タイトルなし 210501

さて、ここからが問題だ。

「二宮三四郎」「斎藤隆太郎」なんてい人物はいないじゃないか、少なくとも報道なんてされてないぞ、と。ノンフィクションの皮をかぶったただの怪文書じゃないか、と。

カクヨムを読んでいる勘のいい読者諸君ならお分かりの通り、これは釣りだ。ああそうだとも、ほかの小説と連動しているただのスクラップブックだとも。だから私は、人を殺してなんていない。死ぬほど参っているのも事実だが、殺人事件なんて起こしていないさ。HAHAHAHA。

とまぁ、それで終わればよかったのだが。この駄文はまだ続く。その、実に、ああ、残念ながら。死んだのが斎藤隆太郎なのか、はたまた三浦晴馬なのか、そんなことはこの際どうでもいい。人が死んだ、その独白は続けさせてもらう。誰に読ませるでもない。私自身の整理のために。


・・・


諸君、一部の例外を除いて殺人は心理衛生上あまりよくない。だから止した方がいい。オクスフォード大学が研究するまでもなく、殺人してよかったという人殺しより後悔している人殺しの方が多い。信じないならひろゆきにでもDaiGoにでも聞いてみるといい。


さて、連休真っ盛りである。昔から思っていたことがある。仕事や学校がないだけでタスクが山盛り、あるいは心落ち着くことのないの土日は、果たして休日と言えるのか、ということだ。

人間というのは、ケアレスミスというものと常につきあわなければならない。二日酔いだった、熱があった、たまたま呼び鈴を鳴らされた、エトセトラ。あらゆるそう言う日常に潜むなにがしかで注意がそれた時、人は実に無防備なもので、1+1=2というシンプルな演算すら間違える。こんにち「は」と「わ」を間違えるのだ。だからこそダブルチェックをしましょうネ、それも別の人が、などと経緯報告で唄うものだが(社会人未満の諸君のために言うと、経緯報告というのはミスの反省文のボスみたいなやつだ)、結局のところ人間が持つチェックの精度というのはよくて99%、期待しすぎて裏切られたときにショックを受けたくないから、私は85%だと思っている。

だが、人間というのは自分が「受け取る側」になると、当たり前のように残酷なまでに相手に100%であることを求めてしまう。あまつさえ自分自身もその不完全な人間なのに。

だから努力をする。例えば人間よりもたくさんのことを並行してミスなくこなすマシンを作るだとか、愛する家族の名前をタトゥーにして忘れないようにするだとか。あるいはプログラムを組むとかRPAを作るとかでもいい。そうして、99%、いや精度を100%に近づけていくのだ。

人間が手掛けたものにはミスが付きまとう、にもかかわらず100%を要求される。結果、私は土日であっても「自分が手掛けたものが正しかったか」を確認しなければならないという、脅迫観念にとらわれていた。この呪いの恐ろしいところは、それそのものは「美徳」に見えるという点だ。クライアントに間違ったものは納品できない、だから身を削って確認する。実に美しい献身の精神と言える。が、実際には頭を休めていない以上集中が薄くなり、仕事のミスは起きがちになる。それを防ぐためにまた確認する、その永遠ループ。


結論から言おう。殺人犯に連休は存在しない。殺人というプロダクトは「確認」のしようがない。正確には警察によって入念なダブルチェックが行われているし、それが年単位で続くのだ。ミスが見つかれば電源オフなんて言う都合のいい終わりのない、監獄での長い長い消化試合に突入する。不安しかない。

自首、という言葉が何度もよぎった。被害者合意の上での殺人だ、今ならまだ間に合うのでは?情状酌量の余地があると認めてくれるかもしれない。私は「殺人犯」というジョブを手に入れるという一時的な心の安定のために、長期的視点で言うととんでもないやらかしをしたのではないか。私はこのままでは次の仕事に支障が出るかもしれないと思ったので、映画を見ることにした。それもなるべく明るいやつだ。


https://www.astage-ent.com/cinema/the3_youngmen-2.html


私は原作の漫画は見たことがなかったが、予告映像を見てこれだと確信した。私の今の心に必要なビタミンが入っている気がする。サイトも黄色いし。結論、すごくよかった。ただし内容に触れないでおく。ネタバレというのは、ある種殺人よりも重い罪だ。公開から1か月近く経っていることもあり、劇場はすっからかんだった。僥倖。ど真ん中でポッポコーン片手に1時間を、ファミレスで騒ぎすぎではあるものの、本人たちからしてみれば至って普通の会話を聞き、劇場を出るころには過去の映像を探していた。

それでも家に着くころには、足元には泥のように薄暗い感情がまとわりつく。私には深夜にファミレスに付き合ってくれる友人はいない、だとか。斎藤隆太郎は佐藤隆太になれなかった、だとか。何故だ?何故、私はこんな思いをしなければならない?少なくとも合理的判断だったはずだ。当たり前の幸福が手に入らないなら人にはできない特別な何かをしようとした私と、それを受け入れることを望んだ「二宮三四郎」。

一つ懸念があるとすれば、「二宮三四郎」にとっても死は結果ではなくプロセス、それもプランBだった可能性がぬぐえない。結局警察は「二宮三四郎」の遺書を公表しなかったため、事前に用意しておいたコピーを出す羽目になったわけだが、その文章を改めて読み、思う。彼は本当は死別した奥さんのためにもまた売れたかったが、現実は売れなかった。彼を救うなら、彼の魅力を前面に出せる作品を撮るべきだったんだ。だが、私にそんなことできるはずがない。だからセカンドプランとして死を選んだ・・・。そのことに気づいた私は1時間前に食べたばかりのポップコーンを口から便器に吐き出していた。


二度とこんな思いをしないための選択肢は二つ、殺人のルールに加筆する(それはそれでリスクある行為だとしても)か、自首、つまり殺人を止めるか。


The3名様が気に入った方は、ぜひセトウツミという漫画も読んでみてほしい。きっと気に入るはずだ。結末まで、見届けるんだ。

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