第7話白拍子、太夫と問答する
吉原の最上位の遊女、光帯太夫が『女の幸せ』について白拍子のまつりに問う。
話を聞き流していた髪結いのことだったが、一瞬反応してしまった。
奇妙な恰好をしたまつりと異なる世界に住む光帯太夫の考えを、一人の女性として聞いてみたかった。
しかし仕事に専念しなければならないと思い直して、ことは作業を進めた。
無論、光帯太夫がそれに気づかないわけがなかった。
「女の幸せ、ですか。難しいですね……」
「まつりさんの御心のままに、言ってくりゃれ」
「……男の人に頼らず、自立して生きることだと思います」
男が支払った金で生きていく遊女に対して、普通は言えることではないけれど、まつりは自分が思っていることを偽るほうが失礼に当たると考えた。
光帯太夫はそれが分かっているようで、気を悪くした様子もなく笑顔を崩さないまま「その心はなんですか?」と問う。
「世の中には男と女しかいないのに、優劣が定まっています。男は強く女は弱い。男は賢く女は愚か。歴史を作ってきたのも伝説を築いてきたのも神話を産み出してきたのも男。私は女として生を受けた。それは決して覆せません。だとすれば一人の女として世間に認められて、男に頼らずに生きていけたら――幸せです」
白拍子としては相応しくない、むしろ曲がったことをまつりは言った。
白拍子は元来、権力や武力を持った当時の支配者――男たちの愛人という側面があった。そのあるべき姿を否定することは、白拍子の全てを否定することになる。
白拍子の歴史を、伝説を、神話を――壊すことになる。
しかしそれは、最後の白拍子だからこそ言えることでもあった。白拍子という存在を真っすぐ目を逸らすことなく、ありのままを受け入れているから、考えることができて言えることができたのだろう。
それが教養のある光帯太夫には痛いほど伝わった。まだ吉原がこの地に根付いて歴史は浅いが、これから伝統して後の世に続くための一助を担っている自負が太夫たる彼女にはある。だからこそ今のまつりの『終わらせる者』としての言葉を重く受け止めたのだ。
「その願いが叶わなければ、幸せになれないのですか?」
「そうではありませんが……幸せになるのは人生を豊かにしますが、必ずしも幸せにならなくてはいけないというわけでもありません」
「つまり、そのためだけに生きるつもりはないと?」
「ええ。幸せとはそういうものだと考えております」
光帯太夫は憂いを感じさせる顔でまつりを見つめた。
「まつりさんのおっしゃること、よく分かりました。けれど――少し誤解されておりますね」
光帯太夫は年長の女として、無垢な少女のまつり教えてやらねばならないと思った。
正直、髪結いの暇潰しとして話しかけただけだが熱が入ってしまったのは否めない。
「誤解ですか……ではご教授ください」
「女は弱いものではありゃしません。強くて強かなものでありんす」
太夫に真っ向から否定された白拍子。
それもただの否定ではなく、真逆の価値観を出されての否定だった。これにはまつりも驚きを隠せない。
「それは、一体――」
「権力と武力、そして暴力を備えている殿方。しかしそれらを支配しているのは、実のところ女でありんす。そして殿方の野望の果てには女がいるのです」
「お、おっしゃっている意味が分かりません」
「殿方はいつだって女を欲しています。単純な欲のため、他人への見栄のため、心からの安らぎのため、そして生きるため。女のいない世界で、殿方が生きられるわけがありゃしません」
女は男が生きるための目的。
ゆえに女は男を支配している。
これもまた太夫らしい言葉だった。
「だからこそ、わっちは女を磨いているのです。誰よりも美しく、誰よりも気高く、誰よりも清らかであるように。そう願って祈って戦って。創り上げたものが――今の光帯太夫でありんす」
「で、では、あなたにとって――女の幸せとはなんですか?」
別に歯向かって訊いたわけではない。自分の考えを否定された意趣返しではない。
達観している光帯太夫の考えが、真意が知りたかったのだ。
「わっちの考えは単純至極、くだらなくてつまらないものでありんすよ」
そう言いながらも、光帯太夫は自信と矜持を持っていると、対面にいるまつりと背後にいることには分かった。
「愛しい人と添い遂げる。これこそが女の幸せでありんす」
太夫とはいえ、遊女の彼女に似合わない答えだった。
絶句しているまつりに対して光帯太夫はにこやかに笑みを向けた。
「よく分からないという様子でありんすね。まつりさんは――誰かを愛したことがありますか?」
「いえ。男を好きになったことはありません」
「恋を知らないであれば、わっちの言うことはよく分かりませんね」
光帯太夫は「幸せとは人が目指すべき境地でありんす」と言う。
「けれど一つの幸せを目指すのであれば、捨てなければならないものもありんす。何かを捨ててまで幸せになりたいと願った者だけが、得られるものなのですよ」
「捨てる……それは物ですか? それとも心ですか?」
「多くの場合は心でありんす。それと、まつりさんは思い違いをしていますね」
光帯太夫は先ほどと同じように完全に笑みを消した。
美人が真剣な表情をするとうすら寒い感覚がする。
まつりはごくりと唾を飲み込んだ。
「頼ることと依存することは、大きく違います」
「…………」
「生きる上で殿方に頼ることは、決して恥ずべきことではありゃしません」
頼ることと依存することの違い。
それは恋を知らない少女であるまつりには難しかったけど、光帯太夫の言葉は彼女の胸に刻まれて――しっかりと残った。
「ちなみにことさんはどう考えますか?」
突然、話を振られたことは、手元が狂いそうになるのをこらえて「女の幸せねえ」と呟く。二人のやりとりを聞いていて、彼女にも思うところがあった。
「私は逆に、男に頼られる女になることかな」
「ほう。それは面白いでありんすな」
「ま、実際はしっかりしなさいって尻を叩いて男を働かせるような女になりたかったけどね」
「ことさんならなれそうですな」
「あはは。だけどあたしは頼られるより尽くしたいほうだからね」
それからことは、まつりに向かって「そんなに気にすることないよ」と呼びかけた。
「あんたも言ったけど、幸せなんてそうなればいいなって思うくらいがちょうどいいのさ」
「ことさん……」
「敷かれた幸せへの道を歩くのもいいけどさ、距離と道の状態くらい見定めておきたいよね」
面白味を含んだ返しに、光帯太夫は「ことさんは面白いお方でありんすな」と笑った。
「これからも贔屓にさせていただきます」
「ええ、こちらこそよろしくね」
◆◇◆◇
光帯太夫の髪結いが終わり、彼女から代金を頂戴した後、店から出ようとしたとき、遣り手の女から「済んだのかい? 案外早かったね」と面倒そうに言われた。
「さっきも言ったけど、どうしてそんなに不機嫌なんだい?」
「今日の光帯太夫の客さ。あんなしけた武士、どこが好きなんだろねえ」
「武士? 大名様じゃなくて?」
「ああ。しかも元百姓さ。学問と刀の腕前が凄いらしくてね。武家の養子になったんだ」
「へえ。苦労人じゃないか。でもどうして光帯太夫が?」
そんな客を取ったのか? とまでは言わなくても遣り手の女には伝わったらしい。
ため息混じりに答えた。
「同じ村の出なんだってさ。幼馴染らしいよ。ま、明日から働いてくれればいいけど」
まつりの胸に気持ちの良い、爽やかなものがすとんと落ちた。
なんだかひどく、光帯太夫が羨ましくなった。
二人が傾国屋の外に出ると、すっかり日が暮れていた。
吉原の町中に灯りがたくさん点いている。
男を誘うように、女に利用されるように――
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