§2

「聞こえなかったか? ウチに来ないかって言ったんだよ。こんな部、とっとと辞めてさ」

「……こんな部? それって吹奏楽部の事? ちょっと、失礼なこと言わないでよ」

 名前で呼ばれた事も腹立たしかったが、吹奏楽部を『こんな部』呼ばわりされた事の方が、由奈としては許せなかったらしい。彼女はずいと一歩前に出て、氷室の鼻先に指を突き付けて、彼の言を否定した。

「確かにウチは、最低限の人数しか居ないから、弱々しく見えるかも知れないよ。でもね、モチベーションは凄く高いんだよ! さっきの言葉は取り消して!」

「ふぅーん……そっか、そりゃ悪かった。でもな、人数だったらウチも同じだし、モチベーションの高さだって負けてないぜ」

 一方の氷室としても、自分たちで立ち上げた軽音楽部の実力には自信があるらしく、本来の演奏形態を成す事が出来ない悠志たちを見下した発言を取り消そうとはしなかった。しかし、彼の真意は吹奏楽部を貶める事では無い。話が横道に逸れたまま、いつまでも下らない言い争いを続けている訳にはいかないし、このままでは氷室と悠志たちが鉢合わせしてしまう。それは拙いと考え、由奈は自分から本来の話題にシフトしていった。

「……どうして私を? ギターも、キーボードも弾けないのに」

「欲しいのは、その声だよ。オレは忘れちゃいないぜ、『和泉小の歌姫』と呼ばれたお前の実力をな」

 その切り返しに、由奈は思わずたじろいだ。そう、彼女は去年の和泉小合唱クラブの部長を務め、その歌唱力には目を見張るものがあったのだ。合唱クラブ自体のレベルは並であったが、由奈の率いる昨年のメンバーは、ソロパートがある楽曲を自由曲に選んで臨んだコンクールに於いて、好成績を収めた。ソロを受け持ったのは由奈であり、それが大きな加点となった事が高く評価され、ゆえに彼女は『和泉小の歌姫』と呼ばれるようになった。そして、その成績が学校で発表された際、彼女たちは壇上にて歌声を披露した。その時の様子を、当然ながら氷室も観ていた……という訳である。

「が、合唱とロックじゃカテゴリー違うし。とにかく、私にその気は無いから」

「ナンセンスだ。あの歌声を封じるなんて、音楽に対する冒涜だぜ」

 否定を続ける由奈に対し、氷室の弁舌は徐々に熱を帯び始めていた。尤も、それで由奈の気持ちが揺らぐかと言えば、答えは『否』であろう。が、氷室も全く引く様子を見せず、交渉は膠着状態に陥るかに見えた。しかし、その時……

「誰だよ、アンタ」

「……あ?」

 氷室の背後から、悠志が問いかけて来ていた。氷室の勢いに圧されて俯いていた由奈は、その接近に気付かなかったようだ。

「つ、鎚矢くん!」

「ツチヤ……? あぁ、君があの『英雄』かぁ。小川のババァを吹奏楽部から追い出したって話、聞いてるよ」

「……質問に答えろ。誰なんだよ、アンタ」

 悠志と氷室は、互いに初対面である筈だった。しかし、既に二人の間には不穏な空気が流れ始めていた。氷室は悠志が吹奏楽部のメンバーである事を由奈の発言から見抜き、冷ややかな態度を取っていた。そして、悠志は眼前の男に得体の知れぬ不快感を覚えており、コイツは相容れぬ存在……つまり『敵』であると、直感していたのである。

「氷室くん、さっきの話は聞かなかった事にするよ。だから、もう帰って。私に構わないで」

「……氷室? おい小松、コイツもしかして、あの時の?」

「う、うん……」

 弱々しく答える由奈を見て、悠志の氷室を見る目つきが変わった。それを受けて氷室は困惑し、どういう態度に出るべきかと迷っていた。

「軽音の奴が、ウチに何の用だよ? 言っとくが、俺たちはお前らに用なんか無いぜ」

「……参ったね、こりゃ。ここじゃ部員と話をするのにも、オフィシャルな理由って奴が無いとダメなのか?」

「ひ、氷室くん! 今、ウチの部はコンテスト出場を間近に控えてて、ピリピリしてるんだよ。お願いだから、もう帰って!」

「コンテスト? ……ふぅん、そうなんだ。でもさぁ、そんなに余裕がない様子じゃ、ミスるのがオチだぜ?」

「氷室くん!!」

 氷室は完全に悠志を見下し、既にマウントポジションを取っていた。その様を見た悠志は怒り心頭であったが、ここで攻撃的な態度に出れば、今度はそれをネタにして煽って来るに違いない。それが分かっていたからか、彼は冷静な対応に努めていた。

「ところで……さっきの話ってのは、何の事だ?」

「な、何でも無いんだよ。ね、氷室くん?」

 祈るような視線を氷室に向けつつ、由奈は懸命に先刻の交渉を隠蔽しようとした。それが悠志の耳に入ってしまったら、彼は間違いなく強硬な態度に転じ、氷室を退けるに違いない。そうなれば、吹奏楽部と軽音楽部の関係は最悪のものとなってしまう。それだけは避けなければ……と、彼女も必死だったのだ。

「……OK、今日の所はこれで引き揚げるよ。また来るぜ、由奈」

「そ、その呼び方しないで!」

 頬を紅潮させて怒る由奈に対し、氷室は背を向けながら手を振るだけだった。そして、彼は悠志に対して不敵な笑みを浮かべつつ、悠然と去って行った。

「おい小松、あの野郎に何を言われたんだ?」

「あ、うん……な、なんでも……」

「……ない、訳が無いだろ? わざわざ敵地に乗り込んできて、挨拶だけして帰る奴が居るもんか」

「う……」

 悠志の指摘は的を射ていた。彼の言う通り、いま吹奏楽部と軽音楽部は交戦状態の敵同士。氷室は言わば、敵の尖兵という訳である。あからさまな攻撃は無かったにせよ、何も無かったという事はあり得ないだろう。

「ふ、二人でどっか遊びに行こう、って……も、勿論、断わったよ!?」

「……ふざけた真似をしやがる。今度来やがったら、只じゃおかねぇ」

 由奈は咄嗟に嘘を吐いた。が、どうやら悠志は彼女の言を信じたようで、氷室を単なるチャラ男と評するに留まったようだ。しかし、今日の所は誤魔化せても、いつかまた彼はやって来て、同じ事を繰り返すだろう。そして、そのうちに悠志たちの知る処となってしまう……そうなれば、もはや争いは回避できまい。

(当間先生に相談して、小川先生から彼を止めて貰うよう頼んで……小川先生が取り合ってくれるかどうか、微妙だけど……)

 まさか、こんな展開になるなんて……と、由奈は頭を抱えた。先日のステージで軽音楽部に差を付けられたと判断した悠志は、いま非常に不安定な状態となっている。そこへ先刻の問題が浮上すれば、彼だけでなく茂や紗耶香まで巻き込んだ、最悪の事態になりかねない。そうなる前に、氷室を説得しなければ……そう決心し、由奈はキュッと唇を噛み締めた。

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