§6

 その頃、悠志は校庭の脇に設えられた舗装路を、とぼとぼと歩いていた。楽器を背負って出てきてしまったが、この近所には練習できる場所など無い。かと言って、間宮中まで行って練習に混ぜて貰うのも、良策とは言えない。確かに居心地は良いが、それが自分を甘やかす結果になる事は充分に分かっていたからだ。

「頭だけで音楽をやってる、か……確かにそうかも知れねぇ。けど、何で今までそれに気付けなかったんだ?」

 氷室に指摘されて、初めて気付いた自分の悪癖。正確な譜読みも重要なポイントだが、それ以上に大切なのはビートに乗るという事。以前はそれが出来ていた筈なのに、どうして……と、悠志は思考の闇に落ちかけていた。

「鎚矢くーん!」

「……小松? それに、島村も……」

 パタパタと走って追ってきた二人を振り返り、悠志は生気のない声で呟いた。今は何となく一人になりたい気分であったが、彼女たちを追い返すつもりは無いらしい。

「どうしたんだ、二人して」

「上の音楽室に戻ったら、鎚矢くんが出て行ったって……だから、追い掛けて来たんだよ」

「俺を連れ戻しに、わざわざ?」

「そう思ったんスけど……戻っても意味なさそうっスね」

 そう言って4階を見上げる千佳に倣って耳を傾けると、成る程、普段であれば窓を閉めていても響いて来る筈のトランペットの音が、一向に聞こえてこない。つまり、紗耶香や茂も練習に手が付いていないという事だ。

「なら、今日は練習パスだな。俺はこのまま出掛けるぜ」

「ま、待って!」

「……まだ何か?」

 慌てて声を掛けて呼び止めたものの、その先の言葉が紡げず、由奈は口ごもってしまった。重要なメッセージを届けるために悠志を追ってきたのだが、実践で理解して貰わなければ意味が無い。それを考えると、どうしても躊躇してしまうのだった。

「お、追い掛けて来たのには、理由があるんだよ……」

「だから何? 用があるんなら、サクッと言ってくれよ」

「わ、私と千佳ちゃんで、気付いた事があるから……教えようと思って」

「ふぅん? ……別にいいよ、俺はもう戦力外通告されてんだしな」

「……!?」

 あまりにも悲観的に過ぎる悠志の回答に、由奈は絶句してしまった。確かに氷室は悠志に対して『今のままでは使えない』と宣告した。しかしそれは、裏を返せば『頑張って問題を解決しろ、期待している』という解釈になる。しかも、由奈は氷室から悠志を奮い立たせてくれと暗に頼まれているのだ。それだけに、彼のリアクションは衝撃的だった。

「ど、どうしてそう思うの?」

「どうして、って……奴は言ってたじゃないか、俺は協調性に欠けていて、周りに合わせる事が出来ないから使えない、ってな。つまり、俺なんか要らないって事に……」

「そんな事ないっ!! バカなこと言わないでよ!!」

 自嘲としか思えない戯言を宣う悠志に対して、由奈が吼えた。彼女はわなわなと肩を震わせ、あらん限りの大声を張り上げて、怒りの形相を悠志に向けていた。そして彼女はその表情を悲しみの色に染め、大粒の涙を流しながらその場にへたり込み、声をしゃくり上げて俯いてしまった。

「お、おい……」

「今のは、100パーセント先輩が悪いっス。小松先輩に謝ってほしいっス」

 由奈に代わってズイと前に出た千佳もまた、怒りの目線で悠志を睨んでいた。彼女たちのリアクションを受けて、悠志はもう何が何だか分からない、と言った風に肩を竦め、呆然としていた。

「……確かにカズ兄ぃは、鎚矢先輩のパートを打ち込みに差し替える……『かも知れない』と言ったっス。でも、これって確定じゃなくて、最悪の場合を想定した事だったっス」

「つ、つまり俺なんかより、シーケンサーの方がマシって事だろ?」

「まーだ分かんないんスか!? カズ兄ぃは鎚矢先輩に、期待してるから頑張れって言ってるんスよ!!」

「なっ……!?」

 今度は、悠志が絶句していた。然もありなん、あれだけ敵愾心を剥き出しにして、罵り合っていた相手が、『期待している』と言ったなど、到底信じられる事では無かったのだ。少なくとも、今の悠志にしてみればの話だが。

「だからカズ兄ぃは、アタシたちに先輩の弱点を克服するヒントを託してくれたっス。それを伝えに来たのに、アレは無いっス」

「う……わ、悪かったよ」

「謝る相手、間違えてんじゃねぇっス!」

 激高する千佳に対する言葉など、もはや無かった。そして更に、目の前で嗚咽を漏らしている由奈に、何と声を掛ければ良いと言うのだろうか。判断が付きかねた悠志は、由奈の目の前で膝をつき、目の高さを彼女に合わせて静かに問うた。

「……氷室から、何かヒントを貰ったんだって?」

 その声に、由奈は微かに肩を震わせた。しかし彼女は顔を伏せたまま、沈黙していた。涙でグシャグシャに濡れた顔を、悠志に見られたくなかったのだろう。そして、そんな様を間近に見ていた悠志も、やはり沈黙していた。

「……あんまり……ガッカリさせないでよ」

「わ、悪かったよ。でも……」

 漸く、由奈の返答を貰う事は出来た……が、その声は非常に弱々しく、聞き取り辛いものであった。しかし、彼女の言葉はしっかりと悠志の耳に届いていた。

「……でも、何?」

「いや……俺は仲間を信頼できない、冷たい奴だって言われちまったし……」

「違う! そんな人なら、私……好きになんかなってない!」

「……!?」

 由奈の口から紡がれた一言を聞いて、悠志は固まってしまった。いま何と言った? 俺は今、何を言われたんだ……? と、軽いパニック状態に陥りながら、彼は懸命に状況整理をしようと試みた。

「いま、何て……?」

「……私の好きな人は、そんな人じゃないって言ったんだよ」

「好き、って……俺の事か?」

「そうだよ。でも、そんな情けない事を言うなんて……幻滅したよ」

 由奈としても、此処まで言うつもりは無かったに違いない。しかし、あまりに酷い悠志の態度に失望した為、抑えが利かなくなったのだろう。彼女は悠志に対する想いを、全てぶちまけてしまっていた。傍でその様を見ていた千佳が慌てて制止しようとしたが、既にフォローの利く状態ではなくなっていた。

(い……言っちゃったぁ! 刺激強すぎっス、拙いっスよ!)

未だ顔を伏せたままの由奈と、呆然と立ち尽くしている悠志とを見比べて、千佳はどういう行動に出るべきか迷っていた。が、此処で悠志が起こしたリアクションは、かなり意外なものだった。

「なぁ……その、気付いた事って奴……聞かせてくれないか?」

「……聞いて、どうするの?」

「もう、お前をガッカリさせたくない……けど、どうすりゃ皆とシンクロ出来るのかが分からねぇんだよ。だから……」

「……一緒に考えよう。私たちも正解は知らない、氷室くんからヒントを貰っただけだから」

 そう答えた由奈の顔は、未だ涙に濡れていた。彼女の泣き顔を見るのは、これで二度目。しかも、どちらも自分の発言が原因となって泣かせたのだ……と、悠志は猛省した。しかし、もう二度と泣かせはしない。何故なら俺は……と、彼は笑みを浮かべ、由奈に対して誓いを立てていた。

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