§7

「小松さん、合唱やってたんだってね。じゃあ、この曲は知ってる?」

 そう言いながら、佳祐はピアノの鍵盤蓋を開け、おもむろにイントロを弾き始めた。それは合唱曲と言うよりも、宗教音楽的な印象が強い楽曲であったが、皆の良く知っているメロディーだった。

「……!!」

 その調べに合わせて、由奈が歌い始めたその刹那。そこに居た全員が圧倒されていた。普段から彼女と接する事の多い紗耶香や茂は勿論、悠志も、鎌田も当間も例外ではなかった。そして彼女が1コーラスを歌い終えた時、周囲は痛い程の静寂に包まれていた。が、暫くすると、割れんばかりの拍手が鳴り響き、場は騒然となった。

「なぁる……これならヴォーカルとして欲しくなるのも道理だな」

 まず、その感想を述べたのは佳祐だった。彼は悠志のパートナーとしてオリジナル曲を一緒に奏でていた経験から、テノールの発声は聴き慣れていたのだが、これほど透き通った、美しいソプラノは未だかつて聴いた事が無かったらしい。

「由奈ちゃん、メッチャ凄い! アタシ感動しちゃったよ!」

 恵美は由奈の両手を取ってピョンピョン跳ね回り、全身で感動の大きさを表していた。由奈はそのリアクションに照れながら、頬を染めて『大袈裟だよ』と返していた。そして悠志は……

「これは……あの野郎、絶対に諦めねぇだろうな。もっと警戒しねぇと」

 ……何やら、一人で燃えていた。その傍らでは紗耶香と茂が彼の様子を窺いながら、苦笑いを浮かべていた。他の面々も、各々にリアクションは異なっていたが、それぞれが由奈の歌声に感動し、賛辞を送っていた。

「ちょっとユージ、これだけの実力者が吹奏楽部あんたらを選んでくれたんだよ! 大事にしないとバチが当たるからね」

「と、当然だろ! つーか、何で俺にそれを言うんだよ」

「えー? だって由奈ちゃん、ユージの事……」

「わー、わわわわわ! メグちゃん、タンマ!」

 大変な興奮状態の中で、恵美はつい、要らぬ事を口走りそうになっていた。彼女が何を言おうとしていたのかに敏く気づいた由奈は、慌てて彼女の言葉を大声で遮り、涙目になりながら懸命に首を横に振っていた。

「……何やってんだ? あの二人は」

「ふぅん……良かったなユージ、良い仲間と巡り会えてさ」

「あ? あぁ、そうだな……ところでケースケ、いいのか? もう30分近くも雑談しちゃってるけど」

「良いんじゃないか? もともと今日は、お前らの不調を何とかするのが目的だったんだからな」

 笑いながら応える佳祐に、悠志も思わず笑みを返していた。見れば、指揮を担当していた間宮中の教師も、音楽室の隅で当間たちと談笑しながら茶を飲んでいる。恐らく、合同『練習』という名目は飽くまでも建前で、このような状況になるのも想定の範囲内だったのだろう。しかし、そうなると一点、ある疑問が浮き彫りになる。それは合同練習の提案が出た時点から、悠志がずっと懸念してきた事であった。

「なぁケースケ、俺らはこれで良いけどさ……お前らは大丈夫なのか?」

「大丈夫って……何が?」

「練習だよ。もうすぐ全国大会だろ? 遊んでちゃ拙いんじゃ……」

 その回答に、佳祐は思わず表情を強張らせた。いや、今の時点で、悠志がそれに気付いていない事が意外だったのだろう。彼はスッと目線を騒然となっている皆の方へ向け、静かに呟いた。

「ユージ、此処は音楽室だよな」

「え、あぁ、それがどうした?」

「総勢100人を超えるオレらが、こんな狭い部屋に入りきると思うか?」

「そ、そう言えば……じゃあ、別チームがあるって……ま、まさか!?」

 愕然とした表情になって、悠志が返した。それを受けた佳祐は寂しそうな笑みを浮かべながら、ゆっくりと頷いた。その時点で初めて、悠志は此処に集っているメンバーが『二軍』である事に気付いたのだった。

「あすこに居る先生、三浦って名前なんだ。ここで問題、ウチの指揮者の名前は?」

「よ、吉岡……そうだ、女の先生だった筈だ。けど、あの人は男……」

「そういう事だ。選抜メンバーは今頃、講堂をホールに見立てて猛特訓中だよ」

「……!!」

 その回答を聞いて、紗耶香たちも思わず振り返り、悠志の傍に駆け寄ってきた。そして悠志たちの会話が聞こえたのか、当間と鎌田は気まずそうに苦笑いを浮かべていた。彼らは悠志たちのモチベーションを維持するために、支部大会を制したのは別に存在している、吹奏楽部目当ての越境入学者を多く含む『Aチーム』である事を、秘匿していたらしい。

