§6

 あれから数日。由奈は、悠志の態度が何となくよそよそしくなっている事に気付いて、不安を抱いていた。無視されているという訳ではないのだが、目線を合わせずに淡々と受け答えをしている様子が見て取れ、あからさまに『避けられている』感じがするのだ。例の噂話も既に、悠志の耳に入っているであろう。彼が自分を避けるとしたら、原因はそれしかない……そう彼女は直感し、その話題に触れないようにと務めていた。

「鎚矢くん、ラッカーポリッシュ借りていい?」

「……使えば? 楽器ケースの中に入ってるから」

「うん……ありがと」

 しかし、やはり会話はそっけない……と云うか、最低限のやり取りしか出来ていない。由奈は努めて明るく振舞うようにしていたが、悠志の方が応じてくれない。彼女の笑顔は、何度となく不発に終わっていた。

(やっぱり、鎚矢くんの態度がおかしい。あの噂話が流れ出してから、ずっとこんな感じだよ……)

 そんな彼らの様子を見て、紗耶香と茂が盛り立ててくれようとするのだが、却ってそれが白々しい雰囲気を作る事となって、次第に全体の空気も重苦しいものになっていった。仕方なく、その状態で練習を開始する事になるのだが、あまり身が入らず、どうにも白けた感じになってしまうのだった。しかし、その事を気に病んでいたのは、由奈だけではなかった。

(さっきの態度……アレは無かったよな。小松が悪い訳じゃ無い、それは分かってんだ。でも……)

 そう。悠志もまた、得体の知れぬ苛立ちと戦っていた。あんな噂話など、ただのデマに決まっている。彼女が勧誘に応じて、軽音に流れていく事も在り得ない……そう信じていた。しかし、氷室とのやり取りで受けたダメージは存外に大きく、深いものであり、それが彼の心に壁を作ってしまっていたのだ。素直でありたい、嫌われたくない……そう思えば思うほど、逆に深みに嵌ってしまい、状況は次第に悪い方向へと流れつつあったのだ。

(俺が悲観的過ぎるのか? でも、あれだけ熱心に言い寄られたら、もしかして……って、何考えてんだ俺は!)

 悠志にとって、あってはならない……想像したくない未来予想図が、頭の中で次第に大きく広がっていく。考えちゃいけない、絶対にありえないと抗いつつも、それを肯定してしまいそうになる自分に、彼は苛立ちを感じていた。

「……! ど、どうしたの、鎚矢くん?」

「トイレだよ」

 不意に席を立った悠志に驚いたのか、由奈が思わず問い掛けた。彼からの回答は至って普通のものだったが、やはりと云うか、視線は自分の方を向いていない。そして去っていく悠志の姿を見送りながら、由奈は力なく項垂れた。そんな彼らの様を見て、紗耶香と茂も言葉を失っていた。

(こんな状態が、もう何日も……これじゃダメだ、何とかしなきゃ!)

 グッと唇を噛み締め、由奈は悠志の後を追って席を立った。茂が制止を掛けようとしていたが、紗耶香が彼の袖を掴み、首を横に振っていた。

「トイレの中まで、追い掛けていくなんて事は……」

「冗談言ってる時じゃないでしょ。小松さんは真剣だよ、じゃなきゃ……あんな表情は出来ないよ」

 由奈を止めようとした茂も、茂を制止した紗耶香も、その表情は固く、張り詰めていた。そして彼らは、二人が出て行った扉の向こうを見つめながら、その場に立ち尽くしていた。


* * *


「……ねぇ、鎚矢くん」

「…………」

 由奈が悠志を追いかけて廊下へ出ると、彼は窓枠にもたれ掛かりながら、外を眺めていた。名前を呼ばれた彼は、僅かに肩を上下させたが、視線は窓の外を向いたままで、由奈の方へ振り返ろうとはしなかった。

「もしかして、私、避けられてる?」

「……そんな事ないよ」

「嘘だよ。だったら何で、こっち向いてくれないの?」

「…………」

 悠志は答えなかった。いや、答えられなかったのだ。由奈には何の非も無い、それは分かっている。しかし、数日前から耳に入って来る、あの不愉快な噂話が真実だった場合、どういう態度に出れば良いのか……それが判断できなかったからだ。

「今、俺は凄く嫌な顔してると思う。だから、見られたくないんだ」

「嫌な顔って……どうして? やっぱり私、嫌われてるの?」

「だから、違うって!」

「分かんないよ、どうしてそんな……」

 由奈の追及から逃れるあまり、悠志の受け答えも次第に荒いものになっていった。体裁を整えている余裕がなくなり、本音が剥き出しになりつつあったのだ。そして彼は、遂に……禁忌としていたその名を、口に出してしまった。

「氷室……」

「え?」

「……口説かれてんだろ? 野郎にさ」

「そ、それは違うよ! 確かにアピールはされてるけど、そんな事ないんだよ!」

 今度は一転、由奈の方が悠志の追及から逃れる事となった。無論、彼女としては後ろめたい事は何も無いのだが、問われれば答えに窮してしまうのか。気が動転し、つい慌てたような語調になっていた。

「まぁ、口説かれてるってのは冗談だけど……歌、上手いんだってな」

「あ、う……うん、上手いかどうかは知らないけど、歌うのは好きだよ」

「だったら、歌えばいいじゃないか。奴のところでな。俺なんかに、遠慮は要らないからさ」

「……!!」

 自嘲とも取れるような一言が、悠志の口から紡がれた。それだけ、彼としても余裕を失くしていたという事なのだろう。が、それは余りにも不用意に過ぎたようだ。その回答に動揺した由奈は、言葉を失い……やがて嗚咽を漏らし始めた。驚いた悠志が振り返ると、彼女は大粒の涙を零しながら、彼の顔を睨んでいた。

「……どい……酷いよ。どうして、そんな事を言うんだよ……」

「な、何も泣く事は……」

 由奈のリアクションを見て、悠志は『自分の言葉で女子を泣かせた』と自覚した。いや、目の前で女子に泣かれたこと自体、初めてだったのだ。未体験の事態に彼は狼狽し、泣き止んで貰おうと懸命になった。この時、彼の頭の中からは氷室の名前など、完全に吹き飛んでいた。

「私……」

「え?」

「私、ユーフォが好きで、上手く吹けるようになりたくて、吹部に入ったんだよ。それを、一番最初に受け容れてくれたのは、鎚矢くんだった……なのに、何で信じてくれないの!?」

「あ、う……」

 その痛烈な一言に、悠志はもうタジタジであった。思えば、四月の時点で吹奏楽部は、廃部寸前の最低な状況だった。しかし、由奈はそれを物ともせず、期待に胸を膨らませながら、入部してきたのだ。それなのに……と、彼は今の自分の愚かさに、酷い嫌悪感を抱いた。

「白々しくなっちゃうけど……信じてたよ、お前がウチを辞めていく事は絶対に無いって。でも、氷室の野郎に言い負かされたのが悔しくて、意地になって、その……俺が悪かった、だから泣き止んで」

 ゆっくりと由奈の方へ向き直り、頭を下げながら紡がれた悠志の言葉に、嘘は無かった。彼は完全に自分の非を認め、由奈に対して辛く当たった事を、心の底から悔いていた。そして、悠志の謝罪を聞いた由奈の頬には未だ涙の跡が残っていたが、既に嗚咽は止まっていた。

「……本当、だよね?」

「あぁ、本当だ。俺は嘘が大嫌いだからな」

 悠志の返答を聞いて、由奈はパッと笑みを浮かべた。そして眦に残っていた涙を拭うと、ずいと前に出て一気に彼との距離を詰め、上目遣いになってその顔を覗き込み、小声で囁くように問い質した。

「なら、氷室くんの事も、もう気にしない?」

 その問い掛けに、悠志は一瞬だけ言葉を詰まらせた。しかし、それは『確約できないから』迷ったのではない。グッとアップに迫った由奈の顔を見て、思考が飛んでしまったからだった。が、彼はひと呼吸おいてから、笑顔で彼女の問いに答えた。

「約束する」

「……ん。だったら、コレ!」

「え? そ、その……な、何か恥ずかしいな」

 不意に、由奈が右手を差し出し、小指を立てていた。そして、悠志にも『手を出して』と目で訴え、催促している。どうやら彼女は『指切り』を求めているようだ。が、その仕草があまりに可愛らしく見えた所為か、悠志は戸惑ってしまった。

「約束、してくれるんでしょ?」

「ま、参ったなぁ……」

 その一言を紡いだ時、悠志は赤面していた。理由は分からなかったが、目の前に居る彼女の顔を眺めていると、自然と胸の内が熱くなり、心が弾むようになっていたのだ。しかし、彼がその事を自覚するのには、まだ幾許かの時間が必要なのだった。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る