雨と涙の色は

桐谷綾/キリタニリョウ

第1話 Teardrop

毎日、雨ばかり降っている。

今朝観たTVではお天気キャスターが梅雨入りしたとか言っていた。

ジメジメとしたこの季節は嫌われがちだけれど私は結構好きだったりもする。

例えば今日みたいに多くの部活動が中止になると、遅くまで学校に残る生徒が減って丁度良い。

普段から人気の少ない社会科準備室の辺りには、私たち以外はもう誰もいなさそうだった。



「澪、おいで」

ネクタイを緩めて一呼吸ついてから合図みたいに発するその言葉聞いて、私は一歩ずつゆっくりと歩き出す。

授業の時より少し低いその声も、眼鏡を外した綺麗な瞳の色も、他の生徒たちは知らない。

きちんと手入れされた革靴にローファーの先が触れそうなくらい近付いてから視線を合わせると、薄茶色の眼が真っ直ぐに私を捉えた。


左側のホックに手をやると、ぱさりと小さな音を立ててスカートが足元に落ちる。

「これは…酷いな」

苦しそうにしかめたその顔が私には嬉しくて、消えてしまいたいくらい辛い日常へのご褒美のように感じた。

まだ赤みの引かない太腿のアザに先生がそっと唇を寄せる。

この行為が決して愛情ではなく、可哀想な私への同情だというのはわかっているつもりだけれど。

それでも私は嬉しくて、増えていく傷をこうして彼に見せるのだ。

「あの人からの憎悪のしるしが浄化されていくみたい」

すっかり気分の良くなった私は、柔らかくてふわふわした髪に触れながら呟く。

大人になりきれず、無垢な子供でもない私は、ありとあらゆる感情を持て余しているのかもしれない。


「先生…ここも…」

制服の裾をそっと持ち上げて下腹部を見せると、先生は悲しげに私を見上げた。

「強く押したりしなければ痛くないから大丈夫」

強がりでも何でもなく本当の事を言ってみただけなのに「無理しなくていい」と返されてしまって申し訳なくなる。

すっかり青くなった部分に優しくなぞる様な口づけをくれたから、私はそれだけで生きてて良かったと思えた。


 ***


「ねえ。先生」

先生の大きな腕にすっぽりとおさまる様に座っていた私は、どうしても顔を見ていたくて首を無理矢理後ろに向けながら声をかける。

「ん、どうしたの」

「今日…何の日かわかる?」

先生は、さも当然みたいな顔をして「誕生日おめでとう。」と優しくささやいた。

引き出しから取り出した可愛いリボンのついた小さな箱を私の手のひらにポンと乗せ「これ、澪にプレゼント」と微笑む。

「えっ…本当に?先生ありがとう。今ここで開けてみてもいい?」

思いがけない出来事に飛び跳ねるくらい驚いた私は返事も聞かずにラッピングを剥がす。

綺麗に、それでいて早く開けたいと気ばかり焦って上手くリボンが解けないでいるのを見兼ねて、結局は先生がやってくれた。

「可愛い!」

雫みたいなデザインのヘッドがついたペンダントは雑誌でもよく見かける人気店のものだったが、人気だとか値段だとかそんな事よりも、先生が自分の為にとプレゼントを選んでくれたその事が嬉しくて堪らない。

早速つけてもらったら自分では見えなくなってしまって、確かめるみたいにぎゅっと握りしめた。

「好みかどうかはわからなかったけど、お店の人に話を聞いていたらこれが澪をイメージさせたんだ。喜んでくれたみたいで良かった」

「これ、ずっとずっと大切にするね。でもまさかこんな素敵なものを貰えるなんて思わなかった」

「前に何かお揃いのものが欲しいって言ってたから」

「え?このペンダントお揃いなの?先生がつけているのを見たい!」

そうせがんでるうちにすっかり抱き合うみたいな体勢になって、雨音だけが聞こえていた部屋にギシッというキャスターの音が混じる。

ドキドキしているのは私だけだろうけど、こうして密着していられる時間に幸せを感じる。

ワイシャツのボタンを2つ外して見せてくれたそれは私にくれたものよりほんのひと回り大きいデザインで、明らかにペアアクセだというのがわかる。

「先生、これはズルい…嬉しいに決まってるよ」

涙が溢れそうになったのが少しだけ恥ずかしい。

「こういうの今までつけた事ないからちょっとまだ慣れないけど、澪はすごく似合ってる」

「ふふ、先生も意外とこういうの似合うね」

好きという言葉も交わしたいキスも、気持ちの奥に押し込めてただ先生を見つめた。

自分以上に私を慈しみ、泣く事すら出来ないでいたあの頃の私の為に涙を流したこの人に、一体何を返せるのだろうか。

底が見えない深い海に一緒に溺れさせる事だけはしてはならないと自分に言い聞かせながら広い胸に包まれる矛盾。

いつまでもこうしていたかったけれどあの家に帰らないと。

深呼吸してから覚悟を持って立ち上がると、先生が「助けてあげられなくてごめん」と言った。

先生以上に私を助けてくれている人はいないけど、私に抱く罪悪感みたいなものが2人を繋ぎ止めてくれている感情なのかもしれない。

そう思うと何もいえなくて、ただ頷いてから部屋を後にした。



去年の今頃、今日と同じように厚い雲に覆われた空は暗く沈んで、まるで自分自身みたいだった。

あの日救われた私の心は、夏の陽射しや冬の煌めきを経て、しっとりと息づいている。


何が正解なのかはわからないけれど、まだしばらくこの関係が続いて欲しいと首元の雫に願った。

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