⑨
龍司はグラジオラスの花束を抱えて藍子の先を歩きながら、再びさっきの続きを話し始めた。
「やっぱり、両親のところに帰るのが怖いのかなって思った。虐待されていたから怖がるのは当たり前だからね。でも、両親は引き取ると言っているし、俺は連れて帰るなんてできない。そんなことをしたらもうボランティアには行けなくなるし、悪いとは思ったけど断ったんだ。『明日には君のご両親が迎えに来るからね』って。
俺がそう言うと、その子は何だか思い詰めた感じでうつむいていたな。その子の表情がすごく気になったけど、俺は何もできないまま帰ったんだ。
その子がいなくなった後も施設にはボランティアをしに行ったけど、時間が経つに連れてその子のことはだんだんと忘れそうになっていた。
で、何か月か経った後、朝、テレビでニュースが流れてきたんだ。その子が亡くなったってニュースが」
「えっ?」
藍子は思わず声を上げた。
「その子、両親に引き取られたけど、また虐待されて、結局亡くなってしまったんだ。その子が亡くなった直接の原因は、両親の虐待かもしれない。でも、『僕も一緒に連れて行ってほしい』と言われた時に、俺がその子を本当に連れて行っていたら亡くならなかったのにって、いまだに思っている。
その子が笑顔で話せるようになった時は、本当に嬉しかったよ。でも、その子が亡くなったのを知って、さっき藍子ちゃんが言ったように自分をすごいと思ってもらいたいから、その子と一緒に遊んで、話せるようにしたんじゃないかって思った。自分は偽善者なんじゃないかって。その子のことなんて、何にも考えていなかったんじゃないかって。『僕も一緒に連れて行ってほしい』と言われた時、本当に連れて行ったら、もうボランティアには来られないって思ったしね。
その子が亡くなった後もボランティアには行ったし、働くようになってからはその子がいた養護施設に寄付もするようになった。事務所の元所長があの施設に前々から寄付をしていて、それがきっかけで高校生の頃から事務所を手伝うようになったんだ。元所長は俺の話を聞いて、『なら、この事務所を手伝え、一緒に寄付しよう』って言ってくれたんだよ。
でも、そうやっていろいろとやっていても、その子を救えなかったと言う事実は消えないし、やっぱり自分は偽善者なんじゃないかと思っている」
龍司は小さな墓石の前で立ち止まると、持っていたグラジオラスの花束をそっと置いた。
花束を置いた墓石は見落としてしまいそうなほど小さいのに、キレイに磨かれている。周りに雑草みたいなものも生えていない。
龍司は来る前に「花束、そこの花屋さんで毎月作ってもらっているんだ」と言っていたが、きっと毎月お墓参りを欠かさずに行っているのだろう。
藍子も龍司もしばらくの間、墓石を前にして黙っていた。
「そんなこと、ないです」
先に口を開いたのは藍子だった。「そんなことないです。天尾さん、偽善者じゃないです。いくら連れて行ってと言われても、明日両親に引き取られる子どもを誰も連れてなんて行けないです。
その子が亡くなったのは全部虐待した両親のせいで、天尾さんのせいじゃないです。第一、医者にも心を開かなかった子どもが、偽善者に心を開くわけがないです。天尾さんは偽善者じゃないです」
龍司が驚いた表情で藍子を振り返る。
龍司も驚いた表情をしているが、藍子も自分に驚いていた。
さっき、龍司にかけた言葉、自分でも驚くくらい強い口調だった。
少し前に付き合っていた男の子に振られた時でさえ、相手に悲しいとか悔しいとかいう感情をぶつけなかったのに。
自分のどこにこれだけの強い感情が眠っていたのか、と藍子は驚いた。
龍司はしばらく藍子を見下ろしていたが、やがて口を開くと「ありがとう」と言った。
「あの、もしかして、その養護施設って、仕事の依頼があったクライアントが寄付をしている養護施設ですか?」
藍子が落ち着きを取り戻した声で言うと、龍司は頷いた。
「そう。だから、昨日言ったみたいに、別に俺は強くないんだ。俺がその養護施設がなくなるのがいやなのは、今話した個人的な理由からなんだよ。せめて、その子が楽しく過ごした養護施設を残しておきたいという気持ちがあるから、あの養護施設がなくなるのがいやで怖いんだ」
「いやで怖い」
それって、自分が他人の心の声が聞こえるのがいやで怖いと感じているのと同じだ、と藍子は思った。
「うん。藍子ちゃんも心の声が聞こえるのがいやだって言っていたし怖いんだろうけど、俺も同じだよ。別に強くないんだ。でも、別に強くなくたって、偽善者だって良いと思っている」
「どうしてですか?」
「だって、俺の個人的な理由でも、あの養護施設が残れば施設にいる子どもたちは今まで通りの生活ができるし、偽善者のやったことでも、あの一言もしゃべらなかった子は一時的にでも楽しく過ごせたし。別に強くなくても偽善者でも、それで救われる人がいるんだったら、それはそれで良いと思ってる。だから、藍子ちゃんも」
龍司は黙って話を聞いている藍子に一歩近づく。
藍子は見上げている龍司の瞳の色が薄い茶色から濃い緑色に変わるのを見て、何だか龍司と目を合わせられないような気持ちになった。
でも、龍司の瞳から目が離せない。
「だから、藍子ちゃんも誰かの心の声が聞こえるのが怖ければ、怖いままで良いと思うんだ。怖がっている自分や強くない自分を責めたりしなくても良いと思う。そうやって、思い詰めた感じでうつむかなくても良いと思うよ」
藍子の頬に雨粒が一つ当たった。
さっきまでは晴れ間も覗いていたのに、いつの間にか空が濃い灰色に煙っている。
藍子の頬にもう一つ雨粒が当たると、それが合図だったかのように大粒の雨が次から次へと空から降ってきた。
「降ってきたな。取りあえず、車に戻ろうか」
「はい」
藍子は龍司の後について、駐車場への道を走り始めた。
そして、走りながら頬に当たった雨粒を手の甲でぬぐった。
今、手の甲でぬぐったのは、雨粒なのだろうか、それとも自分の涙なのだろうか。
藍子は龍司の後ろを走りながら、やっぱりこの人は強い人だと思っていた。
自分はただ怖がっているだけだ。でも、この人は怖い気持ちがあったとしても、ちゃんと何かしようとしているし、実際に何かをしている。
そして、自分の弱さを見せてまで、誰かを励まそうとしてくれる。
誰かの心の声が聞こえるのが怖いままで良いなんて、怖いと思ってしまう弱い自分のままで良いなんて考えもしなかった、と藍子は思った。
突然降り出した雨は、相変わらず藍子の身体に降り注いでいる。
でも、今のままの自分でも良いんだと思うと、藍子は自分の心の中に何か明るくて温かいものが降り注いで来るような、そんな気持ちになった。
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