§7

「あ、アイツ!」

 茂が水道でマウスピースの手入れをしていた時、その後ろを氷室が通り過ぎて行った。彼は急いで手とマウスピースを拭いて、後を追おうとしたが、その時すでに氷室は音楽室の前まで到達していた。それを見た茂は小さく舌打ちをして、しまった……と呟いた。しかし、何故か氷室は入り口に立ち尽くし、驚いたような表情で固まっていた。

「おーい、どうした……ん、だ?」

 と、茂が氷室の背後に付いた時、目の前には由奈の姿があった。彼女は楽器を携えており、その隣には巾着袋を提げた悠志が控えていた。

「ちょっとー、どいてよ氷室くん。通れないじゃん」

「あ、ごめ……じゃなくて! 由奈、オレの話を……」

「お・こ・と・わ・り! って、何度も言った筈だよ」

 氷室は一瞬だけ怯んだ様子を見せたが、すぐ我に返り、いつもの口上に移行すべく口を開こうとした。しかし、それを由奈の堂々たる一言に遮られ、言葉を失ってしまった。そして由奈は、ふいと悠志の顔を見上げ、ニッコリと微笑んだ。

「ね、鎚矢くん?」

「あぁ。残念だったな氷室、もうお前の揺さぶりは効かねぇよ。諦めな」

 先日見せた、怒りの形相は何処へやら。悠志は毅然とした態度で氷室を退けつつ、由奈に笑みを返していた。その様を傍から見ていた茂も、あまりの変貌ぶりに驚いたのか、口をパクパクさせたまま呆然としていた。

「……で? 二人して何処へ行こうとしてんの?」

「あ、楽器の洗い方を教えて欲しいって言うもんで。水道のトコまで」

「鎚矢くんってば、そのままだと錆びちゃうぞって脅かすんですよぉ」

 準備室から出てきた紗耶香が、氷室の背後から声を掛けてきた。由奈は今まで楽器の表面はピカピカに磨いていたが、内側の手入れについては、バルブに毎日オイルを差すという事以外、良く知らなかったらしい。当然ながら、手入れ用の道具も持っていないので、悠志から道具を拝借して、洗い方も教えて貰おうという話になったようだ。

「30分ぐらい掛かると思うんで。じゃ、失礼しまっす!」

「ばいばい、氷室くん。ってか、そこに居ると練習のジャマだよ」

「お、おい! オレの話はまだ……」

 と、二人を制止しようとする氷室の横を素通りして、悠志と由奈は揃って歩き去ろうとした。しかし、ここで負けてなるものかと、尚も氷室は食い下がった。が、悠志の返答は飽くまでも強気なものだった。

「しつけぇな。コイツのケツは、見た目ほど軽くねぇん……ってぇ!!」

 余裕の笑みを浮かべながら、悠志は氷室に対して『由奈の意志は固い』という事をアピールしようと、挑発的な言葉を選んでおどけて見せた。が、その直後、由奈の踵が悠志の爪先を直撃していた。

「……えっち」

「お、思いっきり踏んづけただろ! メッチャ痛かったぞ!」

「お尻なんて、いつの間に見たんだよぉ」

「バッ……大して色気もねぇクセに、ナマ言ってんじゃねーよ!」

 ギャー・ギャー……と口論を繰り広げながら、悠志と由奈は去っていった。彼らは決して険悪な雰囲気にはならず、寧ろ楽しそうですらあった。そして、その後ろ姿を見送りながら、氷室は呆然としていた。

「なぁメガネ、もしかして、あの二人……」

「森戸だよ……でも、なかなか似合ってると思いません? ねぇ先輩」

「そうね。今は小松さんがリードしてる感じだけど、そのうち……」

「く、くそぉ! オレは諦めないからな!!」

 氷室の曰く『諦めない』とは、果たしてどういう意味だったのか。それは定かではないが、彼の介入によって、悠志と由奈の絆が、より深く、そしてより強いものとなっていたのは確かであろう。ともあれ、そんな二人の様を見て、紗耶香と茂もホッと胸を撫で下ろすのだった。

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