19 求婚

 オーヤマ氏はいま東京のビジネスホテルにいて、あしたは芸能事務所の人と話をする、と、俺たちの鼓膜にも聞こえてきた。猫は耳も敏感なのだ。

「芸能事務所入ったらさ、ちゃんとしたギター買いなよ。通販の入門用ギターじゃなくてさ」

 あさみちゃんはそう言ってケラケラ笑った。オーヤマ氏も笑っている。

「え? オーヤマブラザース? 元気だよ。きょう病院のなかに放してやったらわたしの部屋に入ってきてゴソゴソやるんだから」

 オーヤマ氏は電話口で俺たちの心配をしていた。どこまでいい人なんだ。

「うん、うん。上手くいくといいね。それじゃ、おやすみ」

 あさみちゃんは電話を切る。ひとつため息をついてから、別のところに電話をかけた。

「……叔父さん? 元気?」

 俺たちはちょっと身構えた。電話の向こうで、柔和そうな口調の男性の声が聞こえる。

「うん……おめでとう。やっぱり東京は進んでるんだね。仕事があるから行けないけど、お花だけでも送る。遠慮しなくていいよ、わたしも一人で稼げてるんだからさ」

 どうやら、あさみちゃんの叔父さんは長年の恋人といわゆる「同性パートナーシップ証明」を手に入れて、友達や仕事仲間をたくさん呼んで披露宴をするらしい。あさみちゃんの叔父なのだからけっこうな歳なのだろうが、それでも好きな人と一緒に暮らすのは素晴らしいことだ。

「あのさ、母さんは、どうしてる?」

 あさみちゃんは叔父さんにそう尋ねた。電話の向こうから、「まだ閉鎖病棟にいるよ」と聞こえてきた。ああ……。

「うん……だろうなとは思ってた……え?」

 あさみちゃんの叔父さんは、あさみちゃんに好きな人はいるか、と聞いたようだ。

 あさみちゃんは少し悩んでから、

「まだ結婚とかは考えてないけど、付き合ってる人はいる。付き合ってるっていうか……仲良くしてるだけかもしれない。でも好きな人だよ」

 と、返事をした。オーヤマ氏のことだ。あさみちゃんの叔父さんは、「それはよかった」と答えた。

「うん、わたしもいい報告がしたい。りゅうちゃんによろしく伝えて」

 あさみちゃんはそう言って、電話を切った。

「はーきょうもクッソ忙しかった~~! 隣町の先生みたいに治療費ぼったくりた~い!」

 獣医というのがすんごいお金を取る仕事だと知ってはいたが、あさみちゃんはきわめて良心的な値段で治療をしている。割に合わないのだと思う。

「銭湯いくのかったるいなあ……流しで頭洗うだけでいいか」

 あさみちゃんは結構ズボラなのであった。

 あさみちゃんは宣言通り二階の住居の流しで頭を洗って、タオルでわしゃわしゃした。

「やっぱまたバズカットにすっかな……」

 首にかけたタオルで頭をときおり拭きつつ、あさみちゃんは俺たちをクレートから出してくれた。即席の猫トイレが置かれている。

 マスタツがさっそく大きいほうの用を足し始めた。俺も便意が高まってくる。

 マスタツの出したものを見て、あさみちゃんは「すばらしい!」とマスタツを褒めた。

「ほら、ヤスハルくんもどうぞ」

 ちょっと恥ずかしかったが俺は人間でなく猫なので素直に用を足した。スッキリした。

「ちょっと柔らかいな……ご飯ちょっと多かったかな?」

 尻を犬猫用のおしりふきで拭かれた。

 クレートに戻された。あさみちゃんは髪に、だいぶぼろっちいドライヤーをかけている。古いらしく出る風も音もため息レベルだ。

「よし。飯食って寝よう。カップラでいいか……」

 あさみちゃんは電気ケトルでお湯を沸かしてインスタントラーメンを作り、ずるずるすすってから歯を磨き、さっさと寝てしまった。

 俺たちも寝てしまうことにした。

 次の日、あさみちゃんは早々と起きてきて、何やらスマホをぽちぽちしている。

「お花の手配完了っと!」

 どうやら叔父さんの披露宴に送る花を選んでいたらしい。いまはなんでもネットでできるすごい時代だ。

 開院少し前に、きのうの雑種犬の検査結果が届いた。あさみちゃんはガッツポーズをした。どうやらガンではなかったらしい。

「やっぱ隣町の先生の商売はアコギだわー……」と、あさみちゃんはぼやく。

 それから療法食や薬品が届けられて、開院の支度がすっかり整った。きょうもスクラブシャツを着て、シャッターを開ける。開院前から、黒塗りの高級車と軽トラが駐車場に停まっていた。

 黒塗りの高級車からちいくんとヤのつく自由業のおじさんが、軽トラから雑種犬とおじいさんが降りてきた。雑種犬とおじいさんはちょっと怖がっていたが、ヤのつく自由業のおじさんは雑種犬とおじいさんに先を譲ったようだ。先におじいさんが犬をかかえて入ってくる。

「結論から言うと、まったくガンではなく良性の腫瘍ですね。手術で簡単に取れます」

「よ、よかったなあチビ。手術っていうのはいつできるんですか?」

「毎週木曜日にやってます。今週は時間があるのであしたの木曜にやっちゃいましょうか?」

「お金はどれくらい必要なんですか?」

「ただお腹にできたできものを取るだけなので、一万円でお釣りが出せると思います」

「よかったなあチビ。ここの先生は優しいなあ」

 というわけで、雑種犬とその飼い主は明るい顔で帰っていった。

 ちいくんが診察室に入ってきた。確かに歩くのがすこしよたよただ。

「隣町の先生はなんて仰ってました?」

「歳だから関節がすり減ってるって言いました」

「そうでしたか。関節の弱っている犬向けの療法食があるので、それにしてみますか? 食欲はあるんですよね」

「ええ、そりゃあもうよく食べます」

 というわけで、ちいくんには療法食が出た。なかなか可愛くない値段だ。これ、土佐犬の食欲で食べたら一袋なんて一瞬ではないのか。

 その日もあさみちゃんはなかなかの激務だった。昼ご飯は昼休みに近くのコンビニから買ってきたツナマヨおにぎりと春雨スープだった。

「はあー丁寧な食生活がしたい……」

 どうやらあさみちゃんはオーヤマ氏がいるから食事をせっせと作れていたようだ。あさみちゃんがおにぎりの包装をふた付きのゴミ箱に捨てたあと、スマホに電話がかかってきた。

「はーいもしもし……チカさん。うん、元気だよ。どうしたの?」

 電話の向こうのオーヤマ氏は随分と興奮していた。聞き取れたことを総合すると、有名で規模の大きい芸能事務所に所属することが決まったらしい。

「おーおめでとー! ってことは東京に行っちゃうの?」

 オーヤマ氏は口ごもる。あさみちゃんは、

「ついていっていいかな。獣医の仕事、チカさんのためならよそでやっていいよ」

 と、そう答えた。

 これって実質あさみちゃんからのプロポーズだよな。

 あさみちゃんは、仕事があるから東京へは簡単にいけない、と言っていた。そのあさみちゃんが、オーヤマ氏についていきたいと言ったのだ。これがプロポーズでなくてなんなのか。

「ちょうど隣町の大きい動物病院に仕事とられちゃってたんだ。都会なら雇ってくれる動物病院もあるだろうし……」

 電話口で、オーヤマ氏が震えるような声で、

「あさみちゃんは、それでいいの?」と尋ねたのが聞こえた。

「いいっていうか……ワンオペで動物病院やるのの限界でさ。きのうなんか助からないハトをタダで治療してさ……いい人のふりするの疲れちゃった」

 きっとこれがあさみちゃんの本音なのだろうな、と俺は思った。

「だからさ、わたしも連れてって。チカさんのいるところにいたいんだ、わたしは」

 オーヤマ氏はしばらく悩んでから、

「俺の稼ぎだけじゃ食べられないかもしれないよ?」と答えた。

「それならわたしがぼったくり動物病院で働けばいいだけの話だよ」と、あさみちゃんは笑う。

 二人の関係に、結論が出ようとしていた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る