§5
それから毎日の様に、氷室の来訪は続いた。悠志が暴れ出すという事態は流石に再現しなかったが、何度追い払っても諦める事なく、彼は放課後の第一音楽室を訪れ、由奈に対する熱烈なアピールを行っていた。
「君もさぁ、諦めが悪いって言うか。本人にその気が無いのは明らかなんだし……」
「それだけ真剣だ、って事っスよ」
呆れ顔の紗耶香が、音楽室の入り口をガードするように立ち塞がり、氷室を牽制していた。その向こうにある準備室の入り口は、茂が固めている。とにかく、悠志と由奈を氷室の前に出してはならない。それを合言葉に、彼らは懸命に頑張っていた。
「それより、君は『迷惑』という言葉を知らないのかい? こうしてガードを固めている間、僕らは練習が出来ないんだけど」
「それはそっちの都合だろ、知ったこっちゃないね」
茂の文句を涼しい顔で躱しながら、これまた氷室が返した。どうあっても、引くつもりは無いのだろう。これは長期戦を覚悟しなければならないかな……? と、茂も表情を曇らせ、行く先に不安を感じていた。
「そこの君、また来ているね。入部希望なら、話を聞くよ?」
と、ここで当間が割って入り、氷室を強引に追い返した。普段なら彼は、鎌田が来たときに練習に立ち会うだけのスタンスであり、こうして音楽室を訪れる事はまず無かった。しかし、連日必ず訪れる氷室のしつこさに辟易した部員一同の嘆願により、放課後の音楽室を訪れるようになったのだ。
「いやいや……彼の熱意は凄いね。これで何日目だい?」
「文化祭の翌日から、かれこれ一週間になりますね。しつこいにも程がありますよ」
「でも、ここまで懸命になるのなら、どうして今頃になって誘いを掛けるようになったんでしょうね?」
「それは……4月の時点で、私が吹奏楽部に入っちゃったから。本当なら立ち上げの段階から、参加して欲しかったって……」
当間と紗耶香たちが談義しているところへ、由奈が申し訳なさそうに割り込んできた。成る程、由奈が吹奏楽部の門を叩いたのは、入学式の翌日。その頃は氷室も、軽音楽部が存在しない事を知って落胆しており、和泉小から上がって来た音楽クラブのメンバーと共に部活の新規立ち上げを学校側に申請すべく、策を講じていたところだったのだ。が、その間に由奈は吹奏楽部に入部してしまっていた。彼らが小川という顧問を得るのは、その暫く後の事だったという訳である。
「……それこそ、そっちの都合じゃねぇか。知ったこっちゃねぇ? それはこっちのセリフだぜ」
窓の外へ視線を投げたまま、悠志が呟いた。その表情は窺えなかったが、かなり不機嫌であるようだ。然もありなん、本当であれば彼自身が氷室の前に躍り出て、その実力をもって彼の撃退に当たりたい処なのだ。しかし、それをやってしまえば此方の負けとなる。彼としては、非常にフラストレーションの溜まる状況だったのである。
「まぁまぁ、落ち着いて。小松さんにその気が無いのは、確かなんだし」
「こう毎日続くと、確かに腹も立つけどね。来たら追い返す、これを繰り返すしかないよ」
紗耶香が悠志を取り成し、それに茂が続く。見れば由奈も、うんうんと頷いている。彼らの言に嘘はない、何より由奈自身が吹奏楽部を去る事を、強く否定しているのだ。だから、心配は要らない筈。なのに……悠志は何故か、不安を感じていた。
(確かに、小松自身が否定してるんだから、心配すんのは間違いだと思う。けど……何か引っ掛かるんだよな)
不安……と云うより、苛立ちであろうか。この得体の知れない不愉快さを抱きつつ、悠志はそれを振り払うかのように練習に没頭した。しかし、その懸念は存外に早く、それも意外な形で、彼の前に立ちはだかる事になった。
* * *
「ねぇねぇ、由奈! 3組の氷室から告られたって、ホント!?」
「え!? そ、そんな訳ないじゃん、デタラメだよ」
