から見てもはっきりとわかる。カンバスの丁度四分の一ものスペースに青が侵食していた。手を伸ばして触れてみると、つきたての油絵の具の感触がした。私は自分のカンバスに赤を塗りこめた。きままちゃんが塗ったスペースとパズルみたいに対応するように塗った。右下ばかりに書き込みがすすんでいるため、それ以外の部分が何色になったって惜しいことはなかった。Yシャツは赤くなった。どうしても彼女との糸がまだ切れていないと思いたかった。
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