§6
「失礼しまーす!」
放課後。悠志はまたもノックなしで、職員室の扉を開けた。小川はその時、二人の女子生徒と話をしている最中だった。学年カラーは、赤。どうやら3年生のようだ。
「……悪いけど、後にして頂戴。ちょっと取り込んでるの」
流石に、部活以外の事で絡むのは拙いと判断したのか。悠志は一歩引いて、会話が終わるのを待つ事にした。しかし、直後に聞こえてきた『退部』というワードに反応した彼は、思わずその会話に割り込みを掛けた。
「ちょっと待った! すみません、もしかして吹奏楽部の先輩ですか?」
「えっ? う、うん、そうだけど……」
いきなり横合いから声を掛けられた女子たちは、驚いて話を中断してしまった。が、それを見た小川は、眉一つ動かす事なく悠志を制止しに掛かった。
「鎚矢君、彼女たちは退部届を出しに来たの。止めても無駄よ」
「いや、止めるつもりは無いよ。ただ、絶妙なタイミングだなぁと思ってさ」
何? と、小川の表情が曇った。そして彼女は、悠志の背後にいる男子の顔を見て、アッと声を上げた。
「なぁ、アンタさぁ。コイツになんて言ったって?」
「僕は確か、吹奏楽部では新規入部者を受け付けてないって聞きましたよ。おかしいですね、彼は入部できたのに。何で、僕はダメなんですか?」
「そ、それは……」
明らかに、小川は動揺していた。然もありなん、同じ事柄について、一方は是で、もう一方は非であるという、矛盾した発言を指摘されたのだ。教師という立場上、これは非常に拙い展開であろう。そうして彼女が言い訳に困っているところへ、更なる追い打ちを掛けるように、先刻まで会話をしていた3年生が割り込んできた。
「ははぁ……私たちを退部させちゃえば、その時点で部員は3人を割る。つまり、君たちが入部届を出しに来たのがその後だったと言えば、辻褄が合うって訳だね。だから慌てて私らのトコに来て、新入生が入る見込みは無いから……なんて言ってたんだ」
「じゃあ先輩たちは、自分でそれを出しに来た訳じゃないんですね?」
悠志の問い掛けに、3年生の二人は無言で頷いた。そのやり取りを、周囲に居た教員たちは呆然としながら眺めていたが……程なくしてざわめきが起こり、非難の視線が小川に集中した。由奈と茂に関しては、言わずもがなである。そして、これ以上は攻撃も追及も無用と判断した悠志は、勢いよく由奈と茂の入部届を、小川の机に叩きつけた。
「これで、俺たち1年生だけで3人。プラス、ルール違反ふたつ……そっちの負けだよ。吹奏楽部は存続、文句ないよね?」
「……クッ!」
最早、言葉は無かった。いや、発言権が無かったと云う方が正解かも知れない。此処まで罪状が明るみに出ては、言い逃れも出来ないだろう。ともあれ、小川は由奈と茂の入部を認めざるを得なくなり、吹奏楽部の存続もこの時点で確定したのだった。因みに、この展開を見ても3年生ふたりの意思は変わらず、彼女たちは退部届を取り下げる事なく、その場を去っていった。
* * *
「……それで、ドレミをやり込めちゃったの!?」
職員室での大立ち回りの後、悠志たちは音楽準備室に顔を出した紗耶香に、先の顛末を伝えた。それを聞いた彼女は目を丸くして驚き、言葉を失っていた。
「でも、あれだけ酷い事をしておいて、よく今まで問題にならなかったね?」
「問題にならなかったんじゃなくて、問題になる前に黙殺してたんだよ。教師という立場を利用してね」
由奈の疑問に、茂が応えた。彼も小川に言いくるめられて、一度は入部届を取り下げてしまった被害者だけに、その悪辣さは身にしみて分かっているのだろう。
「まぁ、これでドレミは大人しくなるだろ。上手く行けば、顧問の交代って事にもなるんじゃないかな」
「それは……都合よく、手の空いてる先生が居ればね。顧問って、後任が見付からない限りは辞められない筈だから」
悠志の呟きに呼応した、紗耶香の言葉は的を射ていた。そう、部活動が存在する限りは顧問も必須となるため、それを降りるタイミングというのは限られてくる。転任などで学校を去るか、年度替わりを待って、別の教員と交代するか。いずれにせよ、在任中に辞する事は基本的に認められていない。オマケに、教員には原則として、何処かしらの顧問を担当しなくてはならないという『縛り』が存在するため、適任とは言えない人事であっても、避ける事は出来ないのだ。それゆえに小川も、あのような策を講じて、逃れようとしていたのである。分からなくもない話だが、教育者として許される行為ではない。
「ま、とにかく。明日からは私、来る必要ないよね」
「えー? 先輩、ほんとに辞めちゃうんですか?」
紗耶香の呟きに、由奈が控えめな抗議をした。が、それに対して一瞬だけ申し訳なさそうな表情を浮かべた後、紗耶香は無言で頷いた。3人目が入ったら、その時点で辞める。そう宣言した筈だ、と。
「これでドレミは居なくなるかも知れない、けどね。吹奏楽の事を全く知らない顧問なら、誰が来たって同じだからね」
その一言を聞いて、由奈は返答に困ってしまった。成る程、音楽の経験に乏しい他の教科担当が顧問になったとて、まともに吹奏楽部の指導が出来るとは思えない。それでは参加する意義など無いと考えるのも、当然と言えるだろう。見れば、茂も俯いたまま、黙り込んでいる。言いたい事はあるが、新参者が出しゃばる場面では無いだろうと遠慮している感じだ。しかし、悠志だけはハッキリと、紗耶香に対して意見していた。
「先輩。幾ら何でも、ちょっとネガティヴ過ぎないですか?」
「言いたい事は分かる。でも、こんな酷い所に1年も居たら、悲観的にもなるよ」
「その、酷い所って奴を何とかしようとしなかったから、そのまま1年も過ぎちゃったんじゃないかなぁ」
「……君なら、何とか出来るっていうの?」
ズケズケと遠慮のない物言いをする悠志の態度にカチンと来たのか、紗耶香の目線が鋭くなった。しかし、それに怯む事なく、悠志は堂々たる態度で応えていた。
「出来るとは言わないです。でも、何もしないで諦めちゃうのって、俺は嫌なんですよね」
涼しい顔でそう言い切る悠志に、紗耶香は強く反論しようとした。が、それを制するかのように、由奈が割って入った。
「あのぉ……先輩、私も鎚矢くんと同じ意見です。上手く言えないけど、何とかしようっていう姿勢が大事なんだと思います」
どうやら由奈は、悠志に同調するスタンスのようだ。流石は小川の存在を知りながら、入部して来ただけの事はあると云う所だろうか。控えめな物言いではあったが、その根底には強い意志の表れが見て取れた。が、それを受けてなお、紗耶香は否定的な態度を改めようとしなかった。
「指揮者なし、挙句にこの少人数で、何が出来るって言うの? これじゃ、コンクールにも出られないじゃない!」
ややヒステリックになりながら、紗耶香はなぜ自分がこの状況を否定するかを端的に述べた。成る程、自分を含めて4人しか居ないのでは、吹奏楽コンクールへの参加など到底できない。それでは、吹奏楽部に居る意味が無い……彼女はそう考えているようだ。しかし、それは間違いであると、茂が漸く異を唱えた。
「先輩が参加してくれれば、アンサンブルコンテストに出られますよ。丁度、金管4重奏が組めそうですから」
「え……?」
その発言に、紗耶香は本気で驚いていた。彼女は指揮者を置かず、ごく少人数で構成できる演奏の形態がある事は知っていた。が、それを公式のステージで発表する機会がある事は、知らなかったようである。
「あれ? もしかして先輩、アンコン知らないんですか?」
「あ、アンサンブルは知ってるわよ。けど、コンテストがあるのは知らなかった……」
まさに、目から鱗と云う奴であろう。確かに、大編成を以てステージに臨む事は、現状では不可能だ。しかし、金管4重奏であれば、このメンバーでも実現可能である。優秀な指導者が居れば演奏の完成度も高いものになるであろうが、必須ではない。小川が指導者として役に立たなくとも、その方向であれば自主的に活動できていた筈だ……と、紗耶香は今までの自分が如何に無知であったかを知って、酷く赤面していた。
「……もっと詳しく、教えてくれるかしら?」
漸く紡がれたその一言を、悠志たちは快く受け止めた。尤も、最初から否定するつもりも無かったのであろうが……ともあれアンサンブルコンテストという新たな目標を見つけた事で、紗耶香のモチベーションは大きく上向いたようだ。彼女はポケットの中に用意していた退部届を取り出すと、それを皆の前で破り捨て、照れ臭そうに『宜しく』と微笑んでいた。
(さぁて、これで体裁は整ったかな。マジでギリギリのレベルだけど……ま、何とかなるだろ)
指導者たる顧問は居らず、人数も最低限。オマケに、そのうちの一人は未経験者。まさに、ゼロからのスタートと表現するに相応しい状況である。が、モチベーションの低い人間を叩き直す手間が掛からない分、却って楽だと判断したのか。悠志の表情は明るかった。ともあれ、こうして和泉中吹奏楽部は、新たな一歩を踏み出したのであった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます