§4
「ふぅ……説明、してくれるかしら?」
「……理由を聞いたら、先輩だってアイツを引っ叩きたくなると思いますよ。シゲル、お前もな」
未だ肩で息をする悠志の拘束を解いた茂が、やれやれと言いながら腕を回していた。余程の勢いだったのだろう、彼の額にはうっすらと汗が滲んでいた。そして彼は、氷室が去っていった方向を眺めながら、ゆっくりと口を開いた。
「確か彼は、交渉に来た……と言ってたな」
「ええ。でも、本人が居ないからと……」
茂の呟きに、紗耶香が応じた。しかし彼女も、事情を把握できていない為か、氷室の言葉をオウム返しするのが精いっぱいのようであった。そして二人は揃って、悠志の顔を覗き込み、回答を待った。
「あの野郎、小松を攫いに来たんですよ。軽音に引っ張り込む為にね」
「なっ……」
「何ですって?」
悠志の回答を聞いて、紗耶香と茂の顔が気色ばむ。然もありなん、彼らは漸く4人でアンサンブルを組み、表舞台に立つ為の目処が立ったばかりのところなのだ。一人でもメンバーが欠ければ、その時点で彼らは目標を果たせなくなってしまう。それは、許されざる事であった。
「……随分と、乱暴な事をするね」
「だろ? だけどその話は昨日、小松がキッパリと断って、終わってた筈なんだ。なのにあの野郎、性懲りもなく……」
「小松さんが、何と言って断ったかは知らないけど……彼は、一回断わられたぐらいじゃ諦めなかった、って事でしょうね」
「俺、聞きましたよ。さっきの話は聞かなかった事にする……小松はハッキリと、そう言ってたんです」
悠志の返答を聞いて、紗耶香は何やら頷いていた。由奈がハッキリと、氷室の誘いを断った。これは間違いない事なのだろう。しかし氷室は今日も由奈を勧誘するつもりで、此処に現れた。それを悠志が追い返そうとした事で諍いが起こり、先程の騒ぎに発展した……と、彼女はそこまで理解したようだ。
「……OK、大体の事情は分かったわ。でも、殴るのはダメだよ」
「そりゃあ、ちょっとやり過ぎたかなとは思いますけど……殴られて当然の事を、アイツはやろうとしてたんですよ?」
紗耶香の言葉を受け、悠志は『納得いかない』と云った風に反論した。然もありなん、元はと言えば、ケンカを吹っ掛けて来たのは氷室の方で、悠志はそれを退けようとしたに過ぎない。彼としては、腑に落ちない判定であろう。しかし、それに対する紗耶香たちの見解は違っていた。
「うん、言いたい事は分かるよ。でも鎚矢君、相手を暴力で屈服させようとした時点で、世間的には負けなんだよ」
「先輩の言う通りだ。それに、もし彼を殴り飛ばしていたら、取り返しのつかない事になってたぞ」
「……ど、どういう事だよ?」
未だ頭に血が上ったままの悠志には、二人の言う事が理解できないようであった。そんな彼を見て、紗耶香と茂は互いに顔を見合わせ、小さく頷いた後、ゆっくりと説明を始めた。
「彼は殴られた事をチャラにするための、条件を出すつもりだったに違いないよ。つまり、その事を黙ってる代わりに……」
「小松さんが彼の誘いを、断れないようにするって訳よ。相手を怒らせて罠に嵌め、弱みを握る……ヤクザが良く使う手段ね」
「なっ……!!」
二人から説明を受けて、悠志は愕然とし、言葉を失った。そして、考えてみればあの時、先に氷室を煽り、戦端を開いたのは自分の方だったじゃないか……と気付いた彼は、自分の迂闊さを呪い、項垂れていた。
「……まぁ、次から気を付ければ大丈夫だよ。彼が勧誘を掛けて来ること自体は、好ましくないけどね」
「小松が居ないと困ると云うのは、僕らの事情だからね。誘いに乗るかどうか、決めるのは彼女自身なんだし」
「あ、あのー……私、どうかしましたか?」
「……!!」
そこへ、日直の仕事で遅くなっていた由奈が到着し、会話に割り込んできた。彼女はどうやら、茂の発言が始まった所から話を聞いていたらしく、何故に悠志が項垂れているのかは分からなかったようだ。しかし、自分の事が話題になるとすれば、その理由の見当はつく。彼女は恐る恐る、紗耶香に問い掛けた。
「もしかして、氷室くん……来てたんですか?」
「あ、うん、さっきね。もう帰って貰ったけど……」
ばつの悪そうな顔をしながら、紗耶香が答えた。茂も、憮然とした表情を浮かべている。そして悠志は……項垂れたまま肩を震わせ、由奈から顔を背けるようにしていた。
「あの……鎚矢くん?」
「……ッ!!」
「あっ! つ、鎚矢くん!」
遂に、居たたまれなくなったのか。悠志はポケットから取り出した準備室の鍵を放り投げ、逃げるように走り去った。由奈は慌ててその後を追おうとしたが、紗耶香に制止されて足を止めた。彼女は暫し、悠志が走り去った方向と、紗耶香の顔を交互に見ながら呆然としていたが、俯いたまま首を横に振る紗耶香の悲しそうな表情を見て、この場で何があったのかを悟った。
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