休み時間、クラスメイトが由奈の元へやって来て、彼女に向けて発した第一声がそれだった。氷室が音楽室で何度も門前払いを喰らい、漸く姿を見せなくなったと思いホッと息をついた、その翌日の事である。あまりに唐突で、且つ迷惑なその噂話を、由奈は全力で否定した。
「誰から聞いたの、それ」
「氷室が自分で言ってるよ。由奈はもうすぐオレになびく、ってさ」
「……!!」
それは、氷室の作戦であった。彼は由奈を軽音楽部に誘うためにアピールしている事を、曖昧な表現でクラス中に触れて回り、話を拡散させていたのだ。彼が由奈を『軽音に誘っている』という事情を知らない者が聞けば、彼女に交際を申し込んでいると曲解されかねない言い回しだけに、その手の話題に敏感な年ごろの女子などは、すぐに食らいついて来るという訳である。
「じょ、冗談じゃないよ。氷室くんが言ってるのは、私を軽音に勧誘してるって話なんだよ」
「そうなのぉ? でも、それって口実かもだしぃ」
「やめて!!」
堪らず、由奈は耳を覆って大声を上げてしまった。その勢いに、クラスメイトは思わず口を噤んだが、悪びれる様子はなく、寧ろ照れ隠しのように見えたのか、却って誤解を招いてしまったようであった。
(本当に、冗談じゃないよ。こんな噂、鎚矢くんに聞かれたら……)
正面からの誘いには応じないとなれば、今度は搦め手で……そのように判断されるのを嫌ったのか。由奈はこの話を、悠志に聞かれる事を恐れた。聞かれたら困る、ではない。聞かれてはいけない、そう思ったのだ。そして、気が付けば彼女は、3組の出入り口から氷室の名を呼んでいた。
「ちょっと、氷室くん!」
「あ? ……よぉ由奈、どうしたんだ? そんな怖い顔をして」
涼しい顔で出迎えて来た氷室を見て、由奈はガックリと肩を落として項垂れた。あの噂話を拡散しておいて、本人がケロリとしていると云うのは、一体どういう事なんだ……と、怒りを通り越して呆れてしまったという感じであった。
「分かってる筈だよ。もうやめてよ、変な噂を流さないでよ」
「オレはお前にアピールしてるだけだ、悪い事はしてないぜ」
「その気は無いって言ってるじゃない! ハッキリ言って迷惑なの!」
全く悪びれる様子を見せない氷室の態度に、由奈の苛立ちは募った。自然と声が大きくなるが、それも無理からぬ事であった。しかし、そんな彼女の抗議を受けながら、氷室は尚も攻勢に出た。飽くまでも、自分の主張を押し通すつもりなのだろう。
「お前は、あんなトコに居ちゃダメだ。勿体ないよ」
「大きなお世話だよっ! とにかく、もうやめて! あんな噂話、鎚矢くんが聞いたら……」
「奴の事が、気になるのか?」
「……!!」
しまった……と、由奈は慌てて口を噤んだ。しかし、もう遅かった。氷室はそれまでの涼しげな表情を引っ込め、鋭い目つきで由奈の顔を覗き込んでいた。そして彼の返答は深く、彼女の胸に突き刺さった。
「気になるって言うか……聞かれたくないんだよ」
「ふぅん、そっか。じゃあ尚更、引く訳に行かないな。オレとしてはね」
「そ、そんな……!!」
と、由奈は氷室の言に抵抗して見せた。しかし、そこで始業チャイムが鳴ってしまい、二人の会話は強制的に中断される事となってしまった。
「あ……」
「ホレ、先生来ちまうぞ……とにかく、オレはお前を諦めるつもりは無い。それは覚えておいてくれ」
氷室の発言は、由奈を軽音楽部に誘う事が目的なのか、それとも、交際を申し込むつもりなのか、判断しかねる曖昧な表現になっていた。しかし、どちらにしても、由奈としては受け容れられない話である。それに……
(いつの間にか、鎚矢くんも話題の中に……拙いよ、何とかしなきゃ!)
思わず口に出してしまった悠志の名を聞いて、氷室の表情が変わった時、由奈は後悔していた。しかし、事態は既に取り返しのつかないステージへと進んでしまっていたのだ。まさに地雷を踏む格好となって窮地に立たされた由奈は、頭を抱えながら、フラフラと教室へ戻っていった。
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