§5

 時計の針が5時を指した時、スピーカーからチャイムが聞こえた後、下校を促すアナウンスが流れた。閉門の時刻が近いので、部活や委員会の活動を終了させて、帰宅せよという合図である。

「あー、もう夕方かぁ。仕方ねぇ、今日は終わりにしよう」

「時間たつの早いね、全然わからなかったよ」

 かなり夢中になって練習していたのだろう、彼らはすっかり時間の経過を忘れていたようだ。が、校内放送は容赦なく彼らを急き立てていた。

「はいはい、分かりましたよ……っと、鏡見てみ? マッピの跡が付いてるぜ」

「え? あー、ホントだぁ」

 窓ガラスに映る自分の顔を見て、由奈は驚いていた。然もありなん、唇の周りにリムの形に沿って薄赤い跡が付いているのだ。女子としては些か恥ずかしい絵面だろう。

「これ、残っちゃうかなぁ?」

「10分もすれば消えるから、心配しなくて大丈夫。ケガした訳じゃ無いからな」

 由奈はその跡が気になったようだが、金管楽器の奏者なら誰でもなるものだと説明されて、納得したようだ。と、そんな会話をしている間に、悠志は楽器を片付け終わっていた。

「気になるなら、濡れたハンカチ当てとくといいよ。冷やすと早く消えるから」

「あ、そうなんだ。じゃ、ちょっと水道のとこ行ってるね」

「そこで待っててよ、すぐ追い掛けるから」

 その返答に頷くと、由奈はパタパタと小走りに水道の方へ向かった。顔に付いた跡だけに、よほど気になるのだろう。

(それ程、頑張って吹いてたって事だよな……あんなに一所懸命になれる奴も居るのに、ドレミの奴め!)

 小川の顔を思い浮かべ、それに向かって悪態を吐きながら、悠志は準備室の扉を施錠した。そして由奈が居るであろう水道の方へ向かう途中、彼は渡り廊下の曲がり角で、何やら呟きながらウロウロしている男子生徒の姿を見つけていた。

「おいアンタ、そんなトコで何やってんだ?」

「……!!」

 悠志の呼び声に驚いて、その男子は慌てて身を翻し、逃げるように走り去ってしまった。そこへ、その声を聞きつけた由奈が、濡れハンカチを口に当てながら駆け寄って来た。

「何かあったの?」

「うん、その角のトコでウロウロしてる奴が居たんだけど……何やってたんだろうな?」

 その男子の事が気にかかるのか、悠志は考え込んでしまった。が、再び流れ始めた校内放送を聞いてハッと我に返り、由奈を連れて職員室へ向かった。勿論、その時すでに小川の姿はなく、数名の教員が残っているだけだった。


* * *


「おーい、鎚矢ー! 1組の奴が呼んでるぞ」

「あ? ……はて、1組に知り合いなんか居ない筈だけど」

 呼び声に応じた悠志が出入り口の所まで行ってみると、そこにはメガネを掛けた、気難しそうな顔立ちの男子が立っていた。が、悠志はその顔に見覚えがあった。

「あ、もしかして昨日の?」

「……あの時はゴメン、ビックリしちゃってね。僕は1組の森戸茂、用件は……これを見れば分かるかな?」

 そう言って、茂は小さなトランクのような箱を悠志の前に差し出した。それを見て、悠志は思わず歓喜の声を上げた。そう、彼が持っていたのは、トランペットのケースっだったのだ。

「それじゃ、昨日あそこに居たのは……何でもっと早く来てくれなかったんだよ」

「吹奏楽部が活動してるなんて、知らなかったんだ。入学式の後、すぐに顧問の先生に会いに行ったんだけどね。吹奏楽部は今年度いっぱいで廃部になる、だから入部は受け付けていない……そう聞いたんだ」

 茂の言葉を聞いて、悠志はギョッとした。馬鹿な、俺はそんな話は聞いていないぞ? と。

「一応、確認すっけど……その先生って、メチャクチャ気の強そうな女?」

「うん、キツそうな女の先生だった。で、僕も最初は『まさか』と思ったんだけど、夕方まで待ってみても楽器の音が聞こえてこなかったからね。その言葉を信じちゃったんだ」

 入学式の直後? と、悠志はその日の事を思い出してみた。成る程、その日は彼も準備室で追い返されたので、楽器は吹いていなかった。音がしなくて当然である。

「ところが、昨日。4階の音楽室から、トロンボーンの音が聞こえて来た。それで、また『まさか』と思ってね」

「じゃあ、何で音楽室に来なかったんだ? 聞いての通り、練習してたのに」

「音楽室の前までは行ったよ。けど、二人だけしか居なかったからね」

「う……」

 その回答に、悠志は言葉を詰まらせた。それはそうだ、たった二人だけしか居ない練習風景を見て『活気がある』と思う者は、まず居ないだろう。廃部になるのを待つだけとなった2年生か3年生が、細々と活動しているのだと勘違いされても不思議ではない。それでは小川の言う事を信じて、回れ右をするのも道理である。

「そっか。それで、中には入らずに帰っちゃったんだな?」

「そうなんだ。けど、音楽室から出て来たのは、1年生の女子だった。それで、あれっと思ってね。その女子に声を掛けようとしたんだ。けど、何と言って近付けばいいか、迷ってね」

「あー……だから、あんな所でウロウロしてたのか」

 悠志がそう答えると、茂はコクリと頷いた。成る程、小川に廃部決定と告げられた後、聞こえる筈のない楽器の音を聞いて。その真偽を確かめに来たら、居る筈のない1年生が居た。これでは、混乱して言葉を失うのも無理からぬ事だろう。

「……なぁ。どうして、同じ1年生の君たちがあの場に居たんだ? 入部は受け付けてない筈じゃないか?」

「そんなの、嘘に決まってるだろ。あの女は吹奏楽部を潰したがってるから、部員を増やしたくないんだよ」

「え!? ……じゃあ、部員が増えたら廃部に出来なくなるから、あんなデタラメを言ってたと……そういう事か!?」

「入部を受け付けてないなんて話、俺は聞いてないぜ。騙されたんだよ、アンタ素直そうだしな」

 悠志の回答を聞いて、茂は怒りの形相を浮かべ、わなわなと震えていた。然もありなん、此処まで馬鹿にされれば、頭にきて当然であろう。

「……放課後、きのう見学に来てた女子が入部届を出しに行くのに、付き合う約束してんだ。一緒に来いよ、おもしれーモンが見れるぜ」

「面白いもの?」

「ああ。俺たちをコケにしまくった女が、メチャクチャ悔しがるところをな」

 それは是非見たい! と、茂は笑みを浮かべた。無論、彼も悠志も、普段ならこのような事は考えないだろう。しかし、小川の行動に対して、この程度の『仕返し』は、許される筈だ……悠志はそう判断していた。

「放課後また、ここに来てくれ。入部届、忘れずに書いて来いよな」

「大丈夫、ここに入ってる。じゃ、楽しみにしてるよ」

 そうして約束を交わすと、茂は自分の教室へ戻って行った。そして悠志は、これでどうにか廃部だけは免れる……と、安堵の表情を浮かべていた。

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