第二章 好敵手たち

§1

 入学式から一か月ほどが経過し、ゴールデンウィークも過ぎたある日の事。悠志は漸く楽器を付けての練習に移行した由奈の指導に当たっていた。本来ならばこれは上級生である紗耶香の役回りなのであるが、トロンボーンからの持ち替えで実演が可能である点を鑑みて、悠志が適任という事になったらしい。

「んー……だいぶ鳴るようになったけど、音の出だしが雑だな。もっとアタックを丁寧にしてみ?」

「はい!」

 自分だけが未経験であり、皆の足を引っ張っているという負い目があるのか。由奈は真剣に悠志のアドバイスを聞き、それを懸命に実施していた。また、悠志も軽い口調で接してはいるが、かなり熱の入った指導となっており、紗耶香や茂が休憩時間を告げるのを躊躇う程であった。

「凄いね、あの二人。ガチで特訓モード入っちゃってるじゃない」

「鎚矢の熱意も、小松の向上心も半端じゃないですからね……どうしましょう、そろそろブレイク掛けますか?」

「その方が良いかな。もう1時間以上もあの調子だからね」

 と、茂の返答に紗耶香が苦笑いを浮かべたその時、音楽準備室から彼らを呼ぶ声が聞こえた。それに気付いた茂が振り返ると、何やら見慣れぬ男性が手招きをしていた。

「先輩、あれ誰ですか?」

「あー、当間先生だ。ドレミよりも古い音楽の……って、まさか!?」

 紗耶香はハッと目を見開いた。そう、小川は相変わらず音楽室に顔を出さなかったので、吹奏楽部は事実上、顧問不在の状態が続いていたのだ。が、吹奏楽部の練習場所に、音楽教師が来ているという事は、つまり……と考えたのだろう。そして、その推測は正解であった。紗耶香が慌てて準備室の方へ走っていくと、教師――当間ははにかみながら口を開いた。

「やぁ、やっと気付いてくれたね。あまり熱心なんで、中に入るのが躊躇われてね」

「あ、あの……先生、もしかして?」

「だいぶ待たせてしまったようだけどね。今日付けで此処の顧問になったんで、挨拶に来たんだよ」

 そう言いながら、当間はポリポリと鼻の頭を掻いていた。が、紗耶香は驚き、絶句していた。部活動の顧問が転任や退職以外の理由で年度途中に交代するなど、普通は在り得ない事だ。小川が転出した等という話は聞いていない、なのに何故……? と、軽いパニック状態に陥っていたのである。

「そこまで驚かれると、なんだかやり難いなぁ」

「あ、スミマセン。でも、ド……小川先生はどうなったんです? 辞めたとは聞いてませんが」

「あぁ。彼女はほら、4月の初めに大問題を起こしちゃっただろ? それで解任になったんだ。でも、その後に誰が入るかで、散々揉めてね。結局、音楽教師が良いって事になって、サッカー部の副顧問だった僕がこっちに移されたんだよ」

 その件については1年生たちから聞いていたが、まさか本当に解任されてしまうとは……と、紗耶香は唖然としていた。が、ハッと我に返った彼女は、早速このニュースを皆に知らせなくてはと考え、当間を促して音楽室の中へと戻っていった。

「注目、注目ー! 新しい顧問の先生が来たよ!」

「え?」

「新しい、顧問?」

 紗耶香の声を聞いて、夢中で楽器と格闘していた悠志と由奈が漸く顔を上げた。二人とも口元に赤い跡を付けており、如何に集中して練習していたかが良く窺えた。

「えー、初めまして。小川先生に代わって、吹奏楽部の顧問になりました当間です。よろしくお願いします」

 ペコリと頭を下げ、簡単に挨拶する当間を見て、悠志は『ふぅん』と鼻を鳴らした。あまり興味が無い、と云った風である。が、無理もない。彼は今の和泉中に、吹奏楽の指導が出来る教員が一人も居ない事を知っていたのだ。まぁ、小川よりはマシというレベルか……とでも考えているのだろう。実につまらなそうであった。

「音楽の先生なんですか?」

 その質問をしたのは由奈だった。彼女は何の懸念も不満も無く、当間を受け容れるつもりであるらしい。

「はい、音楽教師です。ピアノ専攻だから、管楽器の事は良く分からないんだけどね」

 堂々とそう言い切る当間を見て、茂と紗耶香は明らかな落胆の表情を浮かべた。悠志も納得してはいない様子だが、最初から過度の期待をしていなかった為であろう。それほどの拒否反応は見せなかった。唯一、吹奏楽の経験が無いに等しい由奈だけが、他の3人の顔を見てオロオロとしていた。が、それを制するかのように、当間は言葉を続けた。

「……そんなにガッカリしないで。僕に吹奏楽の指導は出来ないけど、ちゃんと適任者を連れて来たから」

「え?」

 あまりにも意外な一言を聞いて、悠志たち4人はほぼ同時に声を上げた。その反応を見て、当間は準備室に向かって手招きをした。どうやら、誰かを待機させていたらしい。

「こちら、鎌田君。僕の後輩で、現役のチューバ奏者です」

「……え!?」

「えーと、鎌田です。当間先輩のアシストとして、君たちのコーチを任されました。宜しくお願いします」

 ペコリと頭を下げる鎌田を見て、悠志たちは当惑した。顧問とは別に指導者が付くなんて、そんなのアリなのか? と疑問に思った為である。

「つまり……当間先生は裏方で、鎌田先生が指揮を振るって事ですか?」

「そういう事だね。本業があるから毎日は来られないけど、居ないよりはマシだと思うよ」

「本業?」

「ああ。普段は陸上自衛官をしていてね、音楽隊に居るんだよ」

 皆を代表して紗耶香が鎌田に質問をしていたが、その回答が余りにとてつもない内容だった為か、一同は思わず言葉を失ってしまった。然もありなん、陸自音楽隊と云えば、国際的な式典などで演奏する事が要求される、プロ中のプロだ。その一人が、自分たちの指導に来てくれる……と、悠志をはじめ皆の目の色が変わった。

「す、すげぇ! 陸自のコンサートなら観に行った事あっけど、めっちゃレベル高いんだぜ!」

「ははは……お褒めにあずかり光栄、ってトコなんだろうけど。技量イコール指導レベル、って訳じゃ無いからね」

 すっかり興奮状態となった悠志を抑えるかのように、鎌田はニッコリと笑った。その横で、当間も安堵の表情を浮かべていた。優秀な指導者が居れば安泰という訳ではないが、この時点で『顧問の仕業で部員が辞めていく』という、最大の不安要素が消滅したのだ。それだけでも、当間の功績は大きいと言えるだろう。

「と、いう訳で。まだ具体的な活動方針が無いから、君たちと話し合いながら決めていくつもりなんだけど。いいかな?」

「異議なし!」

 暫定の部長である紗耶香がそう答え、悠志たちも各々に頷いていた。顧問不在でも何とかなると大見得を切っていた彼らだが、やはり不安はあったのだろう。それが一気に払拭された事で、その瞳は爛々と輝いていた。

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