第5話 Off guard
(あ…倒れる…)
瞬間的にそう思い、何かに掴まろうとしたが既に遅かった。
さっきまで普通に見えていた景色がぐにゃりと曲がって、急に目の前が暗くなったー
***
グラウンドには四方から生徒たちの声が飛び交っている。
給水タンクを設置したりトラックに白線を引いたりと、明日からの体育祭の準備で生徒も先生も皆慌ただしくしていた。
何も七月の暑い時期にやらなくても良いのに。
じんわりと汗をかいた身体にまとわりつくような制服が気持ち悪くて思わずため息が出る。
以前は近隣の高校と同様に秋に行われていたらしいけど、この学校は夏休みから一気に受験モードに切り替わる事もあって数年前から時期を早めたと聞いた。
空の高いところから容赦無く照りつける午後の陽射し。
立ちくらみがした私は、キリの良い所で作業を終えて一旦校舎に逃げ込もうとしていた。
下足箱が見えてホッとしたのも束の間、足もとに力が入らない。
身体が言うことを聞かず、崩れ落ちるようにその場にうずくまった。
周囲のざわめきが耳に入ってきたけれど自分ではどうする事も出来ない。
誰かが養護教諭を呼びに行ってくれたらしく、私は数人に支えられながらそのまま保健室に運ばれてしまった。
ツンと鼻につく消毒液の匂い。少し固いベッドに横になるとようやく少しだけ落ち着いた。
ボタンを緩めようと養護教諭が手を伸ばすのを朦朧とした意識の中で静止する。
そんな私の様子に訝しげな顔を向けたちょうどその時、彼女を呼ぶ校内放送がかかった。
それを聞いて焦ったように席を立つと「えぇと…名前はなんだろう…クラスはどこかな?担任の先生の名前は?」と矢継ぎ早に声をかけてくる。
「田村です、田村澪」
「田村さんね。えっと、クラスは…」
「副担任に…青島先生に、伝えてください…」
口の中が乾いてそれだけ言うのがやっとだ。
「わかりました!青島先生に伝えておくから、ここで少し休んでてね」
先生はそう言い残し、水の入った真新しいペットボトルを手渡して何処かへ向かってしまった。
「え……行っちゃった」
去年赴任してきたばかりとは言え、落ち着きは無いしとても頼りなく感じる。
とは言え、彼女の慌てる姿を見た事で逆に冷静になれた。
(熱中症…ではないと思うんだけど。お昼ご飯をほとんど食べてないのに痛み止めを飲んだのが悪かったのかなぁ)
そんな事を考えながら過ごす。
半分くらい開いた窓。風をはらんで白いカーテンがふわりと揺れる。
さっきまでの喧騒が嘘みたいに、ここではゆっくりとした時間が流れている。
ぼんやりと天井の模様を眺めると、目眩が治まっているのがわかる。
時計の針がメトロノームみたいに音を刻むのを聞いているうちに、今度はなんだか眠くなってきてしまった。
***
ガタッ……
物音が聞こえた気がして不意に目が覚める。
ふと横に目をやると道着姿の先生の姿が見えた。
(あ、そっか。青島先生を呼んで貰ったんだ)
ベッド脇に付き添って、そのまま突っ伏すように寝てしまったのかもしれない。
パイプ椅子からずり落ちそうになっているのが可笑しくて、不謹慎だとは思ったけれど思わず笑ってしまう。
夕暮れ前の陽に照らされて赤く染まっている髪が、優しい風にふわふわと揺れるのが綺麗だ。
撫でるようにそっと触れると、先生の身体がぴくりと動いた。
一瞬うつつな様子だった先生は、先に目を覚ましていた私にびっくりしたらしく慌てて身体を起こす。
「先生、来てくれたんだ」
「それは勿論、来るに決まってる。ってすっかり寝ちゃってたけどね。それよりも体調が心配だ。倒れた時に怪我とかしてない?」
「貧血か何かだと思う。バタンと倒れたわけじゃないし、フラつくからうずくまっただけだから」
病院に連れて行こうとする先生を、今日は家でゆっくり休んで様子を見るからと説得する。
「とりあえず、もう大丈夫みたい」
薬の服用のせいかもしれないことは黙っておいて、明日の体育祭は見学するという約束をして納得してもらった。
「う〜ん…今日の所はわかった。でも無理をしないですぐに言う事。体調に限らずね」と、先生は諭すように話す。
「あ、じゃあこれ」
ペットボトルを渡すと首を傾げてこっちを見るから「手に力が入らなくてキャップが開けられなかったの。先生、開けて」と頼んでみる。
もうすっかり握力も戻っていたけれどこの機会にと甘えてみたのだ。
たったこれだけのお願いでもドキドキして、胸がいっぱいになった。
「あれ?」
保健室のドアが開いているのが気になって、先生に聞いてみる。
「来た時は閉まってて、僕も閉めたんだけどな」
さっきの音は誰かがドアを開けた音だったのだろうか。
不思議に思ったけれど答えは見つからなかった。
「ところで先生、なんで道着なの」
「体育祭は毎年運動部の顧問が開会宣言をやるんだけど、これの今年の担当が空手部だったんだ」
そう言われてみれば、去年は野球部の顧問がユニフォームを着てそんな事をしてたっけ。
「ふふ、先生、格好いいね」
道着姿を見るのは初めてでついまじまじと見てしまう。
先生は「見過ぎだから」と恥ずかしそうにしながら襟元を正した。
担任と連絡を取った先生が「明日の準備はもう大方終わってて、生徒たちも皆下校したみたいだ。僕たちも帰ろう。着替えてから送ってく」と優しい口調で話す。
私は頷いて、ゆっくりベッドから立ち上がった。
外を見ると雲が色を濃くしている。
ほんの少し残る違和感を心の奥に押しやって、私たちは二人で夕焼けを眺めた。
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