タイトルなし 220525

5月21日に、VTuber「金田一一」が、私の用意した連絡手段を、あろうことかYoutubeの生放送で公開してから、私は大慌てだった。


・・・完全にしてやられた。私は顧客が自分に連絡する方法をまた一から考え直さなくてはならなくなったからだ。加えて、あのVTuberも「殺せるものなら殺してみろ」と、命知らずな発言をしたのだ、それには答えなくてはならなかった。



それに悩みの種は尽きない。仙台に現れた模倣犯に、このままでは私の業界に参入されるのを見過ごすわけにはいかなかった。それも、仙台で死んだ学生が本当に死にたかったのか、あるいは無差別に殺害されたのか、もはや私は知るすべはない。死ねば終わりとは思っているものの、私とて無為に人を殺したいわけではない。あくまで課題解決のために殺人というソリューションを提供するだけで、積極的に誰かを殺したい好事家のシリアルキラーでは断じてないのだ。粗悪な偽物への警鐘が必要なのは言うまでもなかった。



いずれも可及的速やかに解決すべきだった。二つの問題を一度に片付けることでしか、私の平穏は訪れない。死にたがりを殺して、それが自分の仕事によるものと表明する。聞くだけだと自己顕示にまみれた快楽殺人の言動だが、決してそうではないと自分に言い聞かせる。


私は、人を殺したいわけではないのだ。それしかできることが残されていない、というだけだ。


私は自分に連絡をした「金田一一」に目黒区にあるビルの屋上に来るように告げた。そして現れた彼の無防備な首筋にスタンガンを当てる。


自死の意思を確認すると、彼は朦朧としながらも首を振った。それが縦か横かはこの際関係ない。私の目にも明らかだった。彼は重病を患っていた。楽になっていいほどの、末期の・・・いや、これは本人の尊厳にかかわることだ。ここで明言はすまい。


再度スタンガンを首筋に当てて気絶させたら後は簡単だ。屋上の床に「死にたい人コロします」という弊社のミッションを残し、そのまま14Fの高さから「二宮三四郎」のペンダントとともに落とす。もちろん寝ている間に即死、理想的な死の迎え方だ。


私はその場が慌ただしくなる前に去った。恐ろしいことに、「二宮三四郎」の時のような虚脱感はなかった。あったのは、疾く去らねばという、ただの焦燥だけだった。




コラテラルダメージ。いじめ。一定以上の集団が存続するための犠牲。幸福とは他人の不幸の上に成り立っている。などなど。人間社会の言いようのない側面。今までの私はむしろ犠牲者側だったわけだが、今日はじめて、私は明確に犠牲を強いた。



はっきり言って、最悪な気持ちだ。慣れない。慣れるわけがない。



当の本人が重病人で、私から見て死んで楽になった方がましな状態だったとしても、それを殺してしまってよい道理がないのだ。


「金田一一」を許すこともできたはずなのだ。何故なら彼は彼で、「自殺はよくない」という信念の元、私を追求したどり着いてしまったのだ。一つの正義の行いと言っていいだろう。それによって多くの人にとっての自殺の機会が失われたとしても、称賛されるべき美徳だったではないか。


それを私は、私の立場上、「殺せるものなら殺してみろ」と言った相手を殺さないわけにはいかないからという理由で、殺したのだ。



いや、私が間違っている。そんなのは最初から百も承知だ。「二宮三四郎」を殺害した時点でわかっていたことではないか。だが、その「間違い」が、人のためになるのなら、行使しないわけにはいかない、私自身がそこまで追い込まれていることを思い出す。


もはやそれしか存在する理由が、私にはないのだから。

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