第6話白拍子、太夫に感激する
「あ、見えたね。あれが――吉原だよ」
しんみりした空気を払拭するように、ことは明るく指さした。
時刻はもうすぐ夕暮れ時近くになっている。吉原の入り口である赤い大門。近くに控える屈強な門番が「何用だ?」と短く問う。
「傾国屋の光帯太夫の髪結いをしに来たことだよ。こっちは用心棒のまつりさ」
「……ことという髪結いの者が来ることは事前に知らされているが、そっちの……娘は聞かされていない」
「今日決めたんだ。最近、人斬りが出るから物騒なんだ。分かるでしょう?」
門番はじろじろと不躾にまつりを眺めた。
それから「こんな娘が用心棒なのか?」と疑わしい目つきをことに向けた。
「だって男の用心棒だといろいろ面倒じゃない」
「それでこの娘なのか? 本末転倒になっていないか?」
「これでも腕が立つんだよ! いいからさっさと通しな! 光帯太夫が待っているんだ!」
ことの迫力と光帯太夫の名に圧された門番は「わ、分かった。承った!」と門を開けた。
ことは黙って、まつりは「失礼します」と言って――門をくぐった。
大門の先にあるもの。それは少女であるまつりには想像もできない煌びやかな『世界』だった。
紅と黒で彩られる格子。その内側から男を誘惑してくる美しい遊女たち。日が暮れれば賑やかになるだろうと思われる雰囲気。昼の町から夜の城へと移り変わる狭間の妖艶な空気。まつりは江戸に来てから初めて――ときめいていた。
「ここが吉原ですか……華やかですね……」
「そうねえ。日の本には他に京の島原とかあるけど、盛況さや派手さはどこにも負けないんじゃないかしら」
ことの解説を聞き流さないように気をつけるのが精一杯だったまつり。
彼女は自分が江戸において異質であり異物であるのは分かっていた。
しかし今いるこの場所は――世界が異なる。
「光帯太夫はこの吉原でも一番大きい傾国屋にいる。早く行くよ! ぐずぐずしていたら日が暮れてしまう!」
感動して微動だにしないまつりの手を取って、ことは歩き始める。店を見るたびにまつりは歓声を上げた。その都度ことに「騒ぐんじゃないよ」と叱られる。
ことはてっきり、まつりは何事にも動じないと思っていたが、まったく逆のようだった。それが少女らしくておかしかった。
やがて傾国屋に着く。かなりの老舗だと分かる装い。しかし古びた感じはなく外観に気を使っているのが十二分に分かる。またも見惚れてしまったまつりを引っ張って店の中に入ること。すぐに店の者――遣り手と呼ばれる中年の女性だ――が「待っていたよ、遅かったね」と横柄に応じる。
「さっさと上がってやっておくれ」
「やけに不機嫌だね」
「光帯太夫のわがままで取る客だからね。まったくなんで……」
ぶつくさ文句を言う遣り手を半ば無視しつつ、二人は店の奥へ向かう。
すれ違う遊女たちは皆綺麗だった。彼女たちは奇妙な恰好をしているまつりを見ても驚かない。教育が行き届いているのか、心得ていた。
最奥の部屋のふすまを開ける前に「髪結いのことです。入りますよ」と一声かける。
すると幼い女の子の声で「良いでありんす」と応じた。
「ずいぶんと幼い声ですね」
「あれは禿だよ」
禿とは遊女の雑用をこなす少女をいう。
ことはふすまを開けた。
「わざわざお越しいただきありがとうござんす。わっちは自由にここを出られぬ身。許してくりゃれ」
まつりは目の前の女性――光帯太夫が現実に存在するのかと疑ってしまった。
ぱっちりと開いた目。ふっくらとした桜色の唇。すっきりとした鼻筋。艶やかな黒髪――それらが完璧な調和となって存在していた。
彼女は女性として完全無欠の『美』を持っていた。目が眩むほどの美しさ。『光帯』の名が相応しいほどだった。この美しさをもってすれば国どころか日の本、いやこの世全てを傾けられるだろうとまつりは確信した。
「そちらのお方は初顔ですね。どちらさまでありんす?」
「……え、あ、まつりです。白拍子のまつりと申します」
正座となり丁寧に頭を下げるまつり。
光帯太夫は面白げに「あの静御前と同じでありんすな」と微笑んだ。
同じ女だというのに、まつりは恋に落ちてしまいそうになる。
「時間がないことですし、早速やりましょう」
「あら。のんびりお話もできないのでありんすか?」
「外は今、怖い人斬りがいますから。ご存じでしょう?」
光帯太夫は「存じております。物騒ですね」と頷いた。
「まあ、わっちも早くやってくれるのは嬉しいです。着物を選ぶ時間も増えますから」
「では始めます。まつり、あんたは――」
「まつりさん、少し話をしましょう。よろしいですか?」
「えっ? まつりと?」
ことは光帯太夫がどうしてまつりに興味があるのか――ちょっと考えて太夫の気まぐれだと気づいた。
まあ髪結いの邪魔さえしなければいいと思い「構いませんよ」と承諾した。
「まつり、あんたもいいね?」
「はい、分かりました……」
見惚れたままのまつりは、何が何だか分からぬまま、ことの言葉に頷いた。
◆◇◆◇
「白拍子――源平合戦で活躍した判官九郎義経公の妻、静御前。相国入道清盛公の祇王や仏御前が有名でありんす。いわゆる女芸能者の一種ですね。まあ女だけではなく稚児もそのような出で立ちをして踊ったそうです」
吉原で太夫と呼ばれる者は高い教養を備えている。それは武家の子女をしのぐほどだった。今様を歌い、朗詠をして、一節舞うことができる者が一握りの太夫と呼ばれる。
「ぬし様はわっちと同じだと思われたくないでしょうが、白拍子と太夫は親戚筋に当たりますね」
「否定しません。だからこそ白拍子は廃れ、この地に新しい形として根付いています」
白拍子であるまつりは光帯太夫の言っていることを理解しているようだが、髪結いをすることにはさっぱり分からない。だから聞いているふりをして早く終わらせようと思っていた。
「まつりさんはどうして江戸へ?」
「刀を打ってもらおうと思いまして」
「それでは、国は違うのでありんすね」
「ええ。どこかは言えませんが」
ちなみにこの場にいるのはまつりとこと、光帯太夫の三人だけだった。禿は部屋の外にいる。太夫にそうするように命じられたのだ。
「わっちはこれでも芸事に通じた身。所作を見ればまつりさんが偽りを申していないことが分かります。だから興味がありんす」
「私も訊きたいことがあります。それほどの美しさを持つあなたの気持ちを」
まつりの飾らない純粋な思いに応じるように、光帯太夫は「気持ちでありんすか」と少し悩んでから答えた。
「わっちは太夫と呼ばれ、もてはやされておりますが、遊女であることには変わりありません。だから……気持ちや本心なんてないんです」
「…………」
「もちろん太夫としての誇りはありんす。けれど……それが通じる努力をした結果、失くした物もございます」
その表情には喜怒哀楽が無かった。それどころか一切の感情が欠落していた。
真顔のまま、淡々と事実を述べているだけに過ぎなかった。まつりはそれが光帯太夫の処世術だと分かった。余程の自制心が無ければできない芸当――芸事。
「今度はわっちから質問して良いですか?」
一転して明るい笑顔になる太夫。
まるで今までのが演技だと言わんばかりだった。
まつりは「なんでも訊いてください」と言った――言わされてしまった。
光帯太夫は言う。
まつりの芯、そして根幹を真剣に問う。
白拍子としての考えを――訊ねる。
「まつりさんは――『女の幸せ』がどういうことか、分かりますか?」
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます