藍子は走りながら足がもつれて、道路に転んでしまった。

 転んだ拍子にカバンの中からスケジュール帖とタロットカードを入れておくポーチがこぼれ落ちて、道路に散らばる。


 藍子は起き上がってポーチを拾いながら、ポーチに入っている須佐の『後悔したら、使って』と書かれたメモを思い出した。


 私も後悔したくない、と藍子は思った。

 さっきは龍司を救えたから良かったものの、これからも自分の特殊な体質で誰かを救えるような場面がいくつも出てくるかもしれない。

 須佐のように救えるのに救えなかったと後悔をしないために、大切な人や周りの人を救うためにこれから自分に何ができるのだろうか。


 藍子は考えながら、ポーチと一緒に道路に落ちたスケジュール帖を拾い上げようとした。

 スケジュール帖はちょうどバイト先の占いサロンの個室が荒らされてしまった日付のページで開いて落ちている。

 藍子は落ちているスケジュール帖を拾い上げて、中に書きこんである自分の手書きの文字に何気なく目を通した。


(えっ?)

 藍子は慌ててスケジュール帖を見直した。

 そして、占いサロンの自分の個室が荒らされた日に、受付のスタッフが言っていた言葉を思い出した。

(18時に更科さんがいると見たから予約したいって電話があったんですけど、今日更科さんは18時は出番じゃないですよね?)

 確かに最初は18時が自分の出番の予定だった。でも、後から時間が変更になったのだ。

 用心深い藍子は、バイトの予定はいつもスケジュール帖とスマホのカレンダーに登録している。

 バイトの出番の時間が変更になった時、スマホのカレンダーを変更した記憶はあるがスケジュール帖の時間を書き直した記憶がない。

 スケジュール帖を見てみると、変更になる前の時間が書いてある。

 バイトの出番の時間が変更になった後に、スケジュール帖の時間を書き直すのを忘れていたのだ。


 サロンに18時に藍子がいると聞いて電話してきた人は、このスケジュール帖の手書きの時間を見て電話して来たのだろう。


 そうだったのか、と藍子は気づいた。

 このカバンに入っているスケジュール帖を見た可能性があるのは、あの人だけだ。

 藍子のカバンをひったくった、龍司が「神子島かごしま」と言っていた、あの男だ。


 神子島は誰かに金をやるからと言われて藍子のカバンをひったくったと言っていた。

 でも、龍司は「あいつ、俺が追い付いた時にカバンの中を探っていたんだ」と言っていたし、もし神子島の話が本当なら、どうしてひったくってすぐ依頼された誰かにカバンを渡さず、中身を探ったのだろうか。

 もしかすると、財布の中のお金が目当てだった可能性もあるが、財布の中が荒らされているような感じはなかった。


 やっぱり、カバンは神子島が何らかの理由で、自分の意思でひったくったのではないだろうか。


 藍子はスケジュール帖を拾い上げて立ちあがると、今いる場所が前に龍司が神子島を取り押さえた路地裏の近くだと気付いた。

 藍子は胸騒ぎがして、神子島が取り押さえられた路地裏へと吸い込まれるように歩いて行く。


 路地裏の入り口へ行くと、足元に何かの気配を感じた。


 藍子が足元に目を向けると、二匹のアメリカンショートヘアの子猫がいる。

 双子らしく、合わせ鏡をしているかのように何から何までそっくりだ。

 二匹の子猫は同じ仕草で藍子を不思議そうに見上げると、踵を返し路地裏の中へと走って行った。

 藍子も子猫を追うように路地裏へと入って行った。


 路地裏に入ると、奥に見覚えのある自転車が停まっているのが見えた。

 そして、自転車の横に見覚えのある男が立っている。

 自分のカバンをひったくった、神子島かごしまだ。


 藍子は思わず後退りしようとしたが、身体が金縛りにあったかのように動かない。

 自分の鼓動の音だけが、やけに耳元でうるさく聞こえる。

 藍子は前に神子島をこの路地裏で見かけた時も、身体が動かなくなり龍司に電話さえできなかったことを思い出した。


 今度も自分は何もできないのだろうか、と藍子は思った。


 でも、自分のスケジュール帖を見て、占いサロンに電話を掛けてきたのは、あの神子島に違いない。神子島が自分の周りに起きた奇妙な出来事に関係があるとすれば、ICチップを盗みだしたのもあの神子島だろう。

 今、何もしなければ、絶対に後悔する。

 藍子が覚悟を決めると、金縛りが溶けたように身体が動くようになった。


 藍子が神子島に近付こうと一歩踏み出すと、いつの間にか足元にさっきの双子のアメリカンショートヘアがいる。

 足元にまとわりついて、行く手を阻まれてしまう。

 藍子が子猫に戸惑っていると、路地裏の中から声が聞こえた。

「エディ、アンソニー、おいで」

 子猫二匹の名前だろうか。双子の猫は声にすぐ反応して、声の聞こえた神子島の方へとまっしぐらに駆けて行った。

 そして、子猫の一匹は神子島の右肩に、一匹は神子島の頭の上に飛び乗った。


 頭と肩に子猫を乗せた神子島は藍子に近づきながら、藍子を真っすぐに見た。

 この男の人、どうしてこんなに私の顔をまじまじと見つめてくるのだろう、と藍子は思った。

 やっぱり、自分に似ていると思っているのだろうか。


「あの」

 猫が去って足元が自由になった藍子は、一歩神子島に近付きながら言った。

「何?」

 神子島が訊き返してきた声は、どんな感情も含まれていない無機質な声色だった。

 藍子はたじろぎそうになったが、頑張って次の言葉を繋いだ。

「あの、私のカバン、誰かに頼まれたんじゃなくて、あなたが何か目的があってひったくったんじゃないかと思って」

 神子島は無表情のまま、ただ黙って藍子を見つめている。

「それと、私のスケジュール帖を見て、サロンに電話をかけてきたのもあなたなんじゃないかと思って。後、他にもいろいろとそういうことがあって」

 神子島は無言で藍子を見つめ続けていたが、やがて藍子から視線を逸らすと顔を下に向けた。


 次に顔を上げた神子島の表情を見て、藍子は思わず息をのんだ。


 さっきまでとはまったく別人のような人間がいる。

 自分のカバンをひったくって龍司に捕まっていた時の気弱そうな表情とも、さっきまでの無表情とも違う、まったく別の人間がいた。

 口元には笑みを浮かべているが、目つきは鋭く目が全然笑っていない。

 表情は自信に満ち溢れているようにも見えるが、触れたら思わず手を引っ込めてしまいそうなほど冷酷そうにも見えた。

 この表情、そうだ、龍司の一瞬の隙を見て逃げ出した時に見せた、あの不敵な笑みを浮かべていた時の表情と同じだ。

 神子島の突然の変わりように、藍子は声が出せなくなった。

 でも、神子島は冷静だ。口元に笑みを浮かべながら右肩に乗っている子猫の背中をゆっくりと撫でる。


「そうだよ」

 神子島の口から出てきた声も、カバンをひったくった時に弁明していた声とは全く違った。張りのある、堂々とした声だった。

「やっぱり、あなたが?」

「うん。突然いろんなことが起きて、びっくりしたんじゃない? まあ、大概は俺が仕掛けたんだけど。カバンひったくったのも、誰かに頼まれたわけじゃないよ。君がバイトしている店に電話したのだって。まさか、スケジュール帖に書いてあった時間が間違っていたなんて、思わなかったけど」

「大概って、やっぱり、あなたが私のカバンからICチップを取ったの? 私の家の庭に忍び込んだり、さっき天尾さんに植木鉢を落とそうとしたり、めぐみの友達を監禁したりしたのもあなたなの?」

 神子島は口元に笑みを浮かべたまま、リーバイスのジーンズのポケットからICチップを取りだして藍子に見せた。


 やっぱり、ICチップを盗んだのはこの男だったのだ。


 藍子は思わず神子島に駆け寄ってICチップを奪い取ろうとしたが、神子島は身をひるがえして藍子を軽々と阻止した。

「いくら昔、世話になった人からもらったものだからって、こんなの、いらないだろう? 

 そうだよ、全部俺がやったんだよ。ただ、あの派手な服を着た女の隣にいた女の子は、君と間違えてしまったけどね。だから、あのビルの2階で大人しくしてもらったのさ」

「あなた、やっぱり須佐さんを知っているのね?」

 藍子の問いに、神子島はゆっくりと頷いた。

「知っているよ、ものすごく良くね。君のことだって調べがついているんだ。だから、近付いたんだよ。さっき、あの男の頭の上に植木鉢を落としたけど、君は落ちてくるのに気付いたよね? 俺が捕まえた男の心の声が聞こえたからだろう? 君を試したんだよ。

 もう少し調べてから言おうと思っていたけど、まあ、今でも良いか。何でこんなに俺がべらべらと自分のやったことをしゃべるのか、理由わかる?」

「理由って?」

 確かに、神子島がこんなにも自分のやったことを躊躇なくべらべらと話すのは不思議だ。

 普通、悪事を働いた人間は、こんなにも自分のやったことをべらべらとしゃべらないような気がする。

「君だったら、俺の仕事を手伝ってくれると思ったからさ」

「仕事を手伝う?」

 藍子は神子島が龍司と同じように仕事を手伝うと言ってきたので驚いた。 

「そう、君みたいに誰かの心の声が聞こえる体質や未来が見える体質を消す仕事だよ」


(心の声が聞こえる体質を消す仕事)

 藍子は思わず神子島の顔を見上げた。

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