6 外界

 さて。

 オーヤマ氏は毎日ニコニコしながら城岡先生のアカウントを見て日々過ごしている。いやメッセージ送らんのかい。完全に好きな女の子の連絡先を手に入れた中学生のリアクションだ。

 まあオーヤマ氏の過酷な人生を思うと、そういうモラトリアムに近い時代はなかったわけで、それでいまモラトリアムしていてもしょうがないと思う。

 朝、オーヤマ氏がスマホをニコニコ眺めていると、玄関チャイムが鳴った。新聞の集金のようだ。オーヤマ氏はスマホをテーブルに置いて立ち上がった。

 いまだ。俺は最近覚えた「キャットケージすり抜けの術」――頭を九十度ねじればギリギリキャットゲージを脱出できるのである――を発動させて、オーヤマ氏のスマホをばしばしたたいた。城岡先生に通話をかける。

 新聞の集金のひとが帰っていった。オーヤマ氏はスマホをいじられていることに気付いて、慌ててスマホをとった。が、もう城岡先生が電話に出ていた。

「どうされました?」と、城岡先生。猫の聴力だと会話の内容が聞こえてくる。

「いえ、スマホをほったらかしてたらヤスハルがいたずらして……」

「アハハハーヤスハルくんかしこい! ヤスハルくん、その後ご飯食べてます?」

「はい、ウソみたいにキャットフード食べてます。城岡先生に会いたかったんですかね」

「そこまで猫に好かれるの初めてですよ……犬にはわりと好かれるんですけど」

「城岡先生は犬派ですか?」

「そうですね……実家の母がドのつく犬派だったんです。あ、そろそろ開院なので」

「わかりました。すみませんでした」

「いえいえ。それじゃ」

 電話が切れた。

「ヤスハルおまえなにいらんことしてるんだ」オーヤマ氏は俺のおでこをつついた。

 しかしおそらく、もう一週間もしたら「キャットケージすり抜けの術」も使えなくなる。俺たちはすくすく成長する子猫だ、一週間であっという間に大きくなる。

 キャットケージに戻される。オーヤマ氏はキャットフードを用意して、昼の中華料理屋のアルバイトに出かけた。

「ヤスハル、いまなにしたんだ?」

「オーヤマ氏のスマホから城岡先生に電話をかけた」

「ヤスハルおまえそんなことできるのか」

「そりゃ元人間だからな」俺はふんすっと鼻を鳴らした。

 そんな話をして、しばらく昼寝をしていると、なにやら耳に甘美な声が聞こえた。むくっと体を起こすと、ベランダに野良猫がいるのが目に入った。真っ白い体に左右色の違う瞳。野良猫にしておくにはあまりにも気高い美貌の猫だった。

「かわいそうに、そんな狭いところにいて」と、その美貌の野良猫は言った。

「あんただれです」マスタツが遠慮なくそう尋ねる。その美貌の野良猫は、

「ここいらでは『金目銀目のシロ』って呼ばれてるわ」と答えた。たぶんメスだ。耳の端に切れ込みがあるので、保護猫活動の人に捕まって去勢か不妊手術をされたのだろう。

「俺たちになんの用ですか」マスタツはちょっとけんか腰でそう訊ねた。シロさんはあくびをしてから、

「そこにいるの、退屈じゃない?」と訊ねてきた。

「いえ? 俺らきょうだいで二人でいるんで、どったんばったんして遊んでます」

「そうなの? 外はいいわよ。自由が広がってるわ。猫だってたくさんいる」

「でも俺らはNNNに遣わされてここにいるので。飼い主を幸せにするのが仕事なので」

「あなたたち、NNNなんて信じてるの? あんな胡散臭いもの信じる猫いるのね」

 NNNが胡散臭いとはどういうことだろうか。そこを訊ねてみる。

「あの猫頭の女神は、そもそもわたしたち猫を幸せにしようなんて思ってないのよ。猫を、人間の人生を充実させるための使いっ走りにしてるの。猫が人間の幸せを想うなんてナンセンスだわ。猫は自由に生きるべきよ」

 そうなのだろうか? 俺たちはオーヤマ氏を幸せにすることに使命感を感じているのだが。

「まああなたがたが幸せならそれで構わないけど、外の世界が楽しいことを忘れないで。あ、そろそろ『わかあゆ』の女将さんがキャットフードを用意する時間だわ」

 金目銀目のシロさんは、どうやら近くの料亭の女将さんが用意してくれるキャットフードを食べにいくようだった。せっかくカッコイイこと言うのに台無しだ。シロさんは去っていった。

「……外か」マスタツが好奇心全開の顔をしている。

「よしとけマスタツ。外なんてあぶないだけだ。車も走ってるし猫が嫌いな人間もいるし、面白半分で動物にボウガン撃ったり毒エサまいたりするやつだっているんだから」

「ボウガン? 毒エサ?」

 俺はボウガンがなんなのか、毒エサがなんなのか、マスタツに説明した。

「人間ってそんなひどいことするのか?」マスタツはびっくりしていた。

「する。人間には弱いものをいじめようという本能がある。オーヤマ氏だって、ほかのクラスメイトと学歴が違うのを理由に、学校でこっぴどくいじめられたんだからな」

「オーヤマ氏はそういうことしないよな?」

「しないと思う。自分がそういう目に遭わされたひとだから。毎日ちゃんとキャットフードやら水やらを用意してくれるのは、そういう悪いひとならしないことだ」

「そうなのか……俺も家から出るのはやめとこう」

「それが賢明だと思う。だいいち俺らは子猫だ、外に行っても大して歩けないうちに、ネズミ捕りにひっかかって死んじまうかもしれない」

「ネズミ捕り?」マスタツ、お前ほんとなんも知らないんだな……と思ったが、マスタツはそもそもが猫なので知らなくて当然なのであった。ネズミ捕りのことを説明する。

「なんで人間がネズミを捕るんだ? 食うわけじゃないだろ?」

「ネズミは人間の家をかじったり食べ物をかすめたり伝染病を広げたりするんだよ」

「要するに、人間にとってネズミは悪い奴なのか」

「そういうことだ。それが理由で、俺たち猫は遣唐使だか遣隋使だかの時代に、経典を守るために船に乗せられて日本にきた」

「け、けんとうし? けんずいし? それなんなんだ?」

「要するに、この日本って国から海を渡って中国って国に行って、当時最先端の学問を勉強してくる、ってことだ。そこから経典、つまりその宗教の本を持ち帰ったわけなんだが、それもネズミはかじるからそれを防ぐべく……」

「ヤスハル、お前マジで話長いな」マスタツに呆れられた。いや最後まで聞けよ。

 とりあえず昼寝してオーヤマ氏の帰りを待つことにした。オーヤマ氏は帰ってくると、俺たちを見てふうとため息をつき、俺たちにキャットフードと新しい水を与えた。

 うみゃうみゃーと言いながらキャットフードを食べる。そうおいしいものではない、いや味がしないし端的に言ってマズいのだが、まあ健康を維持するために必要と思えば食べられる。

 オーヤマ氏は夕方までギターの練習をして、それから中華料理屋でもらってきたと思われるおかずをチンして食べ始めた。香りから察するに麻婆豆腐。

「にゃー」俺は味の濃いものに飢えていた。ケージから手を伸ばす。オーヤマ氏は、

「だめだぞー。麻婆豆腐にはネギがたっぷり入ってるんだから」と俺たちを説得した。

 そんなことをしていると、オーヤマ氏のスマホが鳴った。

「はーいもしもし」と、オーヤマ氏は電話に出た。相手はバンド仲間のようだ。

「ライブの予定決まった。スモールライトのヴィジュアルナイトで、俺たちはバンドが四つ出るのの二番目だ」

 スモールライトというのはおそらくライブハウスなのだろう。ヴィジュアルナイトというのはヴィジュアル系のイベントみたいな感じなんだろうか。分からないがなんとなくホッとする。

「……あのさ、俺、」

 オーヤマ氏は電話口で口ごもる。相手の仲間は軽い調子で「どうした?」と聞いてきた。

「女装、やめたいんだよ」

「なんでだよ。お前自分でやりたいっつって女装してたじゃないか」

「ライブに獣医さんを呼びたいんだ。そこで女装してたらまずかろうよ」

「ははあーん。誠実なお付き合いのきっかけにしたいわけですな」

「いやそういうわけじゃないけど……ああ、でもそうすると衣裳がない……」

 オーヤマ氏は壁にぶつかったようだった。助けねば。

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