「そんな……ここに居る皆が、レギュラーじゃないなんて! 全国レベルの壁って、そんな高いところにあるの!?」

 その声を発したのは紗耶香だった。彼女は佳祐たちと肩を並べ、ほぼ対等の扱いを受けた事で、全国レベルの壁を垣間見たと勘違いをしていたようだ。いや、彼女だけではない。茂も、悠志ですらも、全国大会への切符を手にしたのは佳祐たちであると思っていたようで、少なからずショックを受けていた。唯一、初心者である由奈だけが、Aチームの存在に気付いていたと云うのは、まさに皮肉であった。

「何か、ガッカリさせちゃったみたいだけど……ユージ、全国に出るってのは、生半可な事じゃ無理なんだよ」

「アタシたち、入部した後に直ぐ、選抜テストを受けさせられたの。去年の選抜に漏れた、先輩たちと一緒にね」

 恵美の視線の向こうには、やはりバツの悪そうな表情を浮かべている、上級生たちの姿があった。しかし、彼らとて低水準の奏者ではない。別の学校から大会にエントリーしていれば、支部大会での入選も可能な程度の実力を有しているのだ。

「Aチームと、ここに居るBチームの間に、実力差は殆ど無いと言って良いでしょう。が、大会にエントリーする為には、既定の人数に絞らなければならないので……」

「大会規約で、同じ部門への複数エントリーは禁じられているからね。彼らBチームは、D部で見事に金賞を受賞しているよ。他の学校に圧倒的な大差を付けてね」

 先程まで合奏の指揮を執っていた三浦の説明に、鎌田が補足を加えた。吹奏楽コンクールは幾つかの部門に分けられており、最高で全国大会にまで駒を進められる『A部』、支部大会まで開催される中編成の『B部』、そして上位大会が存在しない『C部』『D部』の4部門となっている。各々に出場登録可能な人数の上限が異なるため、間宮中のように部員数の多い学校に於いては、主力チームをA部に、サブチームを人数制限のないD部にエントリーさせるという選択を採る処も少なくないのだ。

「……なぁ、ケースケ。その、全国レベルって奴……見せて貰えるか?」

「悪い事は言わない、やめておけ。オレたちだって補欠で入ると、自信を失くすぐらいなんだ」

「そんな、実力差は殆ど無いって、今……」

「楽器の腕前で言えば、確かにそうだよ。けど……上のチームはハッキリ言って、『部活』ってレベルじゃ無いんだよ」

 佳祐に続いて、恵美までもが顔色を青白く染めながら、弱々しい口調で答えた。他の学校に居れば余裕でレギュラーに収まり、県大会レベルなら確実に制する事が出来るであろう彼らをして、その発言に至る……これは決して誇大表現などではない、紛れもない事実なんだと悟った悠志は、漸くAチームの見学を諦め、皆と一緒に帰途に就いたのだった。


* * *


 暫し時は過ぎ、12月。悠志たちはホールの客席で、司会のアナウンスを聞いていた。因みに、紗耶香の姿は此処には無い。彼女はメンバーの代表として舞台袖に待機して、入賞を告げられたら舞台に出て、表彰状を受け取るという役どころである為、今頃は幕の裏でソワソワと落ち着きなく過ごしている事だろう。

「あれから、目いっぱいの努力はしたつもりだけど……」

「まぁ、結果を御覧じろだ。ハッキリ言って、上手い下手で言えば俺らの圧勝さ。あとは審査員の好みの問題だな」

 そう、間宮中で衝撃の事実を知った後、悠志たちは初心にかえって練習に励み、今日という日を迎えた。しかし、未だ明確な欠点解消の答えを見出せないまま、熟練には時間が必要というキーワードに縛られた彼らに、良い結果がもたらされる筈もなく。やはりと云うか、和泉中の学校名の後に賞のコールは無く、紗耶香が壇上に登る事も無かった。

 廃部寸前であった4月の時点から、小規模とは言えど大会にエントリー出来るほどの躍進を見せた彼らの努力は、大いに評価されて然るべきであろう。しかし逆に、その自負があるだけに、実に悔いの残る結果となってしまった。

 こうして、意気揚々と旗揚げした彼ら吹奏楽部は、全く冴えない内容で初年度の公式活動を終える事となったのである。

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