§3

「……あのー、当間先生。いま拙いですか?」

 いつものように、音楽準備室の鍵を借りるために当間の元を訪れた悠志は、意外な光景に出くわしていた。いや、音楽の教科担当同士が話し合いをしているという、ごく当たり前の事なのであるが……悠志はどうしても、違和感を覚えずにいられなかった。

「あぁ、済まない。ちょっと待ってね、いま鍵箱開けるから」

「……?」

 そう言いながら席を立つ当間と、話し相手――小川の顔を、悠志は怪訝そうな目つきで見比べていた。いや、普通に話をしているだけならば、特に気に掛けるような場面ではないのだが……何故かその時、当間は不機嫌そうな表情を浮かべていたのだ。

「何です、アレ?」

「あ、いや……それより鎚矢君、昨日の事だが。軽音楽部の氷室君と、何かあったのか?」

「へ? ……あぁ。野郎、小松をデートに誘おうとしたらしいです。振られたようですけどね、思いっきり」

 その回答を聞いて、当間は『ふぅん……』と唸りを上げた。そして、席上の小川の方をチラリと見て……彼は再び悠志の方へ向き直り、笑みを浮かべた。

「何だ、そういう事だったのか。いや、さっき小松君から……あ、いやいや、こっちの事。気にしなくて大丈夫だからね」

「あー、小松と氷室の揉め事だから、ド……小川先生に文句を付けてたんですね。もう、ガツンと言ってやってください。マジで困ってますから、小松の奴」

 悠志がそう告げると、当間は『任せておきなさい』と言いながら鍵を渡し、背を向けて自分の席へと戻っていった。その様を見送っていた悠志は、やはりその光景に違和感を覚えていた。

(おかしいな……ああいう話の場合、担任に相談するのがセオリーだろ。何で部活の顧問に……?)

 そう、悠志の疑問はまさしく、その点にあったのだ。氷室が由奈と話をするために、彼女が一人になるタイミングを狙って、音楽室まで追ってきた……これはまだ理解できる。しかし、問題はその内容だ。プライベートな話を持ち掛けられて、その苦情が何故、部活の顧問である当間の元に行くのかが分からない。加えて、誘った側の氷室が在籍している部活の顧問が絡んで来ると言うのも、妙な話である。

(何だかキナ臭いぜ……小松の様子も、何か変だったしな)

 昨日から抱いていた疑念が、今になって最悪の形となって具現化したような気がして、悠志は焦燥に駆られた。しかし、それは杞憂であるかも知れない。頼む、当たらないでくれ……そう願いつつ、彼は4階までの道のりを急いだ。


* * *


 渡り廊下の角を曲がり、西側の突き当りへ目をやると、そこにはキョロキョロと辺りを窺う人影があった。男子の制服を着用しているが、茂ではない。放課後のこの場所へ足を運ぶ男子生徒と言えば、今のところは自分と、茂以外に居ない筈。という事は……と、悠志はその人影を睨みながら、ずんずんと音楽室へ向けて歩を進めた。

「……何しに来た? 俺らはお前に用なんか無い、そう言った筈だぜ」

「あ? ……生憎、そっちに無くてもこっちにはあるんだよ。話し合いの邪魔をしないでくれるかな」

 悠志が予想した通り、そこに居たのは氷室だった。昨日と同じように、由奈が一人で此処に来るのを待っていたらしい。挨拶も略していきなり始まった口論の中、両者の視線の間に火花が飛ぶ。

「デートの誘いなら、昨日キッパリと断られてたじゃねぇか。しつこい男はモテねぇって、相場が決まってるもんだぞ」

「はぁ? ……由奈が何と言って誤魔化したかは知らないが、オレの目的はそんな事じゃねぇ。言ってみりゃ、スカウトだよ」

「スカウト? ……ははぁ。テメェ、小松を引っこ抜こうって魂胆かよ」

 悠志は漸く、昨日から抱いていたモヤモヤの正体に気付いて、驚くと同時に安堵していた。何故ならば、彼は由奈が吹奏楽を辞めてしまう事など絶対にありえないと、信じていたからである。

「生憎だったな、アイツは此処を辞めたりしねぇよ。吹奏楽に強い憧れを抱いて入って来たんだからな」

「憧れ、ねぇ……お前、由奈の歌声を聴いた事があるのか?」

「歌? 去年までは合唱やってたって聞いた事はあるけど、それがどうかしたのかよ」

 その回答を聞いて、氷室はオーバーなリアクションで嘆くような真似をし、ナンセンスだ! と言い放った。

「由奈には、あんな小ぢんまりとした音楽は似合わない。彼女はもっと、大きなステージで輝くべきなんだ」

「大きなステージだぁ? そりゃあ、あのキンキンとやかましい、下品で野蛮な音楽の事かよ」

 氷室の言に対する悠志の反論は、彼らしからぬ不用意なものであった。無論、普段の彼ならば、斯様に他者の音楽を侮辱する発言は絶対にしない筈である。しかし、売り言葉に買い言葉という奴であろう。増して、この場合は由奈という重要なファクターを賭けての真剣勝負。反抗しない訳にはいかなかったのだ。

「随分な言い様だなぁ。だったら、吹奏楽だって下品だろ。野球場でやってるアレなんて、ただの爆音でしか無いじゃないか」

「舞台演奏と、野球応援を一緒くたにすんなよ。アレは鳴らしてナンボ、聴かせる為の音楽じゃねぇ。突撃ラッパと同じだ」

 一方の氷室も負けじと反撃し、吹奏楽を侮辱する発言で悠志を煽り始めた。しかし悠志は、その指摘を軽く受け流し、氷室の言葉を真似て『ナンセンスだ』と一笑に付した。そして……

「小松が選んだのは、繊細さが命の吹奏楽だ。お前らがやってる、派手なだけのチャラい音楽じゃないんだよ。残念だったな」

 悠志は、この一言で氷室を説き伏せ、退散させるつもりだったようだ。その仕草は外連味タップリで、既に勝ち誇ったような表情を浮かべていた。しかし、それを受けた氷室は不敵に笑いながら、悠志に痛烈なカウンターパンチを当てて来た。

「その、派手なだけのチャラい音楽って奴にさぁ……ボロ負けしたのは、何処のどいつだったかな?」

「……ッ!!」

 その一言で、悠志の怒りは一気に頂点まで達した。先日、文化祭で受けた屈辱……それは、絶対に口に出してはいけない禁忌だったのだ。刹那、悠志の左手が氷室の胸倉を掴み、拳を握った右手は高々と振り上げられていた。まさに『逆鱗に触れた』という奴であろう。しかし、氷室はその勢いに怯むどころか、逆にうっすらと笑みを浮かべていた。さぁ殴れ、そうすれば由奈は此方のもの……彼はそこまでを見越したうえで、故意に悠志を怒らせる策に出たのだ。が、その時……

「ちょ、ちょっと!」

「何やってんだ、やめろ鎚矢!」

 丁度、遅れて到着した紗耶香と茂が割って入り、悠志の拳は寸での処で食い止められた。それでも悠志は氷室への攻撃を止めようとはしなかったが、茂に羽交い絞めにされ、更に氷室との間には紗耶香が割り込んでいた為、完全に動きを封じられる形になっていた。

「……君は?」

「やれやれ、いちいち自己紹介が必要なのかい……軽音の氷室っス」

 掴まれた所為で崩れた襟の形を整えながら、氷室は呆れたような表情を紗耶香に向けた。名札の色で上級生と分かったからか、その語尾には申し訳程度に丁寧語が付け加えられていた。

「軽音の……私は2年の渡部、まずは後輩の無礼をお詫びするわ。御免なさいね」

「先輩! こんな奴に、謝る事は無いですよ!」

「君は黙って! ……で、一体何があったの? ちょっと……いや、かなり危険な感じだったけど」

 未だ興奮状態にある悠志を抑え、紗耶香は努めて冷静に振舞った。無論、彼女としても軽音楽部に対する印象は良いものでは無く、寧ろ最悪と評しても差し支えのないレベルなのだが、部員同士の諍いが生じており、此方が相手に暴力を振るおうとしているとなれば、話は別である。

「オレは交渉に来たんだけど……本人抜きじゃ話にならない、出直すよ」

 由奈が姿を見せなければ、自分がここに居る意味はない……そう判断したのか、氷室は踵を返して立ち去ろうとした。紗耶香と茂は『交渉』の内容については聞いていないので、何故に彼が此処に来ていたのか、その理由が分からずに釈然としない気分になっていた。が、そこで悠志がまたも氷室に罵声を浴びせてしまった。

「ふん。その本人に断られてんだから、交渉の余地なんて無いだろうが。テメェはもう振られてんだ、気付けよバカが」

「えーっと、渡部さん……でしたっけ? どうも、後輩の躾がなってないみたいですねぇ。あ、教育してる余裕が無いとか?」

「……大きなお世話よ」

 氷室のあからさまな煽りを受けて、紗耶香は唇を噛んだ。しかし彼女は、彼の策に気付いていた為、じっと耐えていた。悠志を抑え込んでいる茂も、悔しそうな視線を氷室に向けていたが、やはり反撃しようとしない。悠志に至っては、握りしめた拳をわなわなと震わせていた。そして、氷室はそんな彼らを一瞥して背を向け、去り際にまたも悠志に対して煽りを加えた。

「なぁ、鎚矢君よ。吹奏楽ってのは、繊細さが命なんだっけ? そんな音楽をやってる奴が、暴行未遂とはね。お笑いだな」

「こっ、この野郎!!」

「やめろ鎚矢、彼の言う事は間違ってない!」

 茂に羽交い絞めにされたまま、悠志はそれを振り切ろうとして暴れだした。紗耶香が慌てて正面に回り、抑え込まなければ、恐らく彼は氷室を追撃し、今度こそ殴り掛かっていたであろう。

「待てよ、この野郎! ……おいシゲル、どうして止めるんだ! 先輩も、どいて下さいよ!」

「落ち着け、鎚矢!」

「そうよ鎚矢君、悔しいけど……何も言い返せないよ」

 紗耶香と茂が悠志を抑えている間に、氷室は階段を下りて姿を消していた。その様を見て、漸く諦めたのか。悠志は振り上げていた拳を下ろし、暴れるのを止めた。

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