第3話

 圭佑は深夜11時に私のアパートにやって来た。アパートはオートロック。チャイムが鳴ったので、ボタンを押して電子式のロックを外した。

 彼は酒を飲んでるのか顔が少し赤かった。足取りはしっかりしていた。彼は洗面所で手と顔を洗い、ソファでニュースを見てる私に話しかけた。

「どういう風の吹き回し?」

「エッチしてあげるからお金くれない?」

 私は『すずらん荘』がいかにブラックかを説明した。即日に内定される、絶えず求人募集をしてる、辞める人が多い。私が入ってから3ヶ月も経ってないのに3人が辞めた。入ったのは1人だけ。残業が増えた。

「転職活動すりゃいいじゃん?」

「簡単に言わないでよ」

 圭佑は黒革の財布の中身を見た。千円札を2枚抜いた。

「え〜、それだけ?」

「教師って意外に給料少ないんだ」

「まっ、それで許してやるよ」

 圭佑は私の隣に座った。私はスラックスの上から彼のアソコを撫でた。圭佑は鼻息を荒くしながらキスをしてきた。私は舌を絡めた。アルコールの芳香が口内に広がった。

「スゴい、固くなってるね」

 久々のセックスは痛かった。圭佑のアソコがギンギンに勃起していたのが原因なのか?それとも、こっちが乾いてるのが悪かったのかな?

 エッチの後、私の頭を腕に乗せ神戸の歴史について語りだした。

 かつて、神戸の海岸地域には京・大坂の外港・経由地として栄えた兵庫津ひょうごのつと呼ばれた港があった。遣隋使の時代には、すでに港は開かれていたが、平清盛により経が島の近くに都である福原京が計画された前後に貿易の拠点として整備され大輪田泊おおわだのとまりと呼ばれたことがその発展の始まりとされる。律令制では、畿内の西部、五畿内のひとつ摂津国に属していた。現在の垂水区、西区、北区(北神)の淡河町、須磨区の神戸総合運動公園・神戸流通業務団地の区域は播磨国であった。


 兵庫津には戦国時代の短い期間、兵庫城が存在していたが、安土桃山時代に豊臣氏の直轄地となり、兵庫陣屋と呼ばれるようになった。大坂の陣後に尼崎藩が立藩されると、西摂の政治の拠点は尼崎に移り、兵庫陣屋には同藩の兵庫津奉行所が置かれた。1769年の上知によって、同じく尼崎藩領だった西宮とともに兵庫津は幕府直轄領となり、兵庫陣屋には大坂町奉行の兵庫勤番所が置かれた。港は北前船や尾州廻船の中継地の一つで廻船問屋が軒を連ねていた。北西部には西国街道が通っており、西宮宿(現在の西宮市)と大蔵谷宿(同じ兵庫県の明石市)とを繋ぐ宿場があった。兵庫津は宿場町の岡方と港町の浜方から成り、浜方は築島付近を境に北浜と南浜に分かれ、岡方・北浜・南浜の三方の自治組織が存在した。本陣は岡方に存在したが、諸藩の大名との関係が密接な有力商人たちが南浜に競って建てた「浜本陣」の利用が江戸時代中期以降は漸増した。


 江戸幕府が欧米と締結した条約では兵庫港を外国船に開港することが規定されていたが、実際には3㎞東の神戸村が開港場となり、1868年に外国人居留地や港が造られ、1879年に勅令により「神戸港」となった。その後、日清戦争・第一次世界大戦を経て上海・香港・シンガポールと並ぶアジアの主要な貿易港として発展を続けた。1874年には新橋駅 - 横浜駅間に次ぐ日本で2番目の鉄道として大阪駅 - 神戸駅間の東海道本線(現在のJR神戸線)が開業した。一方、港と共に造船・鉄鋼・機械を中心とした工業も発達し、阪神工業地帯の中核を担う日本有数の重工業都市に成長した。「兵庫」と「神戸」は元来別々の町村であったが、神戸の拡大・発展に伴い、兵庫が神戸に飲み込まれる形で一つの都市として一体化していった。当時、市内で最も繁華であった新開地は「東の浅草、西の新開地」と称されるほどの繁栄であった。1922年には六大都市に指定された。

 

 太平洋戦争末期、他の諸都市同様に米軍の重要な戦略目標であった神戸はB29による度重なる空襲を受け、当時の市街地・工業施設・港湾施設の大半を破壊・焼失し、多くの犠牲者を出した(神戸大空襲)。


 戦後の高度経済成長期には、市街後背部の山地より削り取った土砂を用いてポートアイランドや六甲アイランドなどの人工島を臨海部に埋立造成し、商工業・住宅・港湾用地として整備するとともに、埋立用土砂採取後の西区や北区の丘陵地を西神ニュータウンなどの住宅地・産業団地として開発した。この一連の施策は「山、海へ行く」と呼ばれ、都市インフラの拡充・整備が大きく進むことになった。1981年のポートアイランド第一期竣工時には、地方博ブームの先駆けとなる「神戸ポートアイランド博覧会(ポートピア'81)」を開催して成功させるなど、これらに代表される都市経営手法は、「株式会社神戸市」と称され全国の市町村から自治体経営の手本とされた。また、高度成長期以降に複数の鉄道路線が集結するターミナル駅の三ノ宮駅・三宮駅周辺に次第に商業機能や県庁・市役所といった行政機能が集積していき、三宮は新開地を抜いて市内最大の繁華街に成長した。神戸港は商業や工業が集積する大阪に近いこともあり、近代以降も国際貿易の拠点として規模を拡充した結果、1970年代には阪神工業地帯の輸出港として海上コンテナの取扱個数が世界一になるなど世界有数の港湾として知られていた。


 阪神・淡路大震災が1995年1月17日に発生し、神戸市内は甚大な被害を受けた。震災での被害による港湾機能の麻痺や、震災以前からの製造業の生産拠点の海外移転によって、国際貿易港としての相対的地位は低下した。震災復興によるインフラの再整備により貿易額は回復する傾向にあり、日本を代表する港湾都市の一つとして存在感を維持している。

 

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る