⑧
藍子がグラジオラスの花束を持った龍司の後ろをついて行くと、ビルの地下の駐車場に着いた。
龍司は紺色のホンダのフィットの前で止まると、助手席のドアを開ける。
藍子は礼を言って助手席に乗り込んだ。
「あの、これからどこへ行くんですか?」
「お墓参り」
龍司が答えながら、後部座席に花束をそっと置く。
やっぱりこの花束は仏花だったのか、と藍子は思った。
「誰のお墓参りなんですか?」
「前に話したことがある、一言もしゃべらなかった子のだよ」
以前、新潟駅へ向かう傘の中で話してくれたあの子だと藍子は思い出した。
藍子が心の声が聞こえることを考えている時、うつむく表情が似ていると龍司が言っていた、あの一言もしゃべらなかった子だ。
(だから、あの子と同じでいろいろなことを受け入れられないのがつらいのかな、と思って)
藍子は龍司の言葉を思い出した。
「あの一言もしゃべらなかった子って、亡くなっていたんですか?」
「うん」
龍司は静かに頷いた。
藍子は龍司の表情が一瞬曇ったように見えたのは気のせいだろうか、と思った。
でも、表情が曇ったように見えたのは、車のエンジンをかけるために視線を下に向けたせいなのかもしれない。
藍子が考えている内に、龍司はいつもと変わらない表情のまま顔を上げると、車を発進させた。
「そう、だったんですね」
藍子は何となく、その一言もしゃべらなかった子がもうこの世にはいないのではないかと感じていたが、やはりそうだったのかと思った。
これも藍子の勘だった。
一言もしゃべらなかった子を話す時、龍司に何か翳りのようなものを感じたのは、その子が亡くなっていたのも理由なのだろう。
「うん。ちょっと話が長くなるけど、その一言もしゃべらなかった子の詳しい話、してもいい?」
「はい」
藍子が返事をすると、龍司は車を運転しながら話し始めた。
「俺の母親、昔から慈善活動に熱心なんだ。小さい頃から休みの日に母親に連れられて養護施設とか教会とかにボランティアしに行っていたんだよ。久住さんの実家って教会だけど、ボランティアしに行った時に知り合ったんだ。
中学生くらいになったら、母親について行かなくても勝手に一人でボランティアに行くようになっていた。学校でも課外授業でボランティアしに行っていて、母親ほどじゃないけど、結構熱心にやっていたんだ。
高校一年の時、良く行っている養護施設に一人の男の子が入ってきた。
その子、親に虐待されて、精神的なショックで一言も話せなくなっていたんだ。ずっとうつむいて目を伏せて、誰にも心を開こうとしなかった。もちろん、俺にも」
「その子が、この間話していた一言もしゃべらなかった子なんですね?」
藍子が言うと、龍司は前を向いたまま小さく頷いた。
「養護施設って、その子みたいに精神的ショックを受けた子がいっぱいいるんだよ。でも、大概の子は時間が経てば、職員とか俺みたいなボランティアの人間に多少は心開いて行くけど、その子は時間が経ってもずっとうつむいたまま。生まれつきしゃべれないんじゃないかっていう程、一言もしゃべらなかったんだ。
職員の人も医者も諦めかけていたんだけど、俺はその子がどうしても気になってね。施設に行くたびに話しかけたり、一緒に遊んだりしていた。
そうしている内に、その子はだんだんとうつむいている時間が少なくなってきて、笑顔を見せるようになって、最後には人としゃべられるようになったんだ」
藍子は龍司の話を聞きながら、やっぱりこの人はすごいな、と思っていた。
ここ何日か一緒に過ごしてきたが、龍司の人間としてのスキルには目を見張るものがある。
見た目も良くて、頭も良くて、行動力もある。
全てが完璧に見える。
昨日は「別に俺は強くない」なんて言っていたが、やっぱり強い人間なんだろうなと藍子は改めて感じた。
「やっぱり、天尾さんってすごいですね」
藍子が感心して言うと、龍司は藍子に少しだけ視線を向けたが、すぐに正面に向き直った。
「その子が他の子と元気に遊べるようになった頃、両親がその子を引き取りに来たんだ。虐待していたのに引き取るなんておかしいなって思ったけど、引き取りたいって言うくらいだから心を入れ替えたんだろうなって、その時は思っていた。
その子が施設を出る前の日、お別れの挨拶をしに行ったんだけど、俺が『元気でね』と言って帰ろうとしたら、その子が俺を追いかけて来て言うんだ。
『僕も一緒に連れて行ってほしい』って」
車が駐車場に停まった。目的地に着いたらしい。
龍司が後部座席の花束を取って運転席のドアを開けると、海の匂いが流れ込んで来る。
藍子も助手席のドアを開けると、龍司に続いて車を降りた。
車から降りると、少し離れたところに日本海らしい灰色の海が見える。海の手前には、墓石が並んでいるのも見えた。
龍司が先に墓石の方へと歩き始めたので、藍子も龍司の後ろ姿をついて行った。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます