第2話 Coffee and cigarettes

すぐにでも降り出しそうな湿った空気を感じて教室の窓から暗く沈んだ空を見る。

蒸し暑いこの季節に半袖でいられない苛立ちは、なんとも言えない鬱屈とした感情を加速させていた。

このまま真夏になっても腕を出さない私を見れば何かおかしいと気付く人がいるだろうか。

(まぁ、その頃には腕のアザはなくなっているかもしれないし…)

隠れて見えない部分なんて他にいくらでもあるのだから。



流行ってもいないインフルエンザに罹って急な休みになった担任の代わりに、副担任の青島が出欠を取る。

湿気で崩れた前髪のチェックに忙しい女子生徒と終わったばかりの海外サッカーの試合結果の検索に夢中な男子生徒は、返事こそするものの話は大して聞いていないようだ。

2年になってクラス分けをしてからすぐに2度も席替えをした風変わりな担任は、いつもカリカリしていて朝のホームルームをあっという間に終える。

青島先生のペースはそれよりもずっとゆっくりでなんだか心地良かった。


穏やかな声に耳を傾けながら、何の気なしに首元に視線をやると深緑に青い傘の絵柄が刺繍されたネクタイが目に入る。

お気に入りの青ペンで傘の絵を描いて、そういえばいたずら書きなんていつぶりだろうかとぼんやり考えた。

「…村、田村澪」

「え、あ…はい」

出欠は終わったはずなのにもう一度名前を呼ばれた事に驚いて返事が遅れてしまう。

先生は気にする風でもなく続けた。

「田村さんは今日日直だと思うので休み時間に一度職員室に…あ、昼休みに社会科準備室に来て貰えますか」

「わかりました」

「今日は5時間目が自習になるのでそこで使うプリントを渡します」

自習という言葉に反応して教室が一気に騒めく。さっきまで誰も聞いていなさそうな雰囲気だったのに現金なものだ。

進学校という事もあってか自習になる授業など滅多に無いが、急な欠員で引き継ぎが間に合わなかったのだろう。

今はちょうど1年生の宿泊研修期間中だから、数名の教諭が不在なのも理由のひとつかもしれない。

なんにせよ、今日は特別な日になりそうな予感がして胸が高鳴った。


 ***


「失礼します」

はじめて踏み入れるそこは先生の家に訪れたような錯覚を起こすには十分で、私は少し冷静さを欠いていたのだと思う。

珈琲と煙草の匂いに意識がいって、ほんの少しだけある段差に気付かずに思い切り転んでしまった。

「田村さん!大丈夫ですか?」

慌てて駆け寄った先生が私の腕を掴んで起こそうとしてくれたけれど、それがちょうど怪我の部分に触れた為に思わず「痛っ!」と声が出る。

「あっ、ごめん!強かったかな…」

焦ったようにその手を離すのが申し訳なくてうまい言い訳を探した。

「昨日ちょっとぶつけてしまって…なので、先生のせいじゃないです」

スカートの汚れを払って姿勢を正すとようやく気持ちが落ち着き転倒の恥ずかしさだけが残る。

頬のほてりは暑さのせいにして、パタパタと手のひらで顔を仰いだ。

「怪我をしている人に頼む用事じゃなかったね。プリントは僕が持っていくから、田村さんは教室に戻っていいですよ」

心配そうな顔で見つめるその様子が叱られた子犬みたいで憎めない。

先生ともっと話がしてみたくなった私は、少しだけ食い下がってみる事にした。

「プリントを持つくらい、何とも無いです」

「うーん…じゃあ、半分こしましょうか」

旧校舎にある準備室から教室までは少し距離がある。

すっかり先生に興味が湧いた私は、教室に着くまでの間中いくつもの質問を投げかけた。

火・木・金曜日は空手部の顧問をしている事や、吸っている煙草の銘柄、話すのが遅いのは北海道の出身だからだと仲の良い先生に揶揄われるだとか、今まで知らなかった話が先生の輪郭をつくる。

くだらない質問の一つひとつに丁寧に答えてくれる素直な優しさは、ひび割れた私の心に染み渡るような潤いをくれた。

母が死んでからというもの、思い描いた青春とは程遠い真っ暗な時間だけが過ぎていく。

この一年、学校にも家にも居場所を見つけられないでいた私がこんなに沢山の会話をしたのは何故なんだろう。

そう不思議には思ったけれど悪い気はしない。

歩調を合わせてくれているのも嬉しかった。


角を曲がり2年7組のプレートが見えてきた時、先生は「何か困っている事があればいつでも話を聞きますよ」とポツリ呟いた。

(あぁ…なんだ…この人も同じか)

目の前が急にボヤけて見えて、返事をする気にもなれない。

柄にもなく浮かれていた自分を思い返すと居た堪れなくて、全て無かったことにしようと歩く速度を上げた。


大人は皆テンプレみたいにその言葉を口にする。

それを真に受けて相談するような高校生などいるのだろうか。

実際に相談されたらされたで煩わしく感じるだろうに、簡単にそんな事を言って欲しくは無い。

高まっていた気持ちが一気に萎んで冷たくなりかけた時、先生は「部活のない日は大抵準備室にいますから、時間潰しとかにでも来てくれて大丈夫です」と続けた。

「先生がそんなに生徒思いだとは知りませんでした」

たっぷりの嫌味を込めたその言葉に機嫌を損ねる事もなく、また少し困ったような笑顔をみせてから「田村さんは、苦しい思いを独りで抱え込んでしまいそうな気がします」と小さな声で言う。

どうせ口先だけの励ましだろうとたかを括っていただけに、まさかそんな返答がくるとは思ってもみなかった。

思わず立ち止まってしまった後、気まずさを誤魔化すように目を逸らして話す。

「ふ〜ん…本気で心配してくれてるみたいですね」

自分でも嫌になるくらい本当に可愛げのない返事をしてから、先に1人で教室に入り勢いよく教卓にプリントを置く。

ヒラリと落ちた1枚をクラスメイトが拾って戻してくれたのが見えて、そっと言葉をかけた。

「ありがとう」

聞こえるか聞こえないかの声しか出なかったけれど、彼女は「どういたしまして」と笑顔で返してくれる。

早くなっている鼓動に気付かないフリをして、急いで席に着いた。



こんなに感情が揺れ動く事などここしばらく記憶に無くて、あの頃に戻ったような気持ちになる。

(やっぱり今日は特別な日になった…かも?)

どうやら本気で心配してくれているらしい先生を相手に随分と子供っぽいやり取りをしてしまった後悔はありつつも、少しだけ気分が晴れたように感じた。



窓の外は朝と変わらないどんよりとした曇り空。

配られたプリントに視線を下ろすと整った字で提出締め切り日が書かれているのに気付く。

それをそっと指でなぞったら、珈琲と煙草の匂いを思い出して少しだけ幸せになった。

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