§5

 入学式から3週間ほどが経過した、ある日の休み時間。由奈は特科教室から自分の教室へ戻る途中、廊下の角を曲がる処で、会話をしている一組の男女を見つけた。彼女はその脇を素通りしようと考えたが、ハッとして足を止めてしまった。何故なら、そこに居る二人が、どちらも見知った顔だったからである。

(あれは……氷室くんと、千佳ちゃん? どうしてあの二人が一緒に……も、もしかして、口説かれてるとか!?)

 やや強気なアプローチの氷室に対し、千佳はそれを嫌がっている。その光景は、氷室が千佳を強引に口説いているようにしか見えない。もし、目の前で起こっている事が自分の想像通りなら、双方の知人として介入し、千佳を助けるべきだろう。しかし、氷室が自分へのアプローチを諦めて、千佳に鞍替えをしたのなら、それは由奈にとって非常に有り難い事である。でも……と、彼女は葛藤した。千佳を見殺しにして自分だけ助かる事を良しとしない、彼女の性格が待ったを掛けているのだ。

(あれ? 千佳ちゃんを名前で呼んでる。じゃあ……って、時間!)

 中庭に設えられた時計を見て、由奈は焦り始めた。このままでは教室に戻る事が出来ず、次の授業に遅刻してしまう。尤も、会話中の二人も休み時間の間に教室へ戻らなくてはならないので、その前に会話は終わるのだろうが……その事に気付かぬほど、彼女は動揺していたのだ。

(あ、やっと話し終わっ……え? な、何でこっちに来るの!?)

 二人は会話を終わらせ、手を振り合って別れたが、そのうちの一方――千佳が此方へ向かって来る。由奈は会話を立ち聞きしていた訳では無いのだから、堂々とすれ違えば良いだけなのだが、何故か彼女は罪悪感を覚えて、思わず身を隠そうとした。

「……何やってんスか?」

「あ、いや、その……」

 壁にぴったりと貼り付き、背を向けていた由奈の姿は、千佳にとってはかなり滑稽に見えたのだろう。彼女は一瞬だけ驚いたような仕草を見せた後、呆れ顔で由奈に話し掛けた。

「その……彼氏さんと話してる所に、出くわしたら悪いと思って」

「はぁ!?」

 由奈の回答を聞いて、千佳は更に呆れたように表情を崩し、脱力した。それほどまでに、由奈の回答は間抜けなものであったらしい。しかし、当の由奈は千佳の表情の意味が分からず、ますます混乱していた。

「イトコ同士で、どうしろってんスか。マンガじゃあるまいし」

「い、イトコ!? 千佳ちゃんと、氷室くんが!?」

「そうっスよ。それがどうかしたっスか?」

 千佳は堂々と、そう答えた。しかし、由奈にとってその事実は、驚愕に値するものだった。何しろ、氷室は吹奏楽部と対立関係にある軽音楽部のリーダー格。その親戚が……と、思わず絶句してしまったのだ。

「あ、あの……」

「ウチと軽音が張り合ってるってのは、勿論知ってるっス。けど、それとアタシとは関係ないっスから」

 堂々と言い切ると、千佳はふいと顔を背け、去っていった。一瞬、その瞳に怪しい光を見たような気がしたが、根拠はない。その場に取り残された由奈は暫し呆然としていたが、ハッと我に返り、慌てて教室へと戻っていった。しかし……

(拙いよカズ兄ぃ、だから学校で話すのヤバいって……ま、どっちにしろ、嫌われ役なのは変わんないか。趣味じゃないなぁ)

 千佳は千佳で、違う意味の不安を感じていた。いま彼女が由奈に向けて放った『自分は軽音とは関係ない』という言葉に嘘はない。が、氷室から『由奈を鎚矢から引き離せ』と指示されているのも事実なのだ。既に自分が悪役に回っているという自覚はあるが、氷室には逆らえない。こんな汚れ役は嫌だ……それが彼女の本音であるようだ。

(ねぇカズ兄ぃ、一途なのと、諦めが悪いのって……違うんだよ?)

 氷室に対して、心の中で苦言を呈しながら、千佳は苦笑いを浮かべていた。そして……

(千佳ちゃん、何かと私に絡んで来てたのは、もしかして……嫌な予感がする、モタモタしてられない!)

 由奈は教室へと戻る途中の廊下で、ある決意を固めていたのだった。


* * *


「鎚矢くん、ちょっといいかな?」

 その日、由奈は些か緊張した面持ちで、悠志に話し掛けた。いつも通りに訪れる部活の練習時間を、彼女は心待ちにしていたのだ。金曜の放課後、休日を明日に控えた午後のひと時である。

「んー? 何だよ、改まって」

「えへへ……実はね、頑張ってお小遣いを貯めて、やっと買えるようになったんだよ」

「だから、何をだよ?」

「マウスピース! 間宮中に行った時、吹かせて貰ったのが凄く良くて、欲しくなっちゃって……」

 由奈の曰く、それで明日にでも買いに行こうと思っているけれど、大金を持って一人で出歩くのは怖いし、もしかしたら更に良いものがあるかも知れない。だから、経験者に同行して貰いたい……という事であった。

「何だ、そういう事か。別にヒマだし、俺は構わないけど……渡部先輩と行った方が良いんじゃないのか?」

 悠志の返答に、由奈は少し眉を下げた。女子同士の方が余計な気遣いも無くて良いのでは? という彼の言い分は尤もだが、由奈にとってはマウスピースの購入以外にも、悠志と一緒に外出する意味があるのだ。つまり、彼女は勇気を振り絞って、彼をデートに誘ったのである。そして、それを察したのかどうかは分からないが、話を振られた紗耶香の回答は『ゴメンなさい』であった。

「明日は用事があるのよ。悪いけど、付き合えないわ」

「そ、そうですか……んじゃ、ご一緒しますかね」

「うん、ありがとう!」

 オーバーアクションで喜びを表現する由奈の姿を見て、悠志は一瞬だけ驚いたような表情を浮かべた。が、それもすぐに笑顔に変わり、その反応が更に由奈を喜ばせる事になった。

「責任重大だな、鎚矢」

「なぁに、俺の目利きは確かだぜ。ベストマッチな奴を選んでみせるさ」

「いや、そうじゃな……エヘン! それは頼もしいね」

「……? あ、あぁ」

 横から茂が口を挟もうとしたが、彼は悠志の背中越しに突き刺さる非難の視線に、アッサリと降伏してしまった。由奈が顔を真っ赤に染め、頬を膨らませながら睨んでいたのだ。

「余計なお節介は怪我の元よ、森戸君」

「そ、そうですね。肝に銘じます」

 更に、苦笑いを浮かべた紗耶香からも忠告されて、茂はもうタジタジであった。尤も、由奈の必死な姿を目の当たりにした、その時点で彼は既に猛省していたのだが、それは語るまい。そして悠志は、由奈が合同練習の際に吹かせて貰ったというマウスピースが何処のメーカー製で、型番は何であったか等、確実にベストマッチを導く為のヒアリングを行った。彼女の記憶が確かだったお陰で、リサーチはスムーズに進んだ。

「よし、大体わかった。が、試奏しないで選ぶのは危険だぞ」

「わかってるよ。その為に……当間先生、そういう訳なので、楽器を持ち帰って良いですか?」

 その問い掛けに、当間が首を横に振る筈はなく。笑顔と共に了承を得た由奈は、喜び勇んで明日の土曜日を迎える事となった。